田島木綿子が言うような「大きな環境変化が起きた時だけ発動される謎の進化メカニズム」など存在が立証されたことはなく 田島のでっちあげである
遺伝的な変異というものは常に生じていて ヒトの身体の大きさのバリエーションは多様なのも変異によるものである
こうした多様性の拡大は 文明社会には自然界のような強力な淘汰圧力が働いていないからであって これが環境資源の乏しい離島などではフローレス原人のような小型の人類への収束進化が生じることもある
環境資源の乏しい離島では 生まれつき身体が小さい遺伝的形質を持った個体以外が全て死滅することによって 遺伝的進化というのは生ずるのであって 決して大きな環境変化が起きた時だけ発動されるような 妙に都合の良いメカニズムが存在するわけではない
「生きている」というのは 「死んでいない」から「生きている」のであって 結果以上の意味は何もない
生きていて「安心」なのも 生きていることに「安心」を感じる個体種への淘汰圧力の結果であって 大脳辺縁系が促す情動行動バイアスであっても結果であって目的ではない
「死にたくない」とどんなに望もうが願おうが祈ろうが呪おうが頑張ろうが ヒトの死亡率は100%である
そもそも永遠に生き続ける合理的必要性など どこにもないのである
「命は大切」だと称して あたかも生存のためなら何でも赦されるかのように目的にしてしまうから 自然界の弱肉強食のような「生存競争」に陥るのである
「知識のエコシステムを 生態系のピラミッドになぞらえれば」などという話は 生態系のピラミッドを人間社会に適用する時点でキチガイの発想であり そもそも「知識のエコシステム」などという概念自体が根拠のない読書猿のでっちあげである
知識の「量」だけを基準にして封建的ピラミッドを勝手に規定し 情報弱者を切り捨て従属させるというのであれば これは「キチガイ」という以外言いようがない
自然界の生態系のピラミッドというのは あくまで食物連鎖という弱肉強食の「喰い合い」「殺し合い」による結果的な環境調和であって 個々の個体は別に環境調和を目的として自分の先天的形質や習性を選んでいるわけではなく ただの「結果」に過ぎない
環境調和に適さなかった個体種が全て絶滅した「結果」以上の意味はないのである
目的とは何かと言えば 「欲望を叶えること」ではある
理性そのものには目的はない
しかし 欲望というものは先天的に決定しているものであって 欲望自体を欲することはできない
「頭に来たから殴りたい」のも欲望であり
「淋しいから集まりたい」のも欲望であり
「温室効果ガスが増えようがなんだろうが快適に暮らしたい」のも欲望であり
「難しいことは何も考えずに寝て暮らしたい」のも欲望であり
「かわいいおねいちゃんのパンツを脱がしてポコチン挿れてみたい」のも欲望であり
「旨い飯が喰いたい」のも欲望であり
「トカゲの生態を知りたい」のも欲望であり
「宇宙の始まりや物質の根源を知りたい」のも欲望である
ヒトの欲望というものは状況や環境によって様々に変容し 自分では「欲すること」はできない
欲望自体は欲することが出来ないが どの欲望に基づいた行動が最も自分が存在する上において重要なのかを「考え」「選択」するのが理性である
虐待を連鎖する親も 決して自分の子供に危害を加えることを目的にして産んだわけではない
あくまでその場限りに生じた感情によって虐待を無意識に「してしまう」のであって どんなに強い感情を伴っていても むしろ強い感情を伴っているからこそ「無意識」に虐待をしてしまうのである
本当は 虐待なんぞしなくて済むならそうしたいのである
虐待をする親であっても 自分の子供の屍体を見ながら食事をしても味なんぞわからないだろう
それでも虐待をしてしまうのは 目先の感情が優先して理性を失わせ 自分の「本当の目的」を見失ってしまうからである
状況や環境によって様々に生ずる欲望や感情というものに左右されない 統一的な「目的」としての「最も重要な欲望」が何なのか その「真理」を見分けることができるのは 理性(客観的論理検証性)である
その場限りの主観だけで行動してしまうから 本当の目的を忘れ 本当には望んでもいない結末に陥るのである
「自由」とは 目先の欲望に無為に無意識に流されることではなく 自己を客観的に見つめて「本当に自分が求めているもの」に基づいて行動選択することである
成人男性であれば 女子中学生を物陰に連れ込んで強姦することは簡単であろう しかし その場限りの性欲を満たせたとして そんな身勝手なバカしかいない社会に持続可能性や安全性がないことくらいは本当は「知って」いるのである
「知って」いながら目先の欲望には勝てないのは 自分の感情や欲望を自分の自由意志だと勘違いしているからである
