ヒトなどの生体の脳というのは理性よりも情動の方が優先されるように出来ているため 目先の情動という主観的感覚によって論理思考が停止することで自律的論理検証性を喪失し 頭がバカになる
あらゆるヒトの引き起こす暴走とは 頭がバカになることが原因であって 「理性の暴走」などという論理的に意味のない観念にいつまでも囚われている頭の悪さ故に哲学が実用的に役に立たないのである
大衆マスコミの多くは 養老孟司やマイケル:サンデルやジャレド:ダイアモンドの言っていることには論理的な意味が存在すると勝手に妄想するという頭の悪さがあるのだが
その原因を論理的に理解していないからこそ 次々と似たような論理的には意味のない観念を信じ込もうとし続けることに陥るのである
「理性の暴走」だと信じ込まれている事柄の全ては 根源が情動本能によるものであり 外見上理性「的」にどんなに見えるとしても それらは論理的根拠のない大衆観念による妄想錯覚に過ぎない
カントの純粋理性批判というのは そもそも批判の前提自体が間違っているのであって 間違った前提に対してアプローチだけ変えても論理的には不毛なことに違いなどない
そもそも大衆人気という多数決というのは 大抵の場合科学論理的根拠に基づいた合理的解決策ではなく 単に大衆の多くが観念的に「役に立ちそうな感じがして 安心満足感が得られる」だけの場合がほとんどである
だから京都大学学長の山極寿一が「ヒトのほとんどは戦争をしていないことを知れば 戦争はなくなる」などという わけのわからぬ 何の合理性も根拠もない妄想で気分的に安心満足することで 短絡的に鵜呑みにするようにもなるのである
ヒトの多くは その場限りに気分的に安心満足さえ出来れば 内容に合理的意味があろうがなかろうがどうでも良い
大衆の多くが養老孟司の著作に意味があると錯覚し マイケル:サンデルが提示するトロッコ問題には倫理の本質が存在しないことにも気付かず ジャレド:ダイアモンドの知識のひけらかしだけでピュリッツア賞が獲得出来るのである
ところが 自分達の頭の悪さ故に間違いに気付かなかったことを認めることが気分的に嫌なため ヒトの多くは自分達の頭の悪さを論理的に認識理解せず 次々と科学論理的には全く意味のない観念論を鵜呑みにすることで その場限りの気分的安心満足ばかりを追求し続け 結果的に具体的な安全性への対策を逸し続けるのである
その結果 回避可能性があった失敗や惨劇が繰り返されても 自分達には一切の落ち度がないと勘違いし続けるのである
制度上民主主義を導入していても 国民の多数がバカならバカ主義にしか陥らない
◇
「利己的利益追求」や「生存」「種の保存」などといった目的に基づいた理性的行動の全ては 根源が情動であって どんなにその過程に理性が介入していても それは「理性の暴走」ではなく あくまで「情動の暴走」なのである
科学的な真理の追求においては 純粋に「本当のことを知りたい」という知的欲求に基づいて 「情動という主観」と「理性に基づく客観性」との区別が必要不可欠である
目先の気分的満足や安心に囚われることなく 純粋に真理を追求するためには 区別が重要となる
区別とは分類のことだが 分類自体が間違っていれば 間違いに基づいた理論しか立てることは出来ず 分類という思考の基礎が間違っていれば その上に構築されたあらゆる理論は無意味な屁理屈や言葉遊びにしかならない
脳はドーパミンが持つ常習性によって 安心か不安かで分類を作り出すのだが 分類に論理的根拠や客観的事実が伴わなければ主観的好き嫌いの範疇にしかなず 客観的には意味がない
客観的に意味のない主観的観念に基づいた行動しかしなければ 当然「安全」は蔑ろにされることになる
その場限りに気分的「安心」満足ばかりを追求するというのは 脳が幼稚だからである
従来の生物学においては 「生物の目的は生存や種の保存である」とされてきたが 生存も種の保存も結果でこそあれ 誰の合理的目的意識選択も介在しておらず 「生物の目的」などというものは最初から存在していないのである
