スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

毛織王冠争奪戦&新しい操作

2012-10-29 18:59:43 | 競輪
 昨日の一宮記念の決勝。並びは佐藤に園田-小倉の西国がマーク,浅井-山内-笠松の中部と小嶋-加藤ー金田の中部近畿。
 小倉がスタートを取って佐藤の前受け。4番手が浅井,7番手に小嶋で周回。残り2周のホームから小嶋が上昇,浅井に蓋をしてからバックで叩きに出ると一旦は佐藤が突っ張る構え。しかし打鐘を迎えると小嶋が叩き,佐藤はすんなりと中団に。引いた浅井はホームから発進。小嶋も抵抗しましたがバックでは浅井が捲って先頭。笠松が離れて佐藤が山内を追うような態勢に。直線では外から佐藤が鋭く伸びて優勝。浅井の番手から出た山内が2着。佐藤の外に行った園田と佐藤の間を割った小倉が3着。
                         
 優勝した岩手の佐藤友和選手は前回出走の熊本記念からの連続優勝で記念競輪7勝目。力量からは浅井が最大のライバルと思われましたが,4番手を確保できましたので優位に立てました。完全優勝ということで今はできも非常によいのでしょう。現時点では最強とも思え,本人としては早くグランプリが来てほしいというくらいの心境かもしれません。

 今回の探求は,このように第二部定理九系における原因というのを,対象ideatumの観念とみなしたとき,それをどのように神と関連付けるのかという点に大きく関係します。スピノザはこの対象ideatumの中に起こることの観念は対象ideatumの観念を有する限りで神のうちにあると記述しています。なので前回はこれをそのままの意味で解釈し,まさに対象ideatumの観念を有する限りでの神という仕方で関連付けたわけです。スピノザの哲学ではあらゆるものが精神を有するということになっていますから,これは要するに,どんな精神もその精神の現実的有を構成する対象ideatumの中に起こることの観念を有するという意味です。そしてそれはただそれを有するということではなく,十全に認識するという意味であったわけです。ところがこの解釈を採用すると,第二部定理一二が意味できる事柄が,きわめて貧弱になってしまったのでした。
 そこで今度は,対象ideatumの観念を有する限りでの神といわれるとき,神がその観念を有するということがどういうことであるのかということに,新しい操作を加えます。すなわち,第二部定理九系は,第二部定理九の系であるわけです。そのゆえに僕は第二部定理九系にも,具体的に原因と結果とが措定されていなければならないと考えるわけですが,さらに一歩進めて,これが第二部定理九の系であるならば,第二部定理九系で神が有するとされている観念は,第二部定理九で規定されているような観念と同様の意味をもっていなければならないと考えるのです。すると,第二部定理九は,それを積極的意味に理解するならば,神の無限知性の中にあるとみられる現実的に存在する個物の観念であったので,このことが,第二部定理九系で対象ideatumの観念を有する限りでの神といわれる場合にも該当するというように解釈してみます。いい換えれば,神は現実的に存在する個物の観念の無限連鎖を十全に認識する限りにおいて,ある現実的に存在する個物の観念を有していて,この前提のもとに,その個物の観念の対象ideatumの中に起こることを認識するというように解することになります。
コメント
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