書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

ポリスチレンフィリア

2021年09月22日 22時59分24秒 | 意識論関連

いろいろな動物で屍体に交尾を試みる現象が見られるという

ネクロフィリア(死姦) -ナゾロジー

繁殖行動バイアスというものは 別に子孫を遺そうといった目的のために組み込まれたものではない

動物のオスがメスの生殖器にペニスを挿入したがるのは そういう行動習性を持った個体種が繁殖に成功した結果的な収斂進化であって ペニスを挿入したがらない個体は繁殖できないという単純な結果であって ペニスを挿入したがる行動習性自体には目的はなく 「目的のために進化した」わけでもない

ヒトにおいても時折繁殖能力のない幼女を強姦する事例が見られるのも 本能的行動バイアスには合理的目的が存在しないからであって

ヒトの男が女性の性器にペニスを挿入したがるのも ペニスを挿入したがる個体への収斂進化の結果に過ぎず 合理的目的など存在しないので 行動に合理性がなくても何の不思議もないのである

ヒトに限らず動物の先天的形質や本能習性には目的などなく 気分感情というものの全ては「結果」に過ぎない

シリコンゴム製の人形であっても性的欲求を満足させることは可能であり 繁殖には意味がない行動であっても本能的欲求を満たすことは可能なのであり カラスが死姦で満足しても何の不思議でもない

 

先天的本能習性というものは 「種の保存」といった目的のために合理的に選択したものではなく あくまで結果的に繁殖に適した行動を促す情動を持った個体種への収束進化の結果に過ぎない

凶悪な無差別殺人犯を死刑にしても 「なぜ無差別殺人を引き起こしたのか」についての原因究明にも再発防止にもならないが ヒトは気に入らない相手に懲罰的暴力を振るうことで主観的に安心満足してしまう先天的本能習性による問題「解決」の錯覚に過ぎない

 

遺伝的進化が合理的目的のために選択することが可能であるかのように錯覚するのも 別に合理的目的があるわけではなく ただの結果に過ぎず 錯覚に合理性を求めること自体が不毛である

錯覚には必然的原因のようなものは存在するとしても 結果に過ぎない錯覚そのものには合理性はない

少女の姿を模したポリスチレン製の小さな人形に性的欲求を「感じる」ことも 何の合理性も目的も意味もなく ただの趣味以上の存在価値はないのである

女性にしてみれば こうした趣味は主観的に「気持ち悪い」のかも知れないが 人畜無害な以上とやかく言われる筋合いはない

論理客観的には人畜無害な行為に対する主観的嫌悪感にも 合理性も目的も存在しないのである

 

 

Ende;

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致死率95%

2021年09月22日 18時04分01秒 | 意識論関連

インフルエンザウイルスがウイルスとして確定する以前からインフルエンザの症状を呈する疾患は紀元前からあるという

それなら何千年も経過しているのに弱毒化は進んでおらず スペイン風邪のように突然強毒性を持つことがある

ウイルスの毒性や致死率というものは変動はあっても 弱毒化への一方通行になっている証拠はないのである

「毒性が強すぎると弱毒化が起きない」などという話は あまりに都合が良すぎて論証として成立していない そもそもアナウサギに対するミクソーマウイルスの致死率は95%という極めて強力なものであり それでも自然界なら弱毒収斂進化は生じたのである

しかし 人間社会においては「宿主ごと強毒株が淘汰される」ような収斂進化は放置されることはなく あらゆる医学的処置によって抵抗するのが普通である

そもそも鼻風邪程度の症状しかなかったコロナウイルスが強毒変異を起こしたことでSARSやMARSやCOVID-19のパンデミックに陥ったのであって 「変異の全てが弱毒化する」ことの証拠なんぞ一切ないのである

遺伝子の変異というものはカオスでランダムなものであって 弱毒変異が起きたとしても弱毒株以外が全て淘汰されるような圧力がかからないと弱毒への収斂進化は生じることはない

だが 薬剤耐性に関しては収斂進化が生ずる可能性があり ブドウ球菌などが多剤耐性を獲得するメカニズムと同様にCOVID-19も薬剤耐性を持ってしまう可能性は現時点ではまだ高くはないとは言え 決してゼロではないのである

ブドウ球菌で起こることがコロナウイルスでは起こらないという根拠は何もないのである

 

感染症の権威とみなされている者がマスコミで「そのうち弱毒化する」などという根拠のない無責任な発言によって対策の緩みが生じ ダラダラと感染を繰り返し続けることは多剤耐性化や強毒化のリスクを高めることはあっても下げることはない

