第一局から2週間。第43回新人王戦決勝三番勝負第二局。
藤森哲也四段の先手。少し趣向を凝らし,後手の永瀬拓矢五段の角交換向飛車に。先手が銀冠,後手が穴熊で持久戦。後手がひとり千日手を繰り返す序盤でしたので,先手の作戦成功だったのではないかと思います。もちろん先手から仕掛けて戦いに。
4二にいた金が上がったところ。先手は▲6一角と打ちました。もちろん△3四金と飛車を取った手に対して▲同角成ではなく▲4三角成。ここから△2七歩成▲5三馬△3七と▲6一角△2九飛成と足を止めての打ち合い。しかしそこで▲6九歩と受ければ先手は盤石。対して△5一飛ですが,底歩と自陣飛車では受けとしての効率に差がある感じ。▲6三馬△同金▲3四角成と二枚換え。対して△2二龍と引きました。
徹底抗戦の構えですが勝負という面からみればこれで勝とうというのはものすごく大変。落ち着いて攻めを継続した先手が攻め切りました。
藤森四段の勝利で1勝1敗のタイに。第三局は31日です。
第二部定理一二が第二部定理九系から直接的に帰結するという立場に立てば,これで第二部定理一二にも十全な原因という観点を導入することが可能になります。というよりも,第二部定理九系にそれが導入されているならば,第二部定理一二においてもそれは導入されなければならないということになるでしょう。
第二部定理九系において原因として措定されていると推測できる,客観的にいえば観念,形相的にいえばその観念の対象ideatumとは,第二部定理一二においては,客観的にいうなら人間の精神であり,形相的にいえばその人間の精神の現実的有を構成する観念の対象ideatumであるということになります。一方,第二部定理九系の中に結果として措定されていると推測される,客観的には観念の対象ideatumの中に起こることの観念とは,第二部定理一二では人間の精神を構成する観念の対象ideatumの中に起こることの観念ということになりますし,形相的にいえば第二部定理九系における観念の対象ideatumの中に起こることというのが,人間の精神を構成する観念の対象ideatumの中に起こることとなるわけです。
第二部定理一二はあくまでも仮定の話ですが,このままではややこしいですから,ここでは第二部定理一三を参照して,人間の精神の現実的有を構成する観念の対象ideatumのことをその人間の身体であるとした上で考察を進めます。するとこの定理がいっていることは,現実的に存在するある人間の身体が十全な原因となってその身体の中に何事かが起こるときには,その何事かの観念をその人間の精神は十全に認識するということになるでしょう。これは現実的に存在するある人間の精神と身体は合一しているのだということに注意するなら当然の帰結です。すなわち身体が十全な原因であるというのは第三部定義二によりこれはその人間の身体のある能動を意味しますが,その人間の身体の秩序は精神の秩序と一致しますから,このときにはその人間の精神もまた能動という状態にあることになります。よって第三部定理一からこのときの人間の精神は十全な観念によって説明されなければなりませんが,第二部定理四〇により,十全な観念を原因とする場合には十全な観念だけが結果として生じなければならないからです。
藤森哲也四段の先手。少し趣向を凝らし,後手の永瀬拓矢五段の角交換向飛車に。先手が銀冠,後手が穴熊で持久戦。後手がひとり千日手を繰り返す序盤でしたので,先手の作戦成功だったのではないかと思います。もちろん先手から仕掛けて戦いに。
4二にいた金が上がったところ。先手は▲6一角と打ちました。もちろん△3四金と飛車を取った手に対して▲同角成ではなく▲4三角成。ここから△2七歩成▲5三馬△3七と▲6一角△2九飛成と足を止めての打ち合い。しかしそこで▲6九歩と受ければ先手は盤石。対して△5一飛ですが,底歩と自陣飛車では受けとしての効率に差がある感じ。▲6三馬△同金▲3四角成と二枚換え。対して△2二龍と引きました。
徹底抗戦の構えですが勝負という面からみればこれで勝とうというのはものすごく大変。落ち着いて攻めを継続した先手が攻め切りました。
藤森四段の勝利で1勝1敗のタイに。第三局は31日です。
第二部定理一二が第二部定理九系から直接的に帰結するという立場に立てば,これで第二部定理一二にも十全な原因という観点を導入することが可能になります。というよりも,第二部定理九系にそれが導入されているならば,第二部定理一二においてもそれは導入されなければならないということになるでしょう。
第二部定理九系において原因として措定されていると推測できる,客観的にいえば観念,形相的にいえばその観念の対象ideatumとは,第二部定理一二においては,客観的にいうなら人間の精神であり,形相的にいえばその人間の精神の現実的有を構成する観念の対象ideatumであるということになります。一方,第二部定理九系の中に結果として措定されていると推測される,客観的には観念の対象ideatumの中に起こることの観念とは,第二部定理一二では人間の精神を構成する観念の対象ideatumの中に起こることの観念ということになりますし,形相的にいえば第二部定理九系における観念の対象ideatumの中に起こることというのが,人間の精神を構成する観念の対象ideatumの中に起こることとなるわけです。
第二部定理一二はあくまでも仮定の話ですが,このままではややこしいですから,ここでは第二部定理一三を参照して,人間の精神の現実的有を構成する観念の対象ideatumのことをその人間の身体であるとした上で考察を進めます。するとこの定理がいっていることは,現実的に存在するある人間の身体が十全な原因となってその身体の中に何事かが起こるときには,その何事かの観念をその人間の精神は十全に認識するということになるでしょう。これは現実的に存在するある人間の精神と身体は合一しているのだということに注意するなら当然の帰結です。すなわち身体が十全な原因であるというのは第三部定義二によりこれはその人間の身体のある能動を意味しますが,その人間の身体の秩序は精神の秩序と一致しますから,このときにはその人間の精神もまた能動という状態にあることになります。よって第三部定理一からこのときの人間の精神は十全な観念によって説明されなければなりませんが,第二部定理四〇により,十全な観念を原因とする場合には十全な観念だけが結果として生じなければならないからです。