スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

凱旋門賞&留意点

2012-10-12 18:41:51 | 海外競馬
 日本時間で7日の午後11時半前の発走となった凱旋門賞GⅠ芝2400mには,前哨戦のひとつであるフォワ賞を勝ったオルフェーヴルと,帯同馬のアヴェンティーノが揃って出走しました。
 出走したのは18頭で,オルフェーヴルにあてがわれたのは18番枠。無難な発走から控え,後方の2,3番手を追走。ほかの陣営がペースメーカーを用意していたこともあったでしょうが,アヴェンティーノは逃げず,オルフェーヴルの2,3馬身ほど前に位置。陣営の意図がどのようなものであったか定かではありませんが,オルフェーヴルはレースで逸走したこともありましたので,そうならないようにガードする役割だったかもしれません。
 最後の直線に入る前にアヴェンティーノは一杯。1頭だけ馬群の外に馬を持ち出し,最下位での入線。オルフェーヴルはアヴェンティーノ以外の馬の外に出して直線を迎えました。この時点で内では追い出してもがいているような馬もいたのに対し,オルフェーヴルは騎手がほとんど手綱を動かさないまま。僕はテレビの生中継を視ていたのですが,この時点ではことによると楽勝するのではないかと思いました。オルフェーヴルはそのまま大外を漸進していき残り300m付近で先頭に。そこから追われて後ろを離したので,これは勝ったと思いました。ところがそこから右へ右へと走り出し,騎手が右から鞭を入れてもそのまま右へと走ることをやめずに最後はラチに接触。オルフェーヴルが抜け出す時点で先頭に立っていたSolemiaに,僕の競馬の常識からすれば残り50m辺りで大逆転を許し,2着でした。
 結果的には抜け出すのが早かったのですが,レースというのは相手があるものであり,3着以下を7馬身も離していることから分かるように,ほとんどの馬が早めにばててしまったからこうなったのですから,これは仕方がないことだと思います。勝ち時計が2分37秒68も掛かるタフな馬場状態だったため,最後になって苦しくなって右に走ったのかもしれませんが,たとえば渡仏以来ずっとエスコートしてくれたアヴェンティーノが視界から消え,ただ1頭で抜け出してしまったために急激に不安に襲われたというような,馬の精神状態に原因を求めたくなるような走行でした。
 個人的にいえば残念とか悔しいといった感情は皆無です。むしろこの馬が世界でも稀有な能力を持っているということが証明された満足感しかありません。どんなに高い能力があっても,個々のレースでは勝てるとは限らないのが競馬の難しさでありまた面白いところでしょう。真直ぐに走れば勝てていたのかもしれませんが,わざわざ斜めに走って2着に甘んじるというのも,何となくオルフェーヴルらしい気がしました。

 「無限に進む」ということばのうちに秘められていると思われる消極的意味を,もっと積極的な仕方で理解するということに関してのヒントを僕に与えてくれたのは,福居純の『スピノザ「共通概念」試論』でした。とりわけ参考になったのは,三章の「直接無限様態と間接無限様態」の一部分です。
                         
 その表題からも理解できますように,ここは主として無限様態に関係する事柄の考察にあてられています。これは現在の僕の考察もまったく関係しないというわけではないのですが,ここではそれに関する探究に関しては深くは触れません。興味があるという場合はそれをお読みになってください。ただ一点だけ,これに関連して僕の今後の考察のために留意しておいてほしいことを先に示しておくことにします。
 無限知性というのは,神のうちにある知性のことです。それはそれで何も間違ってはいないのですが,スピノザの哲学における無限知性というのは,ただそれだけのことを意味しているというわけでもないのです。そしてこのことが,僕が留意してほしいと思う事柄と大いに関係してくるのです。
 スピノザの哲学における知性というのは,個々の観念の総体のことです。よって無限知性,すなわち神の知性とは神が有する個々の観念の総体のことになりますし,ある人間の知性というならば,それはその人間の精神を構成している個々の観念の総体ということになります。いい換えれば,知性といわれるときには,この意味において有限な知性であろうと無限な知性であろうと,その意味するところに変わるところはありません。ただその総体に差異があるというだけのことです。
 次に,スピノザの哲学における観念というのは,第二部定義三からも理解できるように,思惟の様態なのであって,何らかの意味において絶対的な思惟ではありません。ゆえに,たとえそれが神の無限知性であったとしても,それ自体は絶対的思惟,いい換えれば神の思惟する絶対的な力なのではなくて,思惟の様態です。これはもちろん有限な知性である人間の知性といわれる場合にも同様なのであって,この場合にも無限知性と有限知性との間で,絶対的な差異はないということになります。
コメント
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