憲法で世の中が良くなると思っている奴がいるらしいが
「法の下の平等」などというのは一種の神話とか妄想の類でしかない
法手続きというのは あくまで法の趣旨に基づいて運用されてこその価値になるのであって
誰にも被害が出ていないのに「飲食店内で客が踊っていたから店長を問答無用で逮捕」のような警察権力の暴走を招くこともある
憲法においても 第9条文で永久に武力放棄と書かれているにも関わらず 解釈を捩曲げて事実上の戦略航空母艦を保有するというふざけた運用も可能なのである
法というのは 所詮道具に過ぎず 道具の使い方を間違えればいくらでも間違った脱法は可能なのである
では 何が最も重要なのかと言えば それは道具を使う「ヒト」の人間性や倫理モラルであり
人間性や倫理モラルの源は 自律的論理検証性という本質的意識である
凡人の多くは 自分では何も考えず 何も判断せずとも 多数派に迎合同調さえしておけば常に自動的に正しい選択へと導かれるかのような妄想錯覚を抱いているらしいのだが
こうした妄想ゆえに福島第一原発の津波に対する脆弱性は放置されたのである
制度としての民主主義さえ導入しておけば 全ては常に正しい結果が得られるわけではない
ナチス政権による独裁であっても民主的に選ばれたものだったという
ヒトは 形式外見が9割である
これは すなはち無意識が9割であるが故に形式外見につられた判断をしがちだからである
金儲けなどの世間的成功を得るためには 形式外見を取り繕うことが有効ではあるが
世間的成功が人間性や倫理の論証になるわけではなく 形式外見を信奉するというのは拝金主義に基づいた薄っぺらな判断しかしていないからである
「カッコイイ相手に服従したい」という感情は 幼児が大人に求める観念であり ヤクザや暴力団に服従迎合する糞DQNが後を絶たないのは ヒトという種の生物には暴力者に対する恐怖心と畏敬の混同によって暴力組織への服従迎合を促す先天的習性があるからである
学校におけるイジメであっても 暴力者集団に逆らわず むしろ積極的に同調迎合しておいた方が気分的に安心であり 利己的には生存にとって有利であるという「結果」に対し 無意識に流されることしか出来ない幼稚さ故の行動である
野犬の集団においても より暴力的な個体への服従迎合性があるからこそ ボス以外の個体が集団組織的な協調性を発揮出来るのであり これは理性によってもたらされる行動ではなく むしろ先天的行動バイアスとして進化的に「生存にとって有利だった結果」としての習性だからである
独裁的な服従統率というのは 理性的な人物の集団においては生じることはなく
むしろ暴力団だのポルポト政権だのナチス政権といった 権威(暴力)的で形式外見的に「カッコイイ」からこそ 幼稚な大衆からの多数人気を得ることが可能となるのである
日本人の感覚からすると 権威と暴力は別ものだと認識されがちだが ドイツ語では権力と暴力は同じ言葉が用いられるのである
*:Gewalt [品詞] ①権力・支配力 ②(複数 なし)暴力 ③猛威・激しさ [複数]
集団統率的服従迎合というのは 個人の主体的で自律的な判断を不具にし 独裁暴走を助長する先天的なヒトの習性であり
それゆえナチス政権だのポルポト政権だのISILだのヤクザだの暴力団や振り込め詐欺集団といった利己的暴力集団程強力に集団統率的協調性が発揮されるのである
「結果的に生存価にとって有利」だからこそ 先天的習性として遺伝的に遺ったのであって ヒトという種の生物が生き残る過程において「進化(変異と淘汰圧力の結果)」的に組み込まれているのが社会形成習性なのである
例えて言うなれば ハロウィンの夜に渋谷で暴れていた酔っ払いのようなサル集団が生き残る上において有利な行動が ヒトという種の生物には先天的に組み込まれているのである
歴史書を読めば 独裁による暴力迷惑行為がほとんど全部といって良い程記述されている それは何故かといえば ヒトという種の生物は先天的にそういう欠陥が存在するからである
多少の個体差はあれ ヒト全てに先天的欠陥があることを前提にすれば 欠陥を補うのは何かと言えば 自律的論理検証性という本質的意識であり それによって人間性や倫理モラルによる抑制が働くようになるのである
紛争の原因として 地勢学的リスクが最大の要因であるかのように錯覚しがちだが 地勢学的リスクというのは環境要因であって それなら平和な現代日本では虐殺が絶対に生じないかと言えば そういう短絡的なものではない
むしろ 環境依存的に紛争を引き起こしてしまうヒトの条件反射的な無意識性こそが あらゆる暴力紛争の根本的原因なのである
生物学における先天的習性の全ては あくまで特定環境下における「結果」の抽出であって 環境が異なれば必ずしも特定の目的にとって合理的な行動を促す保証は全くないのである
哺乳類の遺伝的進化が促されるためには 数十万年以上が必要であるとされており 数十万年の間一定の環境が保たれていたからこそ遺伝的に進化することが可能であり 逆に数十万年に渡って組み込まれてしまった遺伝的進化というのは 急激な環境変化には対応出来ずに簡単に絶滅の原因になることも非常に多い
中世から現代における暴力戦争という淘汰圧力が ヒトという種の生物の遺伝的性質に影響を与えたのかと言えば より統率的協調性を発揮し他者集団を淘汰絶滅させられた集団だけへと「進化」した可能性は否定出来ない
もう少し身近な例を挙げれば イジメや差別で生き残る集団とは 一体どのような集団であろうか
社会安全性や持続可能性に基づき 差別のない平和で平等な社会を望む理性的な人が イジメ差別や紛争暴力を集団統率的に扇動するであろうか?