生物とは 「結果的に生存していた物を生物と分類しただけ」に過ぎないのだが
ヒトは主観的に「死にたくない」という情動主観の強度程度が優先してしまうために あたかも「生存こそが目的」という非科学的妄想観念に囚われ 主観に基づいて客観的事実を捩曲げて解釈してしまう習性がある
フランシス:ゴルトンの優生学は こうした生物学全体の基本的な間違いに基づいて構築された屁理屈であり 優生学というのは天文学における天動説のような根本的大間違いなのである
たとえ医学の進歩によって永遠に生きられるようになったとしても 生きる目的そのものがないまま ただ漫然と生き続けることに一体何の意味があろうか
別に「何年生き延びられるか」を他人と競争することを目的にしているわけでもなければ 金儲けや多数からの人気取りが人間としての存在価値になるわけでもない
仏教における「執着」とは ドーパミンによって作られる常習性や中毒のことであり 特定の主観的観念に囚われることによってヒトは客観的事実の追求をするための自律的論理検証性を喪失するのである
ところがヒトの多くは 多数派によって作り出された価値観というものを 論理的根拠もなく短絡的に鵜呑みにしている方が気分的に安心で満足感が得られる習性があるため 少数異端であるというだけで短絡的に排除差別を平気で行うようにもなる
マイクロソフト社のTwitterAIがヘイトスピーチを始めたのは Twitter上では多数がヘイトスピーチを占めていたために AIはヘイトスピーチに同調したのであり 少なくともTwitter上ではヘイトスピーチが多数であることの証明でもある
いや 言い換えよう「差別排除を平気で行う」のではなく むしろ「必死になって差別排除に邁進する」のである それが中毒というものである
ヒトが 何に執着し 中毒になるのかは わからない
それはどこに何の植物が生えるのかを予測するようなものであり 傾向性くらいは予測出来ても 完全には予測不可能である
別の話に例えれば どのニワトリやブタからH7N9鳥インフルエンザウイルスがヒトからヒトへ感染するよう変異するのかを正確に予測することが出来ないのと同じである
「人類の救済」だの「天皇陛下の御為」だの「人類の遺伝的進化のため」などといった大義を振りかざすことによって ヒトは今まで他人に多大な暴走迷惑をかけてきた
誰がどのようなバカに陥るのかなど 不確定要素が多過ぎて特定不可能なのである
警察による「テロ対策」などと称した逮捕ゴッゴなど 実際にテロが発生してからの対応にしかならず 「なぜヒトがテロリストや通り魔になるのか」という根源的原因を究明しないことには具体的再発防止対策には全くならない
ましてや「テロを準備したから懲罰」などという法律は テロリストの頭の悪さを強化してしまう可能性の方が圧倒的に高く 逆効果である
もちろん危険な行為の可能性があるのなら監視や行動拘束は必要な措置ではあろうが 罰というのは感情論であり 合理性がない
そもそもテロや通り魔というのは 主観的報復感情の暴走に起因するものであって これは刑法罰と同じものである
客観的事実究明に基づいて安全性を追求していないという点においてはテロも刑罰も同じものなのである
テロや通り魔が「身勝手」というのであれば 刑法懲罰も所詮は「身勝手の多数決」にしかなっておらず 具体的な原因究明や再発防止対策には全くつながらないという客観的事実を無視する原因でもある
司法裁判が形式に異常にこだわるのは そこに客観的事実に基づく論理的根拠が存在しないが故に 外見上尊大な風味を醸しておかなければならないのである
裁判所が過剰に豪華な法廷をしつらえ 裁判官は如何にも偉そうな服を身につけ あたかも刑罰こそが唯一絶対の根本的対策であるかのように装っているのは 本当は単なる法律制度に基づいた単なる役所の手続きに過ぎないという薄っぺらな因習を事後正当化するための演出に過ぎない
