スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

岸和田キング争覇戦&施すべき操作

2012-10-09 18:36:30 | 競輪
 だんじり祭りに合わせるような開催となった岸和田記念の決勝。並びは渡辺-伏見の福島でこの番手で大塚が競り。岡田ー宗景の関東に梶応,村上ー南ー前田の近畿。
 前受けは渡辺。番手は周回中から競りで実質の3番手に村上,後方が岡田で周回。岡田は残り2周半あたりから上昇を開始,残り2周のバックで前に出ると渡辺は引きました。外から村上が上昇し,バックで岡田を叩いたところで打鐘。このまま村上の抑え先行となり,競りを除けば一列棒状。バックから岡田が先捲りを打ちましたが,これは南の牽制で失速。この外を渡辺が捲り追い込むと,直線でも大外を豪快に伸びて優勝。競り合いは内に伏見で外が大塚だったので,伏見は内に行かざるを得ず,続いた大塚が流れ込んで2着。3着は逃げた村上を交わした南。
 優勝した福島の渡辺一成選手は8月の富山記念に続いて記念競輪4勝目。当地は初制覇。ここは現状の力では最上位と考えていましたので,優勝候補の筆頭だろうと思っていました。位置は悪くなってしまいましたが,やはり瞬間的なスピードは一枚上でした。GⅡは勝っていますが,GⅠにも近いうちに手が届くのではないかと思います。

 スピノザが示した第二部定理一一系の意味から鑑みても,第二部定理九でいわれている個物の観念というものを,十全な観念とみなすための方法としては,これが最適なものであると僕は考えています。しかし,この場合には事態はただそれだけのものには留まらないように思えるのです。
 というのは,実際の問題として,この方法は,第二部定理九に対して何らかの操作をしたとはいいきれないような側面があるからです。ここで施した事柄は,たとえば個物Xの観念についてみてみるならば,ある人間Aの精神の本性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちに個物Xの観念があるというときに,それを人間Aの精神のうちにある個物Xの混乱した観念としてみるのか,それとも神の無限知性のうちにある個物Xの十全な観念とみなすのかということの相違にほかならないからです。いわばこれは観点の相違とでもいうべきものにいきつくのであって,実際にこの定理の意味に重大な変容をもたらすような操作であるとはいえません。というのも,この観点の相違からすれば,確かに個物Xの観念が神のうちにあるとみなされる場合には,そこに原因の十全性という観点を導入することが可能でしょうが,それは同時に人間Aの精神のうちにある個物Xの混乱した観念ということも意味するのであって,この場合には原因の十全性と観念の十全性に関する結論からして,相変らず原因の十全性は導入できなくなっているともいえるからです。
 しかし,このように考えてくれば,第二部定理九に対して施すべき操作がどういったものでなければならないのかということが,もっと明瞭に理解できるようになります。それはつまり,第二部定理九でいわれている個物の観念のすべて,すべてというのは,この定理は無限に進むと締め括られているのですから,実際には具体的に示されている個物の観念は無限にあると考えなければならないだろうと僕は思っていますが,そうした意味においてここに示されているすべての個物の観念が,神の無限知性のうちにあるものとしてだけ把握され,たとえば人間の精神のような,有限な知性のうちにあるとみなすことができなくなるようなような操作なのです。
コメント
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