差別排除というのは ヒトという種の生物にとって快楽である
共通の「敵」を暴力的に排除してさえおけば 全てが解決すると短絡的に錯覚することで 味方同士の仲間意識という快楽を得ることが出来るように先天的に出来ているのである
梅沢富美男が凶悪殺人犯に対して「こんな奴は死刑にしちまえ」と怒鳴り散らしておけば 同じように短絡的な多数大衆から共感や人気を得ることが可能である
共通の「敵」に対する暴力的排除差別を行うことで 共感や人気を得ることが出来るよう ヒトという種の生物は先天的に出来ているのである
それは 祖先がそうした差別排除を繰り返すことで生き残ったことが原因だからである
ヒトという種の生物は 差別排除によって他の集団から資源を略奪することが生存にとって有利だったからこそ 差別排除の習性が遺伝的に遺ったのである
チンパンジーが自分の子供に対してのみ利他的行動を採ることを証明したとしても それが差別排除を一切しないことの科学的論証には全くならない
ヒトが子犬や子猫にエサを与える習性を立証しても ヒトが先天的に暴力的差別排除を行わない論証にはならないのと同じことである
ヒトが子犬や子猫を欲しがっても 大人になったイヌやネコを棄てる習性は否定のしようがないのである
これは 先天的本能習性には合理性がないことの一例である
そもそも先天的本能習性というのは環境依存性から逃れることは出来ず 自律的な社会的責任判断とは無関係であり 先天的本能習性から人間性を証明することは構造原理的に最初から不可能なのである
喉が渇いたので また来年
Ende;
「法の下の平等」などというのは一種の神話とか妄想の類でしかない
法手続きというのは あくまで法の趣旨に基づいて運用されてこその価値になるのであって
誰にも被害が出ていないのに「飲食店内で客が踊っていたから店長を問答無用で逮捕」のような警察権力の暴走を招くこともある
憲法においても 第9条文で永久に武力放棄と書かれているにも関わらず 解釈を捩曲げて事実上の戦略航空母艦を保有するというふざけた運用も可能なのである
法というのは 所詮道具に過ぎず 道具の使い方を間違えればいくらでも間違った脱法は可能なのである
では 何が最も重要なのかと言えば それは道具を使う「ヒト」の人間性や倫理モラルであり
人間性や倫理モラルの源は 自律的論理検証性という本質的意識である
凡人の多くは 自分では何も考えず 何も判断せずとも 多数派に迎合同調さえしておけば常に自動的に正しい選択へと導かれるかのような妄想錯覚を抱いているらしいのだが
こうした妄想ゆえに福島第一原発の津波に対する脆弱性は放置されたのである
制度としての民主主義さえ導入しておけば 全ては常に正しい結果が得られるわけではない
ナチス政権による独裁であっても民主的に選ばれたものだったという
ヒトは 形式外見が9割である
これは すなはち無意識が9割であるが故に形式外見につられた判断をしがちだからである
金儲けなどの世間的成功を得るためには 形式外見を取り繕うことが有効ではあるが
世間的成功が人間性や倫理の論証になるわけではなく 形式外見を信奉するというのは拝金主義に基づいた薄っぺらな判断しかしていないからである
「カッコイイ相手に服従したい」という感情は 幼児が大人に求める観念であり ヤクザや暴力団に服従迎合する糞DQNが後を絶たないのは ヒトという種の生物には暴力者に対する恐怖心と畏敬の混同によって暴力組織への服従迎合を促す先天的習性があるからである
学校におけるイジメであっても 暴力者集団に逆らわず むしろ積極的に同調迎合しておいた方が気分的に安心であり 利己的には生存にとって有利であるという「結果」に対し 無意識に流されることしか出来ない幼稚さ故の行動である
野犬の集団においても より暴力的な個体への服従迎合性があるからこそ ボス以外の個体が集団組織的な協調性を発揮出来るのであり これは理性によってもたらされる行動ではなく むしろ先天的行動バイアスとして進化的に「生存にとって有利だった結果」としての習性だからである
独裁的な服従統率というのは 理性的な人物の集団においては生じることはなく
むしろ暴力団だのポルポト政権だのナチス政権といった 権威(暴力)的で形式外見的に「カッコイイ」からこそ 幼稚な大衆からの多数人気を得ることが可能となるのである
