書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

〇要らないハナシ。

2018年12月01日 15時54分15秒 | 意識論関連
以前 タレントの千秋が元ダンナのココリコ遠藤との間で子供を作ったことを「優秀な遺伝子を選べた」などと事後正当化していたことがある

一組の配偶関係から産まれてくる子供の遺伝的バリエーションというのは 現在の地球人口くらいの多様性があって どういう子供が産まれてくるのかを選択することなど出来ないのである

もし千秋の言っているように配偶者選択が正しかったから優秀な子供が出来たというのであれば 先天的遺伝疾患を持って産まれて来た子供の親は遺伝的に劣っているという話になってしまうのである

何様だよ 千秋って 離婚した時点でダンナ選びを間違えてんじゃねぇか

こういう非科学的オカルト観念に何の疑いも持たないから相模原障害者施設を襲撃する植松聖みたいのが出てくるんじゃねぇか

考えが薄っぺらで無責任過ぎるぞ

ボーッと生きてんじゃねぇよ!

そういうハナシ一番要らないわ



Ende;
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〇デクノボウ。

2018年12月01日 15時01分57秒 | 意識論関連
ニュージーランドで145頭ものゴンドウクジラのストランディング(集団自殺行為)が発生したと

ねとらぼに載ってた

生物に組み込まれた本能習性というのは あくまで結果的に「死ななかった」個体の習性であって

たまたま「死ななかった」だけであって 別に誰かの合理性に基づいて目的のために選択したものではない

だからこそ 時折クジラの集団自殺のような行動も発生するのである

具体的にクジラがどうして集団で砂浜に上がろうとするのかは不明だが

少なくとも合理的に何かを目的として行動したわけではないことは明らかである

集団自殺をすることは生存価にとって有利でもなければ 種の保存にとっても役には立たない

そもそも生物は生存や種の保存を目的とはしておらず 全ては結果以上の意味を持たない

既に先天的に組み込まれた本能習性に従って機械的条件反射行動の結果として集団自殺に陥っているのであって

先天的本能習性の結果絶滅しても 誰も保障はしてくれない

先天的本能習性というのは 誰の合理的目的行動選択も介在してはいないからである

ヒトという種の生物が殺し合いをすることも 先天的本能習性が促す行動バイアスによる無意識な「結果」であって ヒトという種の生物の脳は暴力で相手を殺傷すれば解決だと満足する習性が促す錯覚を 錯覚だと認識していないからである

錯覚を錯覚だと認識するのは 自律的な論理検証性という本質的な人間としての意識だが 大多数の大衆や文科系マスコミは自律的な論理検証を全くせずに 既存の学術組織の規模だけで盲目的に信頼し 何の疑いも持つことはない

これは ヒトという種の生物の脳には先天的に欠陥が存在するため 非合理な観念であっても気分的に安心さえしておけば誰も疑いを持たなくなるという先天的欠陥があるからだ

ミヒャエル:エンデ著「モモ」や グリム童話の「ハーメルンの笛吹男」というのは 集団洗脳によって人々が簡単に騙されてしまい 権威ではない少数派の意見に誰も耳を貸さなくなるヒトの先天的欠陥に対する教訓として描かれたものである

グリム兄弟の「ハーメルンの笛吹男」の話というのは ググってみたらドイツのハーメルンという場所で実際に起きた集団失踪事件が元になっているそうだ

洗脳状態というと 洗脳された人々は苦しんでいるかのように錯覚しがちだが 実際には洗脳状態というのは当人的には「これこそが真理で正しいことなんだ」という信念のようなものに取り憑かれており むしろ外部の者が否定すると「こんな正しいことを否定するなんて 何て可哀相な人達なんだろう」と思い込んで満足しているのである

疑わないのは それが気分的に安心で満足だからである

クジラによる集団自殺も 彼らにしてみれば それこそが安心で満足感が得られる行動だからであろう どんなにヒトが海に戻そうとしても浜に戻って来てしまうのはそのためである

先天的本能習性というのは 特定環境下においては生存や種の保存にとって有利に働くことが多いとは言えるのだが 環境の変化によってはむしろ生存や種の保存にとっては逆に不利な行動を促してしまうことも珍しくはない

それは 先天的本能習性というものには構造原理的に目的のための合理的選択が介在していないからである



集団組織にとって有利な利他的行動を採ることが個体の生存価にとっても有利に働くことがあるとしても 集団組織にとって有利な行動が社会全体にとっては持続可能性や安全性を損ねることもある以上 断片的効用だけを論拠に人間性の論証だと言い張るのは 単なる御都合主義的こじつけ以外の何でもない

嘘や暴力が生存価にとって常に不利に働くことの論証もなく 実際正直者がバカを見ることは珍しいことではないし 嘘つき卑怯者が世間的に成功している例も後を絶たない

それでも「ヒトには先天的に人間性が組み込まれている」と言い張るのであれば その論証が具体的にどのように役立つのかを説明して頂きたい

特定環境下において利他的行動などを採る習性を立証したところで 既にヒトが散々行ってきたあらゆる暴力的野蛮行為の反証には全くならないのである

そもそも先天的本能習性というものは 原理的に環境依存性から逃れることが出来ず 個体の自律的な判断という倫理や人間性の立証には最初から使えないのである

東京電力社内という環境下であれば 自律的に原発の津波に対する脆弱性が放置されてしまうことが避けられなかったというのであれば それを促した先天的本能習性こそが事故の最も根源的原因に他ならない

