本来生物は、生きるために生きているのであって、生きる以上の目的はないのだろう。生きるために大切なことはあっても、生きるよりも大切なことはないのだろう。まあ、生きていれば、それだけで立派なものなのだ。
更科 功
⇨夜中に泥酔して暴れていても「まあ、生きていれば、それだけで立派なものなのだ。」って言えるか?
「生きるよりも大切なことはないのだろう」というのであれば 「へずまりゅう」の生き方であっても正当化されてしまうのである
「生物に目的はない」のに どうして「生きるために生きている」だの「生きる以上の目的はない」ことになるのであろうか
更科功の言っていることは 論理整合性が著しく欠けており 到底科学的論証にはなっていない
生物や その遺伝的進化というものは全て自然現象に過ぎず 目的など存在しない チャールズ:ダーウィンの「種の起源」では直接は言ってないが 意味としてはそういうことである
それを「生きるよりも大切なことはないのだろう」などという あやふやな話で曲解しているのが更科功である
生物それ自体に目的があるわけではなく あくまでヒトの存続において地球環境を守る必要性が出てくるのであって 好むと好まざるとに関わらず地球環境は保全しないと何が起きるかわからないのである
美しいと思うか思わないかは関係がない
「俺は自然環境が美しいとは思わないので 環境保全なんぞしなくても良いと思っている」などという話にはならない
それはもはや「俺はホームレスが嫌いだから 全員殺せば良いと思っている」という主張と発想が一緒である
「美しい」かどうかは個人的な主観であって 論理客観的に必要かどうかは関係がない
稲を育てるのにイナゴが邪魔だと殺虫剤を撒き散らしたら イナゴの天敵のカマキリまで殺してしまって逆にイナゴが増えてしまったということもある
むしろ殺虫剤に頼らずにカマキリを人工繁殖させた方が被害が少なくて済むこともある
近年ではアブラムシ被害をテントウムシの人工繁殖で抑えるという取り組みもある
そのままだとテントウムシが飛んで逃げてしまうので 水溶性の接着剤で一時的に羽を固定しておいて畑に長期間滞在してもらうそうだ
個人の主観的な都合だけで物事の真偽が決まるわけではなく あくまで統合的な観点から 論理客観的な合理性ある行動選択をして 初めて本当の「人間としての意識」や「自由意志」となるのである
社会安全性や持続可能性に配慮できないバカに「自由」などない
それはドーパミン(脳内麻薬)の奴隷 先天的本能習性に流されるだけの無意識でしかない
ヒトの多くは多数他人から求められることが人間性だとでも思っているらしいが 本当の人間性というものは「個人が自律的に社会的責任を負うこと」であって 目先の多数他人の顔色を窺っても人間性にはならない
ナチス政権下であればユダヤ人殺害計画書が正義になる
社会のどこが どのように間違っているのかを区別識別できないのであれば 多数意見は全くアテにならないのである
バカの多数決はバカ主義にしかならんからだ
民主主義というのは 多数が「バカではない」ことが大前提である だから中国のような専制主義の方が感染症対策では有利になってしまうのである
むしろ 感染症対策においては 完璧に全員が「バカではない」ことが求められるのである
「純粋理性批判」における「天空の星々と人々との関係性」だとかいう話も 太陽系のように充分淘汰された整然と見える天体運行の結果だけを見て あたかも天体の動きの全てが永遠の秩序であるかのように錯覚しているアナロジー的こじつけであって 実際の天体というのは膨大なカオスの塊である
たまたま太陽系の数億年の平穏だけを見て 天体の全てが常に秩序立ったものだと「思う」のは大間違いである
勘違いも甚だしい
ほんの138億年前に宇宙は開闢し
太陽系の惑星運行は惑星同士の衝突や重力干渉による莫大な淘汰圧力の結果であり
月はかつて地球のすぐそばにあり 膨大な潮汐力で海をかき回していたし
地球は幾度もの全球凍結を経ている
50億年後には太陽は終焉を迎え 太陽系の惑星運行は全て御破算になるのである
決して天体も「永遠の秩序」などではないのである
200年前の天文学に基づいたこじつけなんぞ 何ら真理でも何でもありゃしないのである
「ヒトでありさえすれば人間性が発揮される」などという都合の良い話には根拠がないのであり
ヒトの集団の関係性(本能的な社会形成習性)の中にも人間性は立証不能である
人間性というのは他人などの環境に左右されない「自律」の中にあるのであって バカの多数決の中にあるわけではない
Ende;