日本人の感覚からすると 権威と暴力は別ものだと認識されがちだが ドイツ語では権力と暴力は同じ言葉が用いられるのである
*:Gewalt [品詞] ①権力・支配力 ②(複数 なし)暴力 ③猛威・激しさ [複数]
集団統率的服従迎合というのは 個人の主体的で自律的な判断を不具にし 独裁暴走を助長する先天的なヒトの習性であり
それゆえナチス政権だのポルポト政権だのISILだのヤクザだの暴力団や振り込め詐欺集団といった利己的暴力集団程強力に集団統率的協調性が発揮されるのである
「結果的に生存価にとって有利」だからこそ 先天的習性として遺伝的に遺ったのであって ヒトという種の生物が生き残る過程において「進化(変異と淘汰圧力の結果)」的に組み込まれているのが社会形成習性なのである
例えて言うなれば ハロウィンの夜に渋谷で暴れていた酔っ払いのようなサル集団が生き残る上において有利な行動が ヒトという種の生物には先天的に組み込まれているのである
歴史書を読めば 独裁による暴力迷惑行為がほとんど全部といって良い程記述されている それは何故かといえば ヒトという種の生物は先天的にそういう欠陥が存在するからである
多少の個体差はあれ ヒト全てに先天的欠陥があることを前提にすれば 欠陥を補うのは何かと言えば 自律的論理検証性という本質的意識であり それによって人間性や倫理モラルによる抑制が働くようになるのである
紛争の原因として 地勢学的リスクが最大の要因であるかのように錯覚しがちだが 地勢学的リスクというのは環境要因であって それなら平和な現代日本では虐殺が絶対に生じないかと言えば そういう短絡的なものではない
むしろ 環境依存的に紛争を引き起こしてしまうヒトの条件反射的な無意識性こそが あらゆる暴力紛争の根本的原因なのである
生物学における先天的習性の全ては あくまで特定環境下における「結果」の抽出であって 環境が異なれば必ずしも特定の目的にとって合理的な行動を促す保証は全くないのである
哺乳類の遺伝的進化が促されるためには 数十万年以上が必要であるとされており 数十万年の間一定の環境が保たれていたからこそ遺伝的に進化することが可能であり 逆に数十万年に渡って組み込まれてしまった遺伝的進化というのは 急激な環境変化には対応出来ずに簡単に絶滅の原因になることも非常に多い
中世から現代における暴力戦争という淘汰圧力が ヒトという種の生物の遺伝的性質に影響を与えたのかと言えば より統率的協調性を発揮し他者集団を淘汰絶滅させられた集団だけへと「進化」した可能性は否定出来ない
もう少し身近な例を挙げれば イジメや差別で生き残る集団とは 一体どのような集団であろうか
社会安全性や持続可能性に基づき 差別のない平和で平等な社会を望む理性的な人が イジメ差別や紛争暴力を集団統率的に扇動するであろうか?
差別排除というのは ヒトという種の生物にとって快楽である
共通の「敵」を暴力的に排除してさえおけば 全てが解決すると短絡的に錯覚することで 味方同士の仲間意識という快楽を得ることが出来るように先天的に出来ているのである
梅沢富美男が凶悪殺人犯に対して「こんな奴は死刑にしちまえ」と怒鳴り散らしておけば 同じように短絡的な多数大衆から共感や人気を得ることが可能である
共通の「敵」に対する暴力的排除差別を行うことで 共感や人気を得ることが出来るよう ヒトという種の生物は先天的に出来ているのである
それは 祖先がそうした差別排除を繰り返すことで生き残ったことが原因だからである
ヒトという種の生物は 差別排除によって他の集団から資源を略奪することが生存にとって有利だったからこそ 差別排除の習性が遺伝的に遺ったのである
チンパンジーが自分の子供に対してのみ利他的行動を採ることを証明したとしても それが差別排除を一切しないことの科学的論証には全くならない
ヒトが子犬や子猫にエサを与える習性を立証しても ヒトが先天的に暴力的差別排除を行わない論証にはならないのと同じことである
ヒトが子犬や子猫を欲しがっても 大人になったイヌやネコを棄てる習性は否定のしようがないのである
これは 先天的本能習性には合理性がないことの一例である
そもそも先天的本能習性というのは環境依存性から逃れることは出来ず 自律的な社会的責任判断とは無関係であり 先天的本能習性から人間性を証明することは構造原理的に最初から不可能なのである
喉が渇いたので また来年
Ende;