ロンドン市内で暴走強盗が流行してしまうのも 環境依存性が原因であり 自律のない者は簡単に流行に便乗してしまう習性があるからである

人間性の本質とは 自律的な社会的責任判断選択であり これは環境や先天的本能習性といった「結果」に依存しないからこその「目的」であり「自律」なのである

従って 「先天的本能習性で人間性を立証する」と言い張るあらゆる生物学者や哲学者は 何も自律的に論理検証したこともないデクノボウでしかないのである

そのデクノボウを疑うことなく盲目的に信頼していることもまた同罪である



Ende
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〇真理の追求なくして人間性は成立しない。

2018年12月01日 01時41分11秒 | 意識論関連
先天的本能習性としては 繁殖不能な幼女を犯して殺害することもあるのだが

こうした本能習性というのは 自己自身で選択したものではなく 無意識な行動バイアスの範疇である

従って 先天的性癖としてペドフィリア(幼児性愛)傾向などがあるからといって いきなり「人間としてダメ」ということにはならない

先天的本能習性として どのような相手と性交したいのかなどの欲求は個人の自律的な意識(論理検証)的行動選択の範疇にはないものであり

どのような欲望であれ 現在時点で自分の行動を選択可能性があれば それこそが人間としての意思なのである

先天的な本能習性というものは 祖先が偶発的に生き残った「結果」以上に意味はなく どんなに強い欲求であろうとも先天的本能習性が促す行動バイアスである限り これは無意識の範疇に該当する

先天的本能習性が促す欲求というものは 状況や環境によっても様々に変化するものであり 一貫性を持った合理的行動選択をむしろ阻害するものでもある

状況や環境に因らずに 自律的に行動選択出来れば この現在時点での選択可能性こそが人間性の本質であり合理的行動選択をする意識だと言える

既に脳に機械学習によって促される条件反射的無意識行動が どんなに非合理で不条理であろうとも それに抗い制御出来れば人間性は発揮可能である

本質意識としての自律的論理検証性が働いていないからこそ その場限りに状況や環境によって促される先天的欲望の流されてしまうのであり 先天的本能習性が促すあらゆる欲望は それだけでは人間の本質的意識とは言えない

ヒト以外の生物では 何をどうしようが先天的本能習性には抗えないが ヒトは精神や脳に異常がなければ自律的に欲求を制御することが不可能ではない これこそがヒトとヒト以外の動物との決定的な違いである

しかし ヒトの全てが常に自分の欲望を合理的に選択出来るわけではない

だからと言って他人をランクづけして優劣で選別するような野蛮な行為に人間性はない

ヒトの人間性というのは遺伝によって先天的に決定しているわけではなく 人間性で選別しても遺伝的進化のようなものが促されるわけでもない

人間性というのは先天的に決定しているのではなく あくまで自律的論理検証性によって合理的行動選択を行うことであり 他人をランクづけすることに合理性はない

ヒトの多くが他人をランクづけしたがるのは それによって自分の評価が上がるという妄想錯覚に由来する強迫観念からである

ヒトが他人からの評価を求めるのは 元は親からの評価承認の癖(甘え)によって醸成された中毒であり 子供時代に親から甘えることを許されずに 親からの評価ばかりに怯えて育つことによって 満たされなかった甘えを社会に求めるようになることで承認欲求中毒に陥るのである

親子関係に強烈なヒエラルキーがあった場合に ヒエラルキー意識(無意識)を機械学習してしまうことによって 順位序列や勝ち負けだけが絶対的正義として植え付けられ 自律的に物事を論理検証する本質的意識も喪失することになる



他人からの評価を基準にしている限り 自律的に物事を判断する能力は養われることはない

江川紹子女史は以前 「他人から見て恥ずかしくない行動をしたい」と述べていたが これは江川紹子女史が「誰から見て恥ずかしくない行動」を自律的に選択出来るから成立する話であって

糞DQNが「何も考えていないバカな多数大衆や糞DQNから見られて恥ずかしくない行動」とは 他人の迷惑を一切省みない糞DQNの正義に基づいた行動選択しか促すことはない

SNSに溢れかえる悪ノリ投稿が後を絶たないのは閲覧回数で得られる利益や目立つことばかりが目的だからである

評価承認中毒患者が評価承認に異常な執着をするのは それが中毒だからに他ならない

評価承認にあまり興味のない者にとっては 別にSNSの「いいね」には大した快楽も得られることはない

他人からの評価に興味が薄ければ 多数からの同調圧力や組織体質に流されることなく 自律的に物事を判断することも可能となる

アスペルガー傾向など 先天的に多数派同調圧力に興味が薄い場合もあるのだが 先天的欲求に流されることなく自律的に判断出来る選択可能性が人間性であることに違いはなく 別に先天的に興味が薄いからといって人間として優れている論証には全くならない

人間としての価値とは 他人と比べて特定能力を比較することで測れるようなものではなく あくまで自律的に自らの先天的欲求を制御出来るかどうかによるものであって これもまた他人と比べて順位序列をつけられるわけではない

一生のうちに資産をどれだけ集められたとか 何年生きたとか クイズの正解率や既存の学歴学位を他人と比べて競争することが人間としての存在価値や尊厳には全くならない

バカが治らない原因とは 自らの頭の悪さを認識することを反射的に拒絶する無意識さであり 「自分は頭が良いはずだ」という錯覚に中毒になっているから自分の頭の悪さを認識することが出来なくなるのである

それは カルト宗教の信者達が自分が既に信じ込んでいる神に疑いを持たなくなるメカニズム構造と一緒であり 学力偏差値に対する一種の信仰によって 他人との順位序列にも何の疑いも持たなくなるのである

それは形式上科学に関わる組織であろうとも 誰も何も論理検証されることがないのであれば科学や哲学からは逸脱してゆくだけである

権威と多数派からみなされている相手から教えられたことを ただ漫然と鵜呑みにしているだけで何ら自律的に論理検証しないからこそ 科学が宗教のように盲目になってしまい その社会的機能を喪失してしまうのである



Ende;
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