哲学とは「考える」ことである
ところが大衆の多くは哲学というものを誰かの言葉を引用して勝手な解釈をすることで気分的に安心満足することだと勘違いしている
「考える」とは 論理的に何が正しいのかを判別することである
根拠もない観念に基づいた勝手な解釈をこじつけ満足することは「考え」ではなく むしろ「考え」を放棄し思考停止に陥って満足するという 精神的怠慢怠惰に他ならない
「できそうにないことは やらない方が良い(フリードリヒ:ニーチェ)」
「できそう」か「できそうにない」かの判別は主観に過ぎない
論理客観的根拠は必要がない
東京電力福島第一原子力発電所の社員が 津波に対する脆弱性を上司に提言しても受け入れてもらえない場合 原発事故の回避は「できそう」か それとも「できそうにない」のだろうか
人によって「できそう」だと思うか 「できそうにない」と思うかは主観であって それぞれである
「会社の体質ガー」と言い出すのは簡単だが その「会社の体質」とは何かといえば 社内における多数という個人が作り出すものであって 「体質だから個人には責任はない」という話にはならない
社内の「空気」だの「雰囲気」だのに無意識に流されていれば責任逃れができるわけではないからだ
多くの社員が「できそうにない」と主観的に思ったからこそ 多くの社員は津波に対する脆弱性を放置したのであって 主観的な根拠のない勝手な予想こそが会社の体質を作り出したのである
安全性というものは 個人の主観的な「できそう」か「できそうにない」かという勝手な予想に基づいて判断されるべきものではない
論理客観的に危険性が存在するのであれば改善「すべき」という判断が必要なのである
そこに「できそう」とか「できそうにない」といった個人的感想は持ち込むべきではない
ニーチェの言っている内容のほとんどは 単なる主観的観念であって 論理客観的な根拠の説明はなく ただ観念的に決め付けているだけである
「闇を覗いている時には 闇もこちらを見ている」などとも言っているが
で?
だから?
闇がこちらを見ていたら何だっつうの?
主観的に「怖い」と思うのかも知れないが 怖かったらやめておいた方が良いとでも言うのかしら?
主観的に「怖い」かどうかは 危険かどうかとは関係がない
「怖い」というのは個人の感想でしかないからだ
「幽霊の 正体みたり 枯れ尾花」
「尾花」とはススキのことである
幽霊をどんなに怖れても危険性の論証にはならない
真実を見極めるために論理客観的検証をするのが科学や哲学であって 主観的な好き嫌いは安心不安を持ち込めば科学でも哲学でもなくなる
妖怪悪霊の類いに惑わされて真実を見極められなくなることで 意味のない無駄なおまじないの類いで安心したり 根拠のない因習に囚われ不毛な暴力的差別や誹謗中傷で勝手な正義に陥らないために科学や哲学は存在するのである
主観的に「怖い」からとか 「できそうにない」といった「個人の感想」に共感同調しても それは気分的安心満足に溺れているだけであって 何ら真実真理の論証にはならず 哲学ではないのである
ヒトは動物であるため 主観的な安心満足が優先してしまう性質があり それによって論理客観的な真実を簡単に見失う習性が先天的にある
オカルトだのスピリチュアルだのが提供するデマを 多くのヒトが信じ込みたがるのは 簡単に安心満足することができるからである
ヒトが求めているのは主観的安心満足であって 論理客観的根拠に基づいた安全性や持続可能性ではない
論理客観性に基づいた安全性を求めてこその「人間」性や倫理なのである
客観的根拠のないデマを信じ込んで他人に多大な迷惑をかけていたら どんなに主観的に安心でも人間性や倫理の論証にはならない
東大医学部の学生であっても 地下鉄に毒ガスを撒き散らすことが「人類の救済」だと信じ込んでしまうこともある
医師免許を持っていさえすればデマに騙されていないことの論証には全くならない
学力偏差値というものは 進化生物学上の誤謬も イマヌエル:カントの「純粋理性批判」に論理客観的根拠が全く伴わないことも マイケル:サンデルの提示する「トロッコ問題」には倫理とは無関係であることに気付くことができるかどうかも関係がない
医師免許も同じである だから時折医者が突拍子もない非科学的なデマを流布することもある
「ウイルスは弱毒化する」などという話も従来の進化生物学における重大な誤謬に基づいた根拠のないデマである
ウイルスだろうが生物だろうが 「目的」にとって合理的な変異を都合よく「選ぶ」ことなど構造原理的に不可能であり 「弱毒化して宿主を殺さないようにしないとウイルスは困るので」などという説明は論理客観的根拠に一切ならない
それこそ「嘲笑」の対象にしかならない
どんなに学力成績が高くても 進化生物学上のこうした誤謬について指摘できる者は極めて稀である
実際私のように学力偏差値が低い者であっても 深く考えれば気付くことのできる話であって 偏差値が高い通り魔やテロリストというのも珍しいことではなく 学力偏差値は知能とは全くといって良いほど無関係なのである
哲学界が似非哲学をでっちあげて「気分的に楽になる」ことばかりを勧めているというのは 学生から論理客観性を喪失させ 精神の怠慢を推進する社会的にも極めて悪質な大ペテンである
学生から奨学金と称した借金までさせてペテンで精神の怠慢を促しているというのは 大学という教育機関の存在価値を貶める愚劣な行為である
多くのバカは こんなことにも誰も気付くことはないだろう
バカなので 何が正しいのか 何が嘘なのかも区別がつかないのである
そういうバカに限って根拠もなく「道徳」だの「規範意識」だの「人類の叡智」などというファンタジーを持ち出して満足しようとするだけで 論理客観的に真実を見極める能力は1ミリも持ち合わせてなどいないのだ
そのくせ社会的には何の役にも立たぬクイズの正解率だけで「俺は頭が良いんじゃ!」などと主張したがるのである
バカというのは 自らの頭の悪さを1Åも自覚していないのである
Ende;