書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

〇封建的独裁中毒。

2018年12月06日 23時13分51秒 | 意識論関連
何かさ

自分の過失を指摘された時に ほとんど条件反射的に逆ギレする短絡的なバカって結構いるんだよね

どこぞの頭のイカれた病理診断医とかもそうだったな

やっぱ評価承認欲求中毒の奴って 何があっても常に順位序列が上として扱われないとすぐに「リスペクトしてくれねぇ」だとか言い出して逆ギレする

何だろう 成育環境で批判や指摘をすると逆ギレするような糞親だとこういう糞野郎が出来上がるんじゃねぇかな

親のご機嫌取りをするばかりを強要されて育つと 他人から自分のご機嫌取りをしてもらえないと 自分が親のご機嫌取りを強要されていた現実を正当化出来なくなって 認知的不協和を解消しようと身勝手自己中心的逆ギレ糞野郎が出来上がるんじゃなかろうか

家庭内ヒエラルキーが酷いと 他者との関係性においても何が何でもヒエラルキー序列順位を強要しないといられない糞野郎が出来上がるんじゃねぇのかな

学校でのイジメとかでも くだらない屁理屈で簡単にぶちギレて暴れるバカがいるから起きるんだと思うぞ

ちゃんと調べあげて統計的データを集めないと 糞野郎がいくらでも出てくるぞ



Ende;
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〇ダニング:クルーガー効果。

2018年12月06日 14時29分06秒 | 日記
この現象で興味深いのは、能力がないことによって、人はうろたえたり困惑したりするのではなく、むしろ不適当なほどの自信に満ちあふれていることだという。

ダニング:クルーガー効果 -カラパイア

これって振り込め詐欺の被害者に共通している「自分だけは絶対に大丈夫」っていう根拠のない自信のことだよね

西野七瀬的にマイナス思考なくらいな方が事実認識力が高いとも言われている



最近カラパイアばっか引用してっけど 他のサイトが開けなくなっているので情報ソースが偏ってるかも (T_T;)

一応ググって他のサイトでも似たようなトピックがあるかどうかは確認してはいるよ



Ende;
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〇限界と役割。

2018年12月06日 13時53分42秒 | 意識論関連
遠藤秀紀(東京大学 解剖学)は子供時代に通っていた神学校で教師から「実証不能の神にすがらなければ生きられない人もいることを どうか忘れないで欲しい」と言われたそうである

頼み事をされると認知的不協和を解消する形で相手を信用する心理バイアス(ベンジャミン:フンクラリン効果)によって合理的根拠がなくても鵜呑みにしちゃう習性を利用してんじゃねぇのか

なんつうことを言い出したりするから怖がられるんだけど

主観的に怖いかどうかと 論理的に間違っているかどうかは別

そ れ は 別 !



宗教って科学や理論哲学ではどうにもならない領域において価値が残されているのかも知れない

津波で息子一族を流されて一人だけ生き残ったおばあちゃんに対して 科学も理論哲学も臨床心理すらも何も出来ることがないからだ

不遇にも全てを失った人に対して社会持続可能性だの安全性だのをどうこう言えない

科学の限界というものも自覚しなきゃいけないとは思う

本当に宗教に価値があるとしたら それは「オノレが生きるため」なんかではなくて 「誰かのため」じゃないとおかしい

鬼が現れて「お前の目玉をよこせ」と言ってきたら 自らの手でえぐり出して差し出す覚悟が宗教家には必要

自分が利己的に実証不能の神にすがらないと生きられないことを論拠に事後正当化するような怠慢な宗教には価値があるとは到底言えないだろう

千日回峰行を命懸けでやって自慢している暇があるなら スーパーボランティアの爪の垢でも煎じて飲んでおけば良いんじゃねぇかと思っている

自分の煩悩すら制御出来ない奴が 社会安全性を無視して無責任な嘘をついて良いわけじゃねぇだろ

嘘だのはぐらかしだのに執着していて 何が神だ 寝言ぬかしてんじゃねぇ!



宗教ってのは多くの場合権威性を主張したがるんだが 権威自体がそもそも宗教的盲目性に過ぎないので 結局は科学も宗教に冒されてしまう

宗教が社会にとってどのような意味や価値を持っているのか その分別がつかない奴が宗教やっているからわけがわからなくなる

科学は 実証不能の神が社会安全性にとって役に立たないことを証明するが それ以上のことは何も出来ないし することはない やったら科学じゃなくなるからだ

宗教に仕事があるとすれば それは社会安全性に関わらない領域であろう

音楽や芸術が人の気持ちを和らげるように 主観的な領域において宗教の役割はあるのかも知れない

だが それはあくまで主観的な領域であることを忘れず 他人に自分の主観を押し付けない謙虚さが必要である

異教徒を差別迫害することが宗教の仕事ではなく むしろ 如何なる他者をも受け入れる心の広さにこそ宗教の存在価値があると言える

科学的真理を受け入れられない時点で宗教としての社会的存在価値はない

地動説を火炙りにしておいて宗教だと言い張るのは傲慢としか言いようがないからだ



Ende;
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