自分の遺伝子は自分では選択できない以上 その遺伝子によって作られた脳の構造に由来する情動も 自分が育った時代や社会環境から刷り込み「学習」された根拠のない「常識」による価値観も 全て自分では選択不可能なものであって 選択不可能ということは自由でもないのである
だが 何が本当に重要なのか その優先順位を目先の情動に左右されずに統合的に検証し 「人間としての真実」とは何かを見極められれば 人間性を発揮することは可能である
「既存の自己」は それだけでは本質的には「自己」の論証にはならないが 現時点において客観的に価値観を検証し 本当に望むべき目的とは何かに基づいて行動選択すれば 人間性を持つことは可能である
現時点における 既存の価値観に左右されない論理客観的根拠に基づいた行動選択 その可能性にこそ「自己」の本質が存在するのである
過去に「俺はこう育てられた」かどうかは自己選択が不可能だが 「私はこう育てられたけど でも本当はこうするべき」という理性にこそ選択可能性が存在するのであって 理性なしに人間性などありえないのである
振り込め詐欺師が騙す時にも理性は使われる いかに騙すかを論理的に考えることで より巧妙な嘘をでっちあげることができるようにもなる
だが 振り込め詐欺師の目的は利己的利益である
利己的利益という欲望にとってのみ都合の良い論理性を発揮しても その目的(欲望)が本当に自分がこれからも生き続ける社会にとって最も重要なものであるのかどうかの選択には理性が働いていない
目先の欲望が理性を使っても人間性は発揮されない
理性が欲望を選択制御して 初めて人間性が発揮されるのである
目先の欲望が促す快楽の強度程度だけで行動が決定していれば 「へずまりゅう」とか田代まさしのような「自然言語を話すサル」のような社会的に無責任な行動しかしなくなる
「へずまりゅう」や田代まさしだけが特異に無責任なのではなく ヒトの無責任性や無意識性というのは人それぞれであり グラデーションとかスペクトルのように多様である
常に絶対に人間性しか発揮しない完全人間が存在しない以上 ヒトは何らかの無意識性や無責任性は持っているものだと考えるべきであり
決して「自分だけは絶対に大丈夫だ」などと思い込むべきではない
勝手に「自分だけは絶対に大丈夫だ」と思い込みたがるのは それによって目先の安心満足を得ることが目的であって むしろ社会的責任を放棄することに陥ることの方が圧倒的に増えてしまうのである
振り込め詐欺師の口車に騙されて暴力団の資金源を提供してしまったり 身勝手な理屈で自動車を暴走させて他人を轢き殺してしまったりすることも ヒトの無責任性の一例である
詐欺に騙されるのは被害ではあるが 詐欺に騙されるのは被害者にも原因がある 一方的被害の強盗だの強姦だのイジメや差別とは違うのである
カルト宗教に騙されて毒ガステロを実行してから 「俺は被害者だ」などという言い逃れはできない
東京電力の社風だの体質だのに流されて 原発を暴走爆発させておいて「自分は被害者です」という言い逃れはできない
どうにも見抜き様のない嘘なら仕方ないと言えるものの 冷静に考えれば簡単に見抜ける嘘に騙されるというのは 半分は被害者にも責任がある
半分は被害者にも責任があるからといって それなら加害者の責任が半減するかと言えば そういうことではない
責任というものは多数で分散されれば責任が薄まるようなものではないのである
「一人で一人を殺す」よりも 「100万人で一人を殺す」方が罪が軽いという話にはならない
詐欺の加害者の責任は100%であり そのうち何割かは被害者側にも責任があるということである
生物学者や哲学者共の嘘に誰も気づかず 多額の借金(奨学金)を騙し取られ 真実が隠蔽されているとしても 誰もその「被害」には気づかず 自覚も認識もないかもしれない
そんなバカがどんなに学歴が高くても 社会の発展や進歩には何の役にも立たないのは当たり前の話である
教えらたことを全て鵜呑みにし 真実なのかどうかの検証を誰もしない社会なら 持続可能性も安全性も誰も担保してくれないだろう
ただ漫然と機械手続き的に既存の法律制度に則った刑罰では 安全性が高まる合理的根拠はない
「真実」とは 論理客観的根拠に基づいた反証されることのない合理的根拠によって見極められる必要がある
人間としての「目的」とは 社会安全性と持続可能性に基づいた行動選択にあるのであり 目先の懲罰感情にはない
間違い過失によって被害が出たなら それは再発防止に活かすための教訓として再発防止に役立てれば良いが
間違いを指摘されたにも関わらず 間違いを認めず はぐらかしやごまかしや言い逃れ取り繕いを繰り返すのは悪質である
それは騙されているマスコミにも責任がある
実際にはどうもイマヌエル:カントの「純粋理性批判」というのは 新聞記者に「信者」が多いらしく 哲学者共とグルになって隠蔽しているらしい
厄介な話である
Ende;