2歳ダート重賞は今年も牝馬戦で開幕。第15回エーデルワイス賞。
ハニーパイが逃げると思っていましたが,内からグランデタマの逃げに。ベストヒット,エールドランジュ,ニイカップクイーン,ハニーパイまで集団。好位はトチノスカーレット,シーギリヤガール,ヴェントスの3頭。
3コーナーでベストヒットとエールドランジュに並び掛けられるとどうやらグランデタマは一杯。その外をハニーパイが進出し,直線では抜け出し,最後は1馬身差で優勝。後方から最内を追い込んだ人気薄のピッチシフターが2着。勝ち馬を追うように外を回ったヴェントスが半馬身差で3着。
優勝したハニーパイは2戦目で初勝利を上げると8月にリリーカップを制覇。前走のフローラルカップは2着でしたが,これは距離が長いと思われむしろ健闘。ここは距離短縮もあって優勝候補の1頭と考えていました。逃げずに結果を出せたのは収穫でしょう。おそらくスプリンターだと思います。父はサウスヴィグラス,アストニシメント系アレグロの分枝で祖母の兄に1985年の札幌記念と1987年のフェブラリーハンデを勝ったリキサンパワー。
騎乗した北海道の桑村真明騎手はエーデルワイス賞初勝利。管理している角川秀樹調教師は第11回と第12回で連覇していて3勝目。
第二部定理一七で示されていることというのは,人間の精神による外部の物体の表象です。よってそれは神の思惟の属性に関する事柄であり,人間の身体に関して何らかの言及がなされているわけではありません。しかし第二部定理一七証明をみる限り,これは同時にある人間の身体が部分的原因となってその人間の身体の中に何かが起こるということをスピノザは認めているというように僕は考えます。そしてそうであるとするなら,表象というのは人間が現実的に存在する限り,必然的に,そしてきわめて頻繁に生じる事柄です。よって,もしも人間の身体が十全な原因となってその人間の身体の中に起こることだけを第二部定理一二が言及しているのだとしたら,それは確かに僕が示した第二部定理一二の意味には合致するのですが,同時にそれではこの定理が意味できる事柄というのが,きわめて乏しくなってしまうと思うのです。
だから,僕はこうした方法によって,第二部定理一二に含まれている問題を解決する気にはなれません。確かにこれが解決法のひとつであることは認めますが,このような方法で解決してしまうくらいならば,むしろ第二部定理一二の意味を放棄して,たとえば上野修がそう示したように,この定理の中には人間の精神による混乱した観念も含まれるとした方がまだよいように思えるのです。
ただし,第二部定理七系の意味によって,神のうちにある観念はすべて十全な観念であるのでなければなりません。つまり,ある人間の精神の現実的有を構成する観念の対象ideatumの中に起こることの観念は,その観念の対象ideatumを有する限りで神のうちにあるといわれるなら,それは少なくとも何らかの意味においてはその限りで十全な観念であるという意味でなければならないという点に関しては,僕は譲ることはできません。そこではっきりと齟齬があるように思えるこのふたつの事柄に,どのような形で整合性をもたせることができるのかということを,改めて最初から探求していくことにします。
とはいえ,第二部定理九に十全な原因という観点を導入して得ることができた結論ですから,これ以上はこの定理には何の操作も加えられないということは明らかです。
ハニーパイが逃げると思っていましたが,内からグランデタマの逃げに。ベストヒット,エールドランジュ,ニイカップクイーン,ハニーパイまで集団。好位はトチノスカーレット,シーギリヤガール,ヴェントスの3頭。
3コーナーでベストヒットとエールドランジュに並び掛けられるとどうやらグランデタマは一杯。その外をハニーパイが進出し,直線では抜け出し,最後は1馬身差で優勝。後方から最内を追い込んだ人気薄のピッチシフターが2着。勝ち馬を追うように外を回ったヴェントスが半馬身差で3着。
優勝したハニーパイは2戦目で初勝利を上げると8月にリリーカップを制覇。前走のフローラルカップは2着でしたが,これは距離が長いと思われむしろ健闘。ここは距離短縮もあって優勝候補の1頭と考えていました。逃げずに結果を出せたのは収穫でしょう。おそらくスプリンターだと思います。父はサウスヴィグラス,アストニシメント系アレグロの分枝で祖母の兄に1985年の札幌記念と1987年のフェブラリーハンデを勝ったリキサンパワー。
騎乗した北海道の桑村真明騎手はエーデルワイス賞初勝利。管理している角川秀樹調教師は第11回と第12回で連覇していて3勝目。
第二部定理一七で示されていることというのは,人間の精神による外部の物体の表象です。よってそれは神の思惟の属性に関する事柄であり,人間の身体に関して何らかの言及がなされているわけではありません。しかし第二部定理一七証明をみる限り,これは同時にある人間の身体が部分的原因となってその人間の身体の中に何かが起こるということをスピノザは認めているというように僕は考えます。そしてそうであるとするなら,表象というのは人間が現実的に存在する限り,必然的に,そしてきわめて頻繁に生じる事柄です。よって,もしも人間の身体が十全な原因となってその人間の身体の中に起こることだけを第二部定理一二が言及しているのだとしたら,それは確かに僕が示した第二部定理一二の意味には合致するのですが,同時にそれではこの定理が意味できる事柄というのが,きわめて乏しくなってしまうと思うのです。
だから,僕はこうした方法によって,第二部定理一二に含まれている問題を解決する気にはなれません。確かにこれが解決法のひとつであることは認めますが,このような方法で解決してしまうくらいならば,むしろ第二部定理一二の意味を放棄して,たとえば上野修がそう示したように,この定理の中には人間の精神による混乱した観念も含まれるとした方がまだよいように思えるのです。
ただし,第二部定理七系の意味によって,神のうちにある観念はすべて十全な観念であるのでなければなりません。つまり,ある人間の精神の現実的有を構成する観念の対象ideatumの中に起こることの観念は,その観念の対象ideatumを有する限りで神のうちにあるといわれるなら,それは少なくとも何らかの意味においてはその限りで十全な観念であるという意味でなければならないという点に関しては,僕は譲ることはできません。そこではっきりと齟齬があるように思えるこのふたつの事柄に,どのような形で整合性をもたせることができるのかということを,改めて最初から探求していくことにします。
とはいえ,第二部定理九に十全な原因という観点を導入して得ることができた結論ですから,これ以上はこの定理には何の操作も加えられないということは明らかです。