書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

悪魔の正体

2021年09月14日 20時33分05秒 | 意識論関連

日本ではあまりイスラム教徒がいないこともあって 観念的な恐怖心を抱きがちではあるが

イスラム教では民族宗派によらず平等や弱者救済を勧め

不労所得を禁じ 金利のないイスラム銀行を提案しており

また 実際のムスリムの大半は客人をもてなし 対話によって調停することを厭わないオープンな人々である

キリスト生誕教会はムスリム(パレスチナ人)によって運営管理されている

「ムスリムは唯一絶対のアッラーを信じなければならない」とは書いてあるが 「ムスリム以外までアッラーを信じさせなければならない」とは書いておらず 「異教徒を差別迫害しろ」ともどこにも書いておらず むしろ異教徒との「平等」や「平和」を説いている

「平和を乱す者には武器を持って戦え」とあるが 基本的には「平和を愛せ」とある

そりゃ誰だって暴漢に襲われたら反撃することもあるわけで 至極当たり前の話である

一体どう解釈したら暴力過激思想になるのか さっぱり理解できない

頭の悪いバカがイスラム教を勝手に捻じ曲げて解釈をするとテロリストになるのであって これは別にイスラム教に限ったことでも何でもない

如何なる宗教やイデオロギーであっても 基本は平和と安全と平等であって 通底する主旨に違いなどない

ところが ヒトという種の生物は先天的に平等が嫌いで 順位序列による差別をしなければいられない先天的習性というものがあるため 暴力を用いて人々を服従させて統率しようとしたがるのである

こうした主旨を逸脱した戒律や法律の機械手続き的な運用性の害というものは 日本の警察でも見られるものであり 宗教の場合はどうしても盲目性が強く出るため「戒律さえ守らせれば 全ては解決」という短絡的発想に陥りやすい傾向がある

これは宗派やイデオロギーによらず あらゆるヒトの社会において見られる「人間としての欠陥」であり 「子供は学校でイジメを始める」ものであり SNS上ではマイクロソフト社のTwitterAIが深層学習してしまうほどのヘイトスピーチが溢れかえっているのである

まず 第一に重要なのは 弱者を暴力で抑えこもうとする卑劣な行為をやめることである

これは国家権力を用いた刑法罰も例外ではない

人間としての社会的責任を負うことを全くしたがらないバカというのは時折いるが バカがなぜバカになるのか その原因を徹底的に究明し 再発防止につなげることが被害を減らす上において最も合理的で実効性が高い

バカを殴っても 結局殴っている方までバカになっているのでは本末転倒である

世の中には間違った制度や手続きというのはあるものの だからといって暴力で制度や手続きが改善されるというものではない

社会構造上の不公平があるならば それは構造的な欠陥を論理的に導き出し 地道に丹念に修正改善し続けてゆく必要がある それでこそ「文明」社会の意義である

平和を乱す「悪魔(人間としての欠陥)」とは ヒトの先天的本能習性の中にあるのであって キリストやムハンマドが望んだ「主旨(本当の目的)」を 多くの有神論者達は忘れているから 何かにつけて暴力で解決しようとするのである

イスラエルの兵隊でも 大半は「パレスチナの赤ん坊が丸焦げになること」は望んでなどいないはずである

600万人のユダヤ人殺害計画書を作成したナチスの官吏であっても 屍体を直視することは嫌ったという

にも関わらず暴力破壊で解決しようとするのは 自分で物事を考え 検証するという「人間としての意識」が働いていないからである

個人的に嫌いかどうかで物事の正義を振り回しては 相手の個人的な嫌いに基づいた正義も正当化しなくてはならなくなる

それだと相互の個人的好き嫌いだけで「正義」のぶつかり合いにしかならない

中東由来の一神教の有神論者達に欠けているのは キリストやムハンマドが望んだ「本当の目的」を忘れていることである

一体何の目的のために戦っているのか それを忘れて「戦い」という「手段」を目的だと勘違いしているから 暴力の応酬が終わらないのである

何が「本当の目的」なのか それを見極めるのは論理客観性である

 

 

Ende;

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虚飾

2021年09月14日 12時03分05秒 | 意識論関連

「遺伝的進化には目的がない」ことや 「生存戦略などという概念は成立しない」といった生物学上の誤謬に対する指摘反証は どこかの書籍に書いてあることではない

「独学」などと標榜して知識の「量」をどんなに増やしても 主体的な論理客観的検証性がなければ 既にどこかに書かれていることの間違いには誰も気付くことはできないのである

 

何が目的で学ぶのか その動機を自覚していないからバカが治らない

知識の量さえ増やせば頭が良くなって大学に合格できるとか 嘘に騙され損をしないようにできるとか 誰も気づかない間違いに気づいて業績を上げることができるとか そういった利己的利益を目的にしているのであれば 結局は動機の根源が利己的利益や保身という目先の欲望なので 批判精神や論理客観性は働かず ただ書いてあることを憶えて「知って」いるだけのデクノボウになるだけである

利己的欲望が動機の主体だからこそ 根拠のない嘘やデマでも信じ込み 鵜呑みにして満足安心する

そもそも独学というのはマニュアルに頼るものではない

「こうすれば独学ができる」みたいな話がそもそも自己矛盾であることには 衆愚は誰も気付くことはない

マニュアルも案内も何もない領域に踏み込むから独学なのである

誰かに案内されたり そそのかされている時点で独学でも何でもなく 独学を装った多数による流行に過ぎない

 