司法裁判というのは 大衆にとってはあたかも理性的に見えるのかも知れないが 刑法の根本が被害者や社会的報復感情である以上 それは論理的根拠には一切ならない
Ende;
あらゆるヒトの引き起こす暴走とは 頭がバカになることが原因であって 「理性の暴走」などという論理的に意味のない観念にいつまでも囚われている頭の悪さ故に哲学が実用的に役に立たないのである
大衆マスコミの多くは 養老孟司やマイケル:サンデルやジャレド:ダイアモンドの言っていることには論理的な意味が存在すると勝手に妄想するという頭の悪さがあるのだが
その原因を論理的に理解していないからこそ 次々と似たような論理的には意味のない観念を信じ込もうとし続けることに陥るのである
「理性の暴走」だと信じ込まれている事柄の全ては 根源が情動本能によるものであり 外見上理性「的」にどんなに見えるとしても それらは論理的根拠のない大衆観念による妄想錯覚に過ぎない
カントの純粋理性批判というのは そもそも批判の前提自体が間違っているのであって 間違った前提に対してアプローチだけ変えても論理的には不毛なことに違いなどない
そもそも大衆人気という多数決というのは 大抵の場合科学論理的根拠に基づいた合理的解決策ではなく 単に大衆の多くが観念的に「役に立ちそうな感じがして 安心満足感が得られる」だけの場合がほとんどである
だから京都大学学長の山極寿一が「ヒトのほとんどは戦争をしていないことを知れば 戦争はなくなる」などという わけのわからぬ 何の合理性も根拠もない妄想で気分的に安心満足することで 短絡的に鵜呑みにするようにもなるのである
ヒトの多くは その場限りに気分的に安心満足さえ出来れば 内容に合理的意味があろうがなかろうがどうでも良い
大衆の多くが養老孟司の著作に意味があると錯覚し マイケル:サンデルが提示するトロッコ問題には倫理の本質が存在しないことにも気付かず ジャレド:ダイアモンドの知識のひけらかしだけでピュリッツア賞が獲得出来るのである
ところが 自分達の頭の悪さ故に間違いに気付かなかったことを認めることが気分的に嫌なため ヒトの多くは自分達の頭の悪さを論理的に認識理解せず 次々と科学論理的には全く意味のない観念論を鵜呑みにすることで その場限りの気分的安心満足ばかりを追求し続け 結果的に具体的な安全性への対策を逸し続けるのである
その結果 回避可能性があった失敗や惨劇が繰り返されても 自分達には一切の落ち度がないと勘違いし続けるのである
制度上民主主義を導入していても 国民の多数がバカならバカ主義にしか陥らない
◇
「利己的利益追求」や「生存」「種の保存」などといった目的に基づいた理性的行動の全ては 根源が情動であって どんなにその過程に理性が介入していても それは「理性の暴走」ではなく あくまで「情動の暴走」なのである
科学的な真理の追求においては 純粋に「本当のことを知りたい」という知的欲求に基づいて 「情動という主観」と「理性に基づく客観性」との区別が必要不可欠である
目先の気分的満足や安心に囚われることなく 純粋に真理を追求するためには 区別が重要となる
区別とは分類のことだが 分類自体が間違っていれば 間違いに基づいた理論しか立てることは出来ず 分類という思考の基礎が間違っていれば その上に構築されたあらゆる理論は無意味な屁理屈や言葉遊びにしかならない
脳はドーパミンが持つ常習性によって 安心か不安かで分類を作り出すのだが 分類に論理的根拠や客観的事実が伴わなければ主観的好き嫌いの範疇にしかなず 客観的には意味がない
客観的に意味のない主観的観念に基づいた行動しかしなければ 当然「安全」は蔑ろにされることになる
その場限りに気分的「安心」満足ばかりを追求するというのは 脳が幼稚だからである
従来の生物学においては 「生物の目的は生存や種の保存である」とされてきたが 生存も種の保存も結果でこそあれ 誰の合理的目的意識選択も介在しておらず 「生物の目的」などというものは最初から存在していないのである
生物とは 「結果的に生存していた物を生物と分類しただけ」に過ぎないのだが
