書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

〇薄いということ。

2018年12月04日 14時20分50秒 | 意識論関連
「誰かに救ってもらおう」という社会的な「甘え」があるから 「自分から社会を救いたい」という主体的目的意識を喪失するのである

宗教というのは基本的に 自分の主観的気分が満足のために「神に救ってもらえる」ことが目的のため 「これさえやっときゃ全ては解決」的な短絡安易に思考停止に陥り 何も自律的に判断しなくなるよう誘導する

その意味においては 神は二つに分けられる

一つは 神の言いなりになっておけば 自発的には何も考えず 何も判断せず ただ盲目的に信頼さえしておけば全ては神がナントカしてくれるという「バカの神」である

この「バカの神」というのは宗教に限らず 共産主義ゲリラでも ナチズムでも 養老孟司でも何でも構わない

とにかく盲目的に「これさえやっときゃ 全ては解決する」という神話に基づき 自発的には何も考えずに権威と見なした相手に服従してさえおけば自動的にナントカなると思っているのである

様々な「人災」の陰には こうした合理的根拠のない神話の類を盲目的に鵜呑み信頼するという頭の悪さがある

クイズ芸人の宇治原ナントカ君が「自分は頭が良いんじゃぁ!」などと根拠もなく強弁しなければならなくなるのも「クイズの正解率こそが頭の良さだ」という神話に基づいた宗教に陥って洗脳されているからである

一見 人畜無害なように見えるかも知れないが 知能の本質が何なのかを撹乱するオカルトに他ならない

考えの浅い薄っぺらで幼稚な観念は 真理を撹乱し 社会安全性を損なう無責任なものである



何度も言うが ハインリッヒの法則に則って考えれば「ヒヤリ、ハッと事象」の段階から丹念に潰してゆくという丁寧さや慎重さというものが 安全性にとっては最も大切なのである

タレントの千秋の妄想も 大衆観念的には人畜無害なように見えるかも知れないが 幼稚で薄っぺらな考えを放置するから相模原障害者施設襲撃事件の植松聖みたいな強烈なバカが出てくる要因となるのである

多数派の無責任さというものは 多数派であるが故に責任が薄まると錯覚するのだろうが その感覚は気分的安心に過ぎず 論理的根拠を伴わない「嘘」錯覚に過ぎないのである



Ende;
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〇煩悩。

2018年12月04日 13時50分45秒 | 意識論関連
個人の利益を追求するために学問があるわけではない

多数他人から評価されて世間的成功をするために学問があるわけではない

学問というのは既存の学術権威からの評価を得ることが目的ではない

目的意識とは 自発的論理検証によって合理性のある行動選択のためのものであって

これは自己の様々な情動の中から客観的合理性に基づいて選択するものであり 目先の情動の程度や強度に無意識に流されているから 主体的目的意識を喪失することになる

勝ち負けや順位序列を競うのは それが個体の生存価にとって有利だからであるが 個体が利己的に有利さを追求している社会というのは持続可能性や安全性が蔑ろにされてしまうものである

生存価というものは利己そのものである

利己的利益追求というのは 個体の生存価と同義であり 個体の生存価にとって有利な行動だけを追求すれば 必然的に社会的安全性は無視されることになる

多数他人や権威からの評価承認ばかりに意識を奪われていれば 社会安全性は自発的には追求されることはなくなる そもそも他人からの評価承認自体が本質的には自発的ではないからだ



生物学における遺伝的進化のメカニズムというものが あたかも全て合理性を伴った完全無欠の万能の願望器か何かと勘違いしているからこそ アダム:スミスの言った「見えざる神の手」などという根拠のない妄想神話を鵜呑みにすることになるのである

遺伝的進化が起きるためには 生存に適した個体以外が全て死滅する必要性がある 現在の社会の貧富格差というのは 自然界における淘汰圧力を経済に導入しようとした資本主義の必然的結果に過ぎない

