スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

平安賞&観念の十全性

2012-10-05 18:31:06 | 競輪
 台風の影響で最終日が順延となり,1日に争われた向日町記念の決勝。並びは長塚ー荻原の東日本,金子ー鳥越の愛知,村上義弘ー村上博幸の兄弟,荒井-岩津の西国で,野田は単騎。
 愛知のふたりがスタートを取りにいき,金子の前受け。続いたのが村上兄弟で,5番手に長塚,7番手に荒井で野田が最後尾で周回。残り3周のバックから荒井が上昇,野田が続かず長塚がこの後ろへ。荒井は残り2周のホームで金子を叩いて先頭に。金子が引いて5番手も,村上義弘がそこまで上がって打鐘。この5番手の取り合いは村上で金子は8番手。結局は荒井の抑え先行のような形に。これをバックから3番手の長塚が捲るとあっさり飲み込み,そのまま後ろを寄せ付けずに優勝。先に動いた村上義弘に封じられる形でマークを外した荻原に代わってスイッチした岩津が2着。3着は村上義弘。
 優勝した茨城の長塚智広選手は先月の青森記念に続くGⅢ6勝目。ここは現状の力は最上位と思われ,好勝負は間違いなしと思っていました。3番手を簡単に確保できましたので,その時点でほぼ優勝は決まっていたといってもいいのではないでしょうか。野田が荒井ラインを追走してこなかったのはラッキーでしたが,たぶん4番手でも問題なかったものと思います。

 まずは,一般的に十全な観念と混乱した観念が,現実的なものとして解釈されるとき,『エチカ』でその事情がどのようになっているのかということを確認しておいた方がよいでしょう。
 第二部定理一一系の意味によれば,Aの精神の本性に変状した限りで神のうちにXの観念があるというとき,Aの精神はXを十全に認識します。いい換えればAの精神のうちにはXの十全な観念があるわけです。一方,Aの精神の本性に変状するとともにほかのものの観念も有する限りで神のうちにXの観念がある場合には,AはXを混乱して認識します。つまりAの精神のうちにXの混乱した観念があるのです。
 ただし,ここで気を付けなければならないのは,後者の場合,Xの混乱した観念があるのはあくまでもAの精神のうちなのであって,神のうちに混乱した観念があるというわけではありません。この場合,Xの観念が生じる原因は,Aの精神と何かほかのものの観念の双方であると理解するべきだと思いますが,神のうちにはそれらすべての観念があるということになっていますから,第一部公理四により,このXの観念が神のうちにあるとみられる場合にはむしろそれは十全な観念です。いい換えれば,Aの精神の本性を構成するとともにBの観念を有する限りでXの観念が神のうちにあるという場合,神のうちにはXの十全な観念があるのですが,Aの精神のうちにはXの混乱した観念があるということになるのです。このことから理解できるように,別に第二部定理三二第二部定義四を持ち出すまでもなく,観念は神のうちにある限りは必然的に十全であるということになるのです。
 神の知性というのは無限知性です。よって,観念は無限知性のうちにある限りは必然的に十全です。しかしスピノザの哲学における知性とは観念の総体のことなのですから,無限知性の外部にあるような,いい方を換えれば無限知性を超越し得るような観念というのは存在しません。このことは第一部定理一五からもそうであるといわれなければならないでしょう。よって,第一義的には観念はすべて十全な観念なのです。なのでこれがそのまま第二部定理九に応用できるなら,何の問題もないということになるでしょう。
コメント
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