 

日医大客員教授の北村義浩が「ウイルスは弱毒化する」と言っている根拠は「そう言っている人もいる」程度の話を鵜呑みにして言っているに過ぎず 科学的根拠に基づいた論拠は一切示していないのである

https://www.zakzak.co.jp/soc/news/200729/dom2007290005-n1.html

 

 

Ende;

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しのどす

2021年09月22日 13時57分51秒 | 意識論関連

https://synodos.jp/library/27297/

佐藤岳詩 (倫理学)

 

法律の問題なら六法全書や裁判所の判例集を参照することで、数学の問題は公式に当てはめることで、基本的には答えを求めることができます。

数学とは そもそも手続き的な計算だけで正しいかどうかが決定するが

法律は手続きだけでは正しいかどうかを決定することはできない

法律の運用において 法律の主旨を逸脱した運用をすることが可能であり 法律にも倫理は必要である

法律書や過去の裁判判決例を紐解いただけでは 運用自体が正しいかどうか 倫理に適っていることの論証にはならない

一方で佐藤氏はこうも論じている

 

倫理の問題というのは不思議な問題です。一方で、これは倫理の問題だから適当に扱うわけにはいかない、深刻に考えなければ、と言われることがあります。他方で、倫理の問題なんて今はどうでもいいんだ、とぞんざいに扱われることもあります。倫理は医学や科学、経済の発展の足を引っ張るばかりで、そんなことを気にしていたら、私たちの社会は全然先に進まないと言われることもあります。

確かに、新しい研究をはじめようとするたびにいちいちたくさんの書類を作成して、倫理委員会にお伺いを立てねばならない、などのことを考えると、そう言いたくなってしまう医学者や科学者、経済学者がいるのも分からないではありません。しかし、そこで考えてみてほしいのは、その医学者は何のために医学を発展させようとしているのだろうか、ということです。もし、それが人の命を救いたい、という想いだとすれば、その想いはとても倫理的なものですよね。あるいは科学的な真理の探究も、それが人類にとって価値のあることだとからそうしている、ということかもしれません。

そうすると、そこでは医学と倫理、科学と倫理が対立していたのではなく、ある倫理と別の倫理が対立している、ということにはならないでしょうか。そのように見方を変えると、直接に対立を解消することはできないとしても、お互いを理解するための筋道が少しだけ見えてくるかもしれません。

 

医学や科学 経済学にも倫理は「人類に価値がある」述べているにも関わらず 法律だけは数学と同様に「手続きだけで答えが出る」と言うのはおかしな話である

刑事裁判では刑法判決 民事裁判では賠償額を決定するだけであって これが社会的には倫理的に「解決」ではないことは明らかである

「通り魔を死刑にしました」というだけでは通り魔事件の再発防止にはならないし

「強盗殺人犯を懲役25年の刑にしました」というだけでは出所後の再犯に対して何の保証にもならない

 

倫理学者ですら刑法というものの不毛さを理解していないのである

司法制度というものは 民主主義国家においては変えることが可能なものであり 決して唯一絶対的なものではない

立法機関によって法律だけを変えていたのでは 司法制度自体が持つ根源的な社会的欠陥をなくすことは出来ないのである

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

https://synodos.jp/opinion/society/27360/

渡邉雅子インタビュー

 

論理的だと「感じる」かどうかがアメリカとフランスでは異なるのだそうだが

「感じ」という主観では論理客観的に正しいかどうかの判断にはならない

アメリカやフランスにおける論理的と「感じ」られる傾向の違いを述べただけでは 論理客観的論証であるかどうかとは関係がない

価値観自体は主観であって その国の文化的な背景に基づいた「常識」に基づいたものであるが

人間社会における普遍的価値観や常識というものは存在するのである

国連が掲げるSDGsという17の努力目標は 社会安全性や持続可能性に基づくものであって これは特定の国家や政府に依存した価値観や常識に左右されるものではない

国益を理由に左右されるべきものでもない

特定の国の利益のために 世界全体の安全性や持続可能性を蔑ろにして良い理由など存在しないからである

ましてや為政者の権力維持保守のために国民を扇動して軍事的威圧による独裁など論外である

 

渡邉は自分が受けた学校での評価を鵜呑みにし あたかも論理的かどうかが国によって違うことに普遍性が存在するかのように主張しているが

主観に過ぎない「感じ」方そのものが「論理的かどうか」の論理客観的根拠にはならないのである

何でこんなアホみたいな事に誰も気づかんかね

 

 

 

Ende;

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