つまり 資本主義というのは無数の貧困者を淘汰することで 金儲け能力が高い者だけが生き残るためのものなのである

「個人が利己的利益を追求しておけば自動的に社会全体が潤う」という 論理的には何の根拠もない妄想神話を鵜呑みにしているからこそ 貧富格差の拡大が止まらないのである

ヒトという種の生物は 多数や権威に服従同調迎合しておけば気分的に安心して何も考えなくなる 逆に言えば服従同調迎合に対する強迫観念に意識を奪われることにより自発的論理検証に意識が働かなくなるのであろう

オイラにゃそんな強迫観念があんまりないので ようわからん

多数派でよってたかって個人攻撃さえしておけば 全てが解決したかのような錯覚が「正義」の正体であり

刑罰という非合理な社会制度を「解決」だとみなして それ以上何も対策しない だから根本治療にならず 何度も同じような過ちを繰り返すことになるのである

学力成績評価こそが「救い」か何かと勘違いし 盲目的に教えられたことを鵜呑みにしていれば安心になる しかし その安心というのは盲目性が作り出した神話錯覚に過ぎない



論理的には「人が人を殺してはいけない理由」などないのだが

「人と人が殺し合うような社会に生き続ける理由」もまたないのである

生存というのは生物の結果であって 目的ではない

人間の存在意義というのは生存とは関係がなく 存在としての尊厳というものは生存価にとって不利になることも珍しいことではない

マハトマ:ガンディやルーサー:キング牧師などの非暴力主義という一方的な大人対応をしなければならなくなるのは 大多数の平均的な大衆が暴力的であることが原因である

生存にとって不利な行動選択に至ったからといって 人間としての尊厳が失われるわけではない

たとえその場限りに生存にとって有利な行動選択をしたからといって 永遠の命が得られるわけではない

人間としての尊厳においては「どう生きるか」というのは 「どう死ぬか」と同義なのである

何やら観念的に悩ましい話を読んで 悩ましい気分に陥ったことを短絡的に「自分は頭を使った」と錯覚して その錯覚で短絡的に「自分は何かを考えた」と勘違いし「自分の頭は良くなった」と妄想するのは簡単である

それはとても簡単なことであるため 大衆から人気を得られるのである



ヒトの大多数は先天的な社会形成習性が促す強迫観念行動バイアスによって 多数派に同調し 権威に服従していないと不安で仕方ないため 自律的な社会的責任判断との葛藤で悩み苦しむことに陥るのだが 「悩んで」いる時点で既に人間性としての自律的な社会的責任判断を放棄する気だろうが!

だから「煩悩」っつうんだよ!

人権のために命懸けで活動した偉人達を褒めたたえておきながら いざ自分の選択になると「悩み」苦しんだことを「考え」たと勘違いして満足する

それを「バカ」という以外にどう形容すりゃ良いのか オイラにゃさっぱりわからんわ



Ende;
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〇見えざるバカの手。

2018年12月04日 03時03分46秒 | 意識論関連
自分の行動を事後正当化するためだけの言い訳言い逃れ取り繕いはぐらかしばかりを言っているバカを相手にしていると

「ボーッと生きてんじゃねぇよ!」って言いたくなるんですけど

言っている内容に論理的根拠が何もない寝言ばかりで頭がいっぱいなので 当人の主観的には必死だったりするんですね

なので 当人的にはボーッとしている自覚がない

これは 振り込め詐欺に騙されている最中の被害者の心理状態と同じで 当人的には必死であるが故に騙されていることが認識出来ない

外見上の評価が下がることを怖れ過ぎて 強迫観念にさいなまされ 感情的には焦りとか不安とか恐怖といった強烈な情動によって寝言レベルの思考しか働かなくなってしまっているので 自己客観性というものが全く働かなくなってしまっているため 必死になってボーッとしている

