「人間らしさ」という概念の定義自体があやふや過ぎる
「らしい」かどうかは主観であって 客観的定義に結びつかない
「欲望を求め闘争する」「共感をAIから学ぶ」(小林康夫)
「コニュニティを作り闘争する」(松尾豊)ことが「人間らしさ」だと述べているが
松尾や小林の主観がどうして客観的事実にすり替えることができるのであろうか
こいつらバカじゃねぇか
「いままでずっとそうだった」という結果を どんなにたくさん陳列枚挙したところで 結果が結果以上の目的に変換することが出来るわけではない
これはカール:ライムンド:ポパーの「白いSwan」の拡張概念である
「白いSwan」というのは「大量の結果」であり 結果をどんなに大量に集めてきても合理性のある目的行動選択であることの論証にはならない
科学の目的は客観的事実認識であり 結果をどんなに大量に抽出してきても科学的論理証明には全くならず 単に結果の多数抽出だけで目的だと言い張ることは出来ない
それは ヒトがどんなに生活習慣病に陥るという結果を抽出してきても「ヒトは生活習慣病になることが目的である」ことの論理証明には一切ならないのと同じことである
結果の多数を目的にすり替えるという ヒトの脳の頭の悪さが先天的に存在していることを認識していれば こうした間違いに陥ることはない
どんなにたくさんのバカを集めてきたところで 「ヒトの全ては永遠にバカである」ことの論理証明にはならない
「バカとは何か」を理解認識することができれば ヒトはバカから脱することが可能であり 科学哲学の役割はそこにある
ところが現状の哲学者と呼ばれている奴らは「哲学は研究をしない」などと言い出す始末であり それが哲学界における多数派常識であることを論拠に怠慢を正当化しようとしており
極めて無責任で雑な屁理屈である
ヒトという種の生物が 今までずっと「コミュニティー集団を形成し差別排除という闘争を繰り返してきた」という結果をどんなに大量に抽出してきても
「ヒトという種の生物が永遠に差別排除という闘争をやめることが絶対に不可能である」ことの論証にはならない
養老孟司も「ヒトは今まで実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけてきた。ヒトとはそういうものである。」と勝手に決め付けたのと同じで 何も考えていないバカ特有の思考停止のシーケンスに囚われているに過ぎない
Ende;
「らしい」かどうかは主観であって 客観的定義に結びつかない
「欲望を求め闘争する」「共感をAIから学ぶ」(小林康夫)
「コニュニティを作り闘争する」(松尾豊)ことが「人間らしさ」だと述べているが
松尾や小林の主観がどうして客観的事実にすり替えることができるのであろうか
こいつらバカじゃねぇか
「いままでずっとそうだった」という結果を どんなにたくさん陳列枚挙したところで 結果が結果以上の目的に変換することが出来るわけではない
これはカール:ライムンド:ポパーの「白いSwan」の拡張概念である
「白いSwan」というのは「大量の結果」であり 結果をどんなに大量に集めてきても合理性のある目的行動選択であることの論証にはならない
科学の目的は客観的事実認識であり 結果をどんなに大量に抽出してきても科学的論理証明には全くならず 単に結果の多数抽出だけで目的だと言い張ることは出来ない
それは ヒトがどんなに生活習慣病に陥るという結果を抽出してきても「ヒトは生活習慣病になることが目的である」ことの論理証明には一切ならないのと同じことである
結果の多数を目的にすり替えるという ヒトの脳の頭の悪さが先天的に存在していることを認識していれば こうした間違いに陥ることはない
どんなにたくさんのバカを集めてきたところで 「ヒトの全ては永遠にバカである」ことの論理証明にはならない
「バカとは何か」を理解認識することができれば ヒトはバカから脱することが可能であり 科学哲学の役割はそこにある
ところが現状の哲学者と呼ばれている奴らは「哲学は研究をしない」などと言い出す始末であり それが哲学界における多数派常識であることを論拠に怠慢を正当化しようとしており
極めて無責任で雑な屁理屈である
ヒトという種の生物が 今までずっと「コミュニティー集団を形成し差別排除という闘争を繰り返してきた」という結果をどんなに大量に抽出してきても
「ヒトという種の生物が永遠に差別排除という闘争をやめることが絶対に不可能である」ことの論証にはならない
養老孟司も「ヒトは今まで実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけてきた。ヒトとはそういうものである。」と勝手に決め付けたのと同じで 何も考えていないバカ特有の思考停止のシーケンスに囚われているに過ぎない
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