ちびちゅうちゃんが学校で他の子が振り回した傘が眼球を直撃
視力が戻らないという事故があったそうな
興奮状態になって行動に歯止めが効かなくなるヒトというのが子供に限らず時折いて
大人になっても他人への迷惑も気にせず 泥酔して大騒ぎするバカというのがいる
他人への配慮をしないことで 自分の方が優位に立ったような錯覚に溺れて 結局「最低な人」になって自己肯定感が低くなるのである
他人への配慮が出来ない奴というのは 「俺はそういう奴だ」という勝手な決め付け(線引き)をすることによって自己を客観的に省みることを放棄し 「考え」ないようにすることで精神の怠慢を正当化できたような錯覚に陥り 満足安心して他人に迷惑をかけるようになるのである
他人への迷惑に配慮が出来ない奴が 本当は人として最低だということは「知って」いるのだが その客観的事実は意識から外すことによって精神的怠慢に陥り 迷惑行為に邁進し続けるのである
とはいえ ヒトである以上は客観性を全く無視することもできないため 結局「人間」としての自己肯定感を喪失し 野獣のように騒ぎまくる以外が何もできなくなるのである
保育施設というと 一般的には騒がしく絶叫する子供がいるものだが
ある幼稚園では子供の主体性を徹底的に尊重することで 子供が絶叫しなくなるのだという
子供に限らず 他人の迷惑に配慮せずに絶叫したり騒いだりするのは 人間としての主体的行動選択ができないことによる精神的ストレスが原因なのである
本当に自分が何をしていたら楽しいのかがわからないから 他人との関係性の中で騒ぎ興奮し暴れることでしか脳が快楽を感じなくなっているのであって これが本当は人間としては最悪な状態であることを客観的には自覚していながらも 目先の主観的快楽に無為に無意識に流されることによって 自己客観性を無理やり無視し続けるストレスが溜まってしまうことで 結局自己肯定感を喪失するのである
バカが騒いで暴れるのは あくまで他人との関係性の中だけである
1人で騒いで暴れても 脳は快楽を感じることはない
あくまで他人に迷惑をかけることによって優越感を錯覚しているだけであって 脳内麻薬を自給自足する術を知らぬ無能者特有の行動パターンである
静岡大学の加藤英明のように 爬虫類の研究に没頭できる人であれば 夜中に泥酔して騒ぐような迷惑行為には興味がない
昼間のうちに爬虫類の研究に没頭し 砂漠の真ん中まで行って一日中穴掘りをしていたら 迷惑行為なんぞしている余裕はないのである
迷惑な奴というのは 迷惑なことをする以外に何も快楽が感じられないから 必死になって迷惑行為に邁進するのである
猿山のサルがエサの奪い合いで勝ち抜くことしか出来ないのと同じで バカというのは他人を蹴落としたり貶めたりすること以外には何も優越感を得られるものがないから 必死になって取り憑かれたように迷惑行為に邁進するのである
優越感というものは あくまで他人との比較関係性に依存したものであって 脳内麻薬の自給自足には全くならない
大坂なおみに自信がないのは どんなにテニスで成果を挙げても優越感に溺れるだけの無神経さがないからである
「他人と比較して 自分の方が優れている」などという観点には興味がなく あくまで「テニスに没頭していることが楽しい」から過酷な練習も続けられるのである
自信が持てないというのは 満足ができていないという意味でもある
他人からの評価に左右されない自発的な行為の場合 どこまでやっても終わりはない
印象派の巨匠クロード:モネは「作品が完成したなどというのは 画家の傲慢である」と述べた
加藤英明も 爬虫類の研究に満足することはないだろう 相手は何せ地球規模である 一生かかっても全てを知り尽くすことなど不可能でありながらも その一端だけでも知りたいからやっているのであって
終わりのない 果てしのないものに興味を持ってしまえば 「満足する」ことも「自信を持つ」こともないのである
自分の主観的観念に 論理客観的根拠のない過剰な自信を発揮しているからこそ 他人の迷惑にも配慮ができなくなるのである
「生きているだけでも たいしたものだ。」などという主観を科学的論証であるかのようにすり替えるのも 論理客観的に物事を検証することが出来ないバカ特有の傲慢な決め付けである
一体何様のつもりであろうか
凶悪殺人犯までもが「生きているだけでも たいしたものだ」という話にはならない
ヒトが生きているだけでは人間性や倫理は発揮されることはなく 必然的に社会安全性や持続可能性への配慮もされなくなるのである
科学というものに個人的主観を混入させ 論理整合性や論理的飛躍を無視するのは 科学者としても哲学者としても無能で無責任である
そこに気づかぬマスコミも全員同罪だぞ
Ende;