ヒトは主観的に「死にたくない」という情動主観の強度程度が優先してしまうために あたかも「生存こそが目的」という非科学的妄想観念に囚われ 主観に基づいて客観的事実を捩曲げて解釈してしまう習性がある
フランシス:ゴルトンの優生学は こうした生物学全体の基本的な間違いに基づいて構築された屁理屈であり 優生学というのは天文学における天動説のような根本的大間違いなのである
たとえ医学の進歩によって永遠に生きられるようになったとしても 生きる目的そのものがないまま ただ漫然と生き続けることに一体何の意味があろうか
別に「何年生き延びられるか」を他人と競争することを目的にしているわけでもなければ 金儲けや多数からの人気取りが人間としての存在価値になるわけでもない
仏教における「執着」とは ドーパミンによって作られる常習性や中毒のことであり 特定の主観的観念に囚われることによってヒトは客観的事実の追求をするための自律的論理検証性を喪失するのである
ところがヒトの多くは 多数派によって作り出された価値観というものを 論理的根拠もなく短絡的に鵜呑みにしている方が気分的に安心で満足感が得られる習性があるため 少数異端であるというだけで短絡的に排除差別を平気で行うようにもなる
マイクロソフト社のTwitterAIがヘイトスピーチを始めたのは Twitter上では多数がヘイトスピーチを占めていたために AIはヘイトスピーチに同調したのであり 少なくともTwitter上ではヘイトスピーチが多数であることの証明でもある
いや 言い換えよう「差別排除を平気で行う」のではなく むしろ「必死になって差別排除に邁進する」のである それが中毒というものである
ヒトが 何に執着し 中毒になるのかは わからない
それはどこに何の植物が生えるのかを予測するようなものであり 傾向性くらいは予測出来ても 完全には予測不可能である
別の話に例えれば どのニワトリやブタからH7N9鳥インフルエンザウイルスがヒトからヒトへ感染するよう変異するのかを正確に予測することが出来ないのと同じである
「人類の救済」だの「天皇陛下の御為」だの「人類の遺伝的進化のため」などといった大義を振りかざすことによって ヒトは今まで他人に多大な暴走迷惑をかけてきた
誰がどのようなバカに陥るのかなど 不確定要素が多過ぎて特定不可能なのである
警察による「テロ対策」などと称した逮捕ゴッゴなど 実際にテロが発生してからの対応にしかならず 「なぜヒトがテロリストや通り魔になるのか」という根源的原因を究明しないことには具体的再発防止対策には全くならない
ましてや「テロを準備したから懲罰」などという法律は テロリストの頭の悪さを強化してしまう可能性の方が圧倒的に高く 逆効果である
もちろん危険な行為の可能性があるのなら監視や行動拘束は必要な措置ではあろうが 罰というのは感情論であり 合理性がない
そもそもテロや通り魔というのは 主観的報復感情の暴走に起因するものであって これは刑法罰と同じものである
客観的事実究明に基づいて安全性を追求していないという点においてはテロも刑罰も同じものなのである
テロや通り魔が「身勝手」というのであれば 刑法懲罰も所詮は「身勝手の多数決」にしかなっておらず 具体的な原因究明や再発防止対策には全くつながらないという客観的事実を無視する原因でもある
司法裁判が形式に異常にこだわるのは そこに客観的事実に基づく論理的根拠が存在しないが故に 外見上尊大な風味を醸しておかなければならないのである
裁判所が過剰に豪華な法廷をしつらえ 裁判官は如何にも偉そうな服を身につけ あたかも刑罰こそが唯一絶対の根本的対策であるかのように装っているのは 本当は単なる法律制度に基づいた単なる役所の手続きに過ぎないという薄っぺらな因習を事後正当化するための演出に過ぎない
司法裁判というのは 大衆にとってはあたかも理性的に見えるのかも知れないが 刑法の根本が被害者や社会的報復感情である以上 それは論理的根拠には一切ならない
Ende;