論理的に物事を検証するためには 既に自分の脳に焼き付いている既製概念としての常識も含めて客観的な視点が必要です

クイズの正解率が高かったり 学力偏差値が高かったりすると 一般大衆の多くは「頭が良いね」とほめてくれるでしょう しかし その基準に論理的根拠とか科学的証明があるかと言えば ないんですねぇ

科学は多数決ではないんですよ 多数派が「そう思っている」からといって それが合理的根拠を伴った真実かどうかとは無関係なんですね

ところが 多数の大衆が学力偏差値やクイズの正解率を短絡的に「頭の良さ」だという思い込みが 合理的根拠を伴った真実ではないことを ただの一度も考えたことすらなかったという事実を受け入れるためには 自分の何が愚かだったのかを自覚認識する必要があります

でも それって気分的には嫌なんですね

論理的根拠よりも 気分が優先すれば これは科学から逸脱せざるを得ない

客観的事実や理論よりも 主観的気分感情が優先していて 一体何が科学なんでしょうか

自分の主観的な感情や気分というものが 意識そのものだと勘違いしているから 客観的事実や論理的証明が後回しになってしまうことになる

「俺様は他人よりも頭が良いんだ」という錯覚に陥って 単なる観念的優越感に浸って満足することが目的だからこそ 科学を逸脱することになる

なぜ 自分の学力成績評価が高い必要性があるのか それは他人よりも優秀であると承認されていれば生存にとって有利だという強迫観念が根底にあります

「利己的な生存価にとって有利になりたい」というのは 単なる強迫観念に過ぎず 客観的に見れば社会全体にとっては「どうでも良いハナシ」でしかありません

多数大衆から「頭が良いね」と評価されたからといって それが社会にとって何かの役に立つわけではありません

たとえ どんなに人気が出て金儲けに成功しても それは利己的利益追求に過ぎず 公益的価値など一切ありません

金儲けに成功すると 大衆は短絡的に「偉い」などと形容しますが これもまた論理的根拠がない大衆観念に過ぎません

東芝の社長とか 日産の会長といった肩書が 短絡的に人間として「偉い」ことの論証にならないでしょ それは学力成績評価も同じことです



先日 ちょっとビックリしたことがありまして ある学生が「勉強するのに必死で 何が正しくて 何が間違っているのか何て考えたこともありませんでした」って言い出したんです

え? アンタ一体何が目的で勉強してたんだって 耳を疑いましたよ

目的が評価だけで その先の目的がなかったんですね

本来学校というのは自分がやりたいことを実現するための手段であって 学力成績だって手段であることに違いはないんですけど 手段で頭がいっぱいになってしまうと手段そのものが目的にすりかわってしまう

こういった手段と目的の履き違えというのは よくあることです

よくあることなんですけど それって「バカのやること」なんじゃないですかね

自分の成績評価が上がれば 高い給料が貰えて税金もたくさん払えるから社会貢献にもなって 自動的に社会の役に立つはずだと だから何も考えずに学力成績さえ上がれば「見えざる神の手」が自動的に働いてくれるから 安心して学力成績を上げることだけ考えておけば良いんだと 「いつ勉強するの? 今でしょ」って言われて鵜呑みにする

真理の追求って一生かけて行うものであって 学校のお受験とか企業の採用試験だけ通過しときゃ良いっていうもんじゃないんですよ それはもう学問でも何でもない

「学生時代に学力評価が高ければ 年収が上がる」ことだけを期待しているからこそ 原発の津波に対する脆弱性も簡単に放棄するようになる

利己的な年収が目的なので 自律的な社会的責任判断は後回しになる

大企業の不祥事も後を絶たないのは 大企業に勤めている取締役も社員も保身や体制維持だけが目的になってしまっているからなんですよ

必死になって怠慢している

必死になって寝言を言っている

当人必死なんですけど ボーッとしている

そりゃ破綻しますわな

何だか説明する気も失せるわ

眠いから寝る



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