スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

加古川青流戦&第二部定理九系の消極的意味

2012-10-30 18:54:45 | 将棋
 一昨日の第2回加古川青流戦決勝三番勝負第二局。
 伊藤真吾四段の先手で迎えた将棋は先手の三間飛車に後手の永瀬拓矢五段が左美濃。しかしこの一局は中盤で先手の飛車と後手の馬が同じ動きを繰り返して千日手に。ここと新人王戦で永瀬五段が決勝進出を果たしたので,少なくともどちらかで一局くらいは千日手になるだろうと想定していましたので,ある意味では期待通りでした。
 指し直し局で先手となった永瀬五段はまたも居飛車。伊藤四段の角交換四間飛車→向飛車に。先手が変わった手順で右の銀を繰り出していったのに対し,後手が対応を誤ったようで,明らかに先手の模様が優る将棋になりました。その後,飛車交換となり,後手にも勝負手があったようですがそれを指せず,先手がリードしたまま終盤に。
                         
 ▲5六角などとは逃げずに▲7四角。△同歩に▲5ニ成銀と取り△同歩に▲7三歩。後手は△同玉と応じましたが▲7一金であっという間に大勢が決しました。
                         
 将棋というのはこのように攻められると受からないようになっているゲームですので,後手の活路は攻め合いにしかありません。しかしこの局面では明らかに先手の攻め足の方が早く,ここからほぼ一直線の攻め合いで先手が押し切っています。
 連勝で永瀬五段が優勝。これが初めての棋戦優勝。ちょっと風変わりな将棋観の持ち主という気もするのですが,もしかしたらこれが主流となる時代がいつか来るのかもしれません。

 このように考えた場合には,第二部定理九系の意味というものが,このブログにおいてこれまで理解していた内容から変容を来します。というのは,これまではこの系を,対象ideatumの中に起こることの観念は,その対象ideatumの観念を有する限りで神のうちにあるというスピノザの記述から,第二部定理七系の意味に依拠して,その観念をその限りで十全な観念であると理解していました。しかし,この対象ideatumの観念というのが,第二部定理九における現実的に存在する個物の観念の連鎖を前提としたものであれば,話は違ってきます。なぜなら,この場合にはある対象ideatumの観念というのは,むしろそうした原因と結果の無限連鎖を把握しいる神のうちにあるといっていることと同じですから,その対象ideatumの中に起こることの観念もまた,それと同様の意味でなければならないということになるからです。
 しかるに,現在の考察は,第二部定理九というのを,神の無限知性を具体的に構成している個々の観念という仕方で理解しています。したがってこれでみるならば,ある観念の対象ideatumの中に起こることの観念もまた,そうした意味における無限知性を有する限りで神のうちにあるということになるでしょう。
 しかし実際には,このことはほとんど何も意味していないともいえます。というのは,それがどんな観念であれ,存在する,あるいは存在することが可能であるような観念であれば,それが無限知性の一部を構成しているということはきわめて当然だからです。ただ,それが十全な観念であるために,無限知性のうちでどのような条件が必須とされるのかという観点から,むしろこの系の意味を探るべきだと僕は思います。
 するとこの系の意味は,おそらく次のように記述するのが妥当であろうと僕は考えます。
 ある観念の対象ideatumの中に起こることの観念は,神がその対象ideatumの観念を有する限りでは神のうちにあるが,神がその対象ideatumの観念を有していないとみられる,あるいは説明される限りにおいては,神のうちにはあることにはならない。
 これをとりあえず,消極的意味ということにします。
コメント
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