独学の動機の基本は 主体性である

誰かにそそのかされて気分が良くなって安心して嘘でもデマでも鵜呑みにすることは「独学」ではない

本当に主体的に物事に取り組んでいれば 多数他人の意見に無為に流されることなく自分で真偽の判断をすることも出来るが

多数や他人からの評価や世間的成功を目的とした不純な動機だと 自分で論理検証することなく 自分の主観的な安心満足だけが判断基準になり 嘘でもデマでも気付くことができなくなり バカになるのである

既存の自己の主観的観念(気分や根拠のない常識)だけでしか物事を判断しないため 現時点での選択可能性というものを発揮することができないからこそ 批判性精神も発揮されず 論理客観的検証もできないのである

無能な有象無象からの評価を欲していれば 無能な有象無象の評価基準でしか物事を判断できなくなるのは必然というものである

どんなに多くのヒトが 無能で何も気付くことのできない有象無象からの評価や報酬をアテにしているとしても その多数が「正常」であることの根拠にはならない

 

主体性もまた 「自分の主観的気分」が動機ではあるが 他者からの評価に左右されないという点において純粋なのである

他人からの評価と 純粋な好奇心と そのどちらに傾くかによって 本質的主体性か評価承認欲求かの分水嶺となる

静岡大学の加藤英明のようにバカみたいに爬虫類の研究に没頭しているのは純粋な好奇心によるものである だから夜中に泥酔して騒いだりはしなくなる

多数大衆からみれば「バカみたい」にみえるが これは外見であって 「衆愚の価値観」に過ぎない

「バカみたい」ではあるが 「バカ」そのものではない

本当の「バカ」というのはが大衆が「思って」いるようなものではなく 似非哲学で人生相談をする似非哲学者や 進化万能論を宗教にすり替える似非生物学者である

誰が本当のバカなのかを識別できないからこそ 嘘やデマを見抜くことができないのであって どんなに知識の「量」を増やそうとも バカは治らないのである

 

「知識のエコシステムを 生態系のピラミッドになぞらえれば」などというデマは 他人との順位序列を目的とした不純な衆愚を読書猿の観念に誘うためのものであり 読書猿の言いなりになっていれば他人よりも賢くなって優位に立つことができるという優越感を「脳への報酬」として衆愚は盲目的に読書猿を信じ込むのである

「認知的ワクチン」などというものは存在しない 「これさえ接種しておけばバカにはならない」といったバカげた理屈は存在しないからである

バカというのは先天的な要因によるものであって 他人の嘘を見抜けないからバカなのに バカがそそのかす嘘を鵜呑みにして「これさえやっときゃバカにならないんだな」と「思って」いることそのものがバカの根源なのである

 

哲学というものは 物事の真理を追求することで 「本当の目的」を見極めるためのものであり

人生相談などといった個人的な「悩み」を解消して「気分が良くなる」ためのものではない

セーレン:キェルケゴールを読んで気分が良くなることなどない

ジャン:ポール:サルトルも同じである

カール:ライムンド:ポパーで悩みが解消することなどない

そしてこれらは大衆からの人気は全くないのである

これらは自分への戒めのために読むものであって 他人に推奨できるようなものではない

自戒を他人に推奨している時点で 自戒が欠如しているからである

 

子供が「学校に行きたくない」と言い出した時に 「本当の目的」を忘れるための屁理屈をでっちあげてしまえば 何も悩まずに子供を強制的に学校に送り込むことが出来るであろう

哲学というものを 主観的な「悩み」を解消するためのものだと勘違いしていれば どうにでも都合よく解釈可能な「名言」を担ぎ出して 無理やりこじつけることでその場限りの納得感を醸成することは簡単である

主観的気分としての「悩み」が 本当に望んだ目的に適っているのかどうかを深く検証することを 嘘やデマで塗り潰し「なかったこと」にすることは簡単なのである

それはとても簡単なことであり 簡単なことしかできない状態を「バカ」と言うのである

バカは他人から間違いを指摘されたとしても 気分が悪くなる都合の悪い話には一切耳を貸さなくなる

もともと純粋な探究心がなく その場限りの気分だけでしか物事を判断しないため 間違いを指摘されても受け入れるだけの精神的余裕が何もないからだ

都合の悪い話に耳を貸さないということは 同時に都合の良い解釈なら何でも鵜呑みにする

都合の悪い話が真実なのかどうかを客観的に深く考えることなく 無意識条件反射的に頭ごなしに否定するための屁理屈なら簡単にでっちあげることができる

そうやってバカというのは益々バカが酷くなるスパイラルに陥るのである

デマを信じ込む「エコー・チェンバー」の構造とは そういうことである

エコー・チェンバーという落とし穴の中というのは 満足感に満たされている幻想の世界である

洗脳から引きずりだそうとすると激しく抵抗されるのは 洗脳の満足感を全て剥ぎ取り裸にするようなものであるからだ

虚飾を剥ぎ取られてしまえば 虚飾に固執していた頭の悪さを丸裸に曝すことになるため その恐怖から逃避する形で虚飾に固執し続けるのである

 

ギュスターヴ:ル:ボンの解説が「哲学者」ではなく武田砂鉄という「フリーライター」なのは 哲学界が無能なバカしかいないことの証左でもあろう

その直後の番組で「哲学者」による人生相談で「楽になる」だとか言っているNHKは あまりに無責任でフザケすぎである

そりゃ「NHKから国民を守る党」だとか出てきても文句を言う権利はない

ちゃんと検証しろ バカ共が

 

 


Ende;

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