「より賢い配偶者を求める我々の性的指向」 -Wikipedia
⇨ヒトが配偶者を選択する際の基準に「賢さ」が伴う根拠はない DV男と子供を作ってDVに悩まされる女性は少なくない
バカな女性が「この男の人は賢いわ」と思ったところで それが本当に賢いかどうかはわかったものではない
バカが求める「賢さ」の基準には合理的根拠がなくても構わないのである
生物学者共はおしなべて「ヒトは賢く進化した」と勝手に思い込み 賢いことを前提にして話を展開するが 脳が肥大したからといって全員が賢いわけではなく むしろ大半のヒトは無能な凡人で権威に服従するか多数に同調迎合することしかできないバカである
だから権威の言っている内容に著しい誤謬(間違い)があっても 誰も指摘することができないのである
ヒトという種の生物は 脳容積が大きく進化はしているが 決して「賢く」はなっていないのである
賢くはないからこそ ナチス政権下では多くの国民がヒトラーに心酔し ポルポト政権やミャンマー軍事政権に兵隊は迎合し服従するのである
根拠の乏しいデマや嘘に簡単に洗脳され 非合理な暴力的差別や誹謗中傷に邁進する「ヒト」が どうして「賢く進化した」と言えるのであろうか
むしろ合理的な根拠や目的に基づいて進化したわけではなく 権威というものを盲目的に崇拝し 命令に唯々諾々と服従する習性を持った個体の方が統率的協調性を発揮し 原始的な社会においては生存にとって有利だった結果として ヒトはバカみたいにデマや嘘を鵜呑みにするよう「進化」したと言えるのである
進化は進歩ではない
遺伝的進化というものは 決して合理的な根拠や目的意識に基づいて進歩するわけではなく あくまで「死なずに生き残った」個体種の習性が先天的に遺ったに過ぎず 「頭が良いから生き残れる」わけではなく
バカの方が生存に適していれば バカ以外は死滅し バカに収斂進化するだけである
鳥類によく見られる極端な外見的特徴への性選択について「ランナウェイ仮説」というのがあり 子孫を遺す配偶者の趣味趣向だけでクジャクやフウチョウやゴクラクチョウの飾り羽根といったものが発達したという
オオハシの巨大なクチバシも用途はない
ロクロクビオトシブミやシュモクバエといった極端な進化も 配偶者選択によるものであると言われている
オス同士が互いの眼の離れ具合や首の長さを比べることが 果たして本当に「メスが求めていること」だと言えるのかという疑念はあるものの 少なくとも眼の離れ具合や首の長さによって繁殖に影響を与えているのは確かであろう
そこで思うのが 「ヒトの頭の大きさ」である
たいして賢くもないヒトの脳が 他の動物と比べて異常に巨大なのはどういうことであろうか
性選択によって「より頭部の肥大した個体を好んだ結果」として脳肥大を招いたとは言えないだろうか
脳容積以外においても サルと比べて皮膚のシワが少ないことも 幼形成熟性が進んだ結果として 脳肥大にもつながったと言えないだろうか
これはあくまで仮説の域を出ないのだが 少なくとも「脳を一生懸命使ったら脳が肥大した」わけではないことは進化のメカニズムにてらして確かである
性選択というのは あくまで配偶者の趣味趣向によって左右されるものであって 配偶者個人の趣味趣向という「主観的感覚」には合理性が必要ない
バカな女が暴力的な男に惹かれてしまうのも かつての祖先の趣味趣向の結果であって 客観的合理性がなくても構わないのである
そもそも自分の遺伝子も その遺伝子から作られた脳も 脳に先天的に組み込まれた趣味趣向も 何ら自分では「選択」していないのであって どんなにたくさんのバカ女の趣味趣向を陳列枚挙しても 繁殖相手として優秀であることの論拠には全くならない
多数の衆愚から人気を得るのは音楽家などの芸術家や 科学や哲学を装ったペテン師ばかりである
音楽で脳が気持ちよくなったり 似非科学や似非哲学で脳が気持ちよくなりさえすれば 衆愚は「ハーメルンの笛吹男」に簡単に騙されるのである
民族なり宗派なりイデオロギーといった「区別」を絶対的なものだと信じ込み 暴力的差別排除による「懲罰」さえ与えておけば全てが解決すると信じ込むことで ヒトはいままで他人に多大な迷惑をかけてきた
ヒトが実証不能の観念を振り回してしまうのは 実証不能の観念を実証不能の観念だとは夢にも「思って」いないからである
なぜ そう「思う」のかと言えば 自分の主観的気分感情を 短絡的に自分の意思選択だと錯覚しているからである
認知行動療法では 患者に対して「なぜ そう思うのですか」という質問を繰り返す
そう問われることによって それまで何も考えていなかった自分の観念には合理的根拠がないことに気付かせるためである
いちいち他人から問われなければ自発的に考えない時点でバカ確定なのだが 他人から考えを促されることによって あたかも自分から考えたような感覚が促さ(騙さ)れ すんなり自分の間違いを訂正することが可能となるため 認知行動療法ではそういった「手法」を使うのである
私のように「お前らはこんなにバカだぞ」と明示してしまうと 反射的に拒絶したり 気分的に落ち込んでしまって抑鬱状態に陥ってしまうため 認知行動療法では「患者」にそうした「治療」を行うのである
私は読者を「患者」扱いはしない
同格扱いしているからこそ 「バカなのか?」と問うているのである
自分がバカだと自覚したのであれば それは良い経験として教訓にすることも可能である
自分がどのようにバカだったのかを理解すれば 同じような間違いには陥らないようにも出来るのである
その分は少なくとも「バカではなくなった」と言えるのである
それは決して気分の良いものではないかも知れない
むしろデマや嘘を鵜呑みにして安心満足して精神的怠慢に溺れて酔いしれていた方が「楽」であろう
だが その精神的怠慢は 真実を見失い 本当の社会安全性や持続可能性も見失うことになるのである
向上心というのは むしろ「うまくいかない」ことに挑戦し続けるからこそ発揮されるのであって 「うまくいかない」ことを楽しむ主体性がないからバカになるのである
「俺は頭が良いんだ」とか「自分だけは絶対に間違えない」という傲慢さこそが バカになる最短の道である
Ende;