養老孟司はこう述べたことがあります
「怒り狂って怒鳴り散らしている時には 前頭葉なんぞ邪魔なだけだ」
一般の人はこの発言のどこに問題があるのかを認識することができません
「怒り狂って怒鳴り散らす」ことに合理性があるでしょうか?
合理性のない行動にとって「邪魔なもの」とは何でしょうか?
前頭葉は理性を司る領域ですから 養老孟司は「理性は邪魔だ」と述べたわけです
一般的には「怒り」も含めた主観的感情のことを「意識」だと認識している人が多数です
世間的には多数だと根拠もなく「常識」化されることになります
多数が「常識(正解データ)」として学習されることになるからです
振り込め詐欺師に騙される人というのは 「名義貸しは犯罪」だとか「還付を受けられなくる」などの恐怖心(情動)によって理性が働かなくなり 荒唐無稽な指示に従ってお金を振り込んだり 詐欺師の手先にお金を渡してしまうことになります
銀行のATMでお金を振込もうとしている人に対して 「騙されているのではないですか?」と尋ねると 中には「いや 絶対に騙されてなんかいない!」と頑なに拒否し 何が何でも振込もうとするケースがあります
酷い場合には「騙されていても良いから振り込ませてくれ!」などと訳のわからぬことを言い出す人もいるそうです
はて このように騙されて興奮状態の人において 「前頭葉(理性)なんぞ邪魔なだけだ」と言えるでしょうか?
一般的な大衆観念的には 情動は意識の本質だという解釈がされ また「常識」化されています
それなら詐欺に騙されている人にとっての情動行動は 本当にその人の目的意識に基づいた行動選択だと言えるでしょうか?
詐欺師の指示通りにお金を振り込んでしまえば 目先の恐怖心は解消するでしょう
「ああ これで名義貸しの罪からは逃れられた」とか「給付金や還付金を受け取ることができる」と安心満足することができるでしょう
ハンコを押した書類もない電話の口約束での「名義貸し」が有罪になることもありませんし
ATMでは還付金も給付金も受け取ることもできません 「振り込んでもらう」ことはありますが 役所の手続きは基本的に全て書類申請であって 役所がATMを操作するような指示をしてくることはありません
冷静に考えれば 最寄りの警察署に確認するとか 役所に確認するとか 親族に確認を取るとか ほんの数分で済む確認すらせずに詐欺師の言いうことを鵜呑みにしてしまうのは 情動によって理性が阻害されてしまうのが原因です
詐欺被害者の言い訳として「言葉遣いが丁寧だった」というものがあります
詐欺師が警察官とか裁判所を装う時に 「丁寧な言葉遣いをしない」とでも思っているんでしょうか これは主観的な「印象」によって客観性が阻害される一つの大きな要因です
多くの人にとって 養老孟司は嘘をついているようには見えないかも知れません
誰が嘘つきなのかは 外見的「印象」だけでは誰もわからないものであって 松沢哲郎が11億もの研究費不正流用をした嘘つきだったことも マスコミの誰も気付くことなどできなかったのです
ましてや「先天的本能習性から人間としての社会性を立証する」ことが原理的に不可能であることすらマスコミの誰も理解せず ただ「京都大学の発表なら正しいはずだ」という印象だけで「出来たら素晴らしいですね」などと鵜呑みにして賞賛しただけでした
ヒトは 一度信じた相手を疑うことを嫌います
既に信じた自分の頭の悪さまでをも認めなければならなくなるからです
詐欺師に騙されてお金を振り込んだ人は 「自分はバカだった」と嘆いて落ち込みます
気分的には落ち込むんですが 「なぜ騙されたんだろう」という原因や構造には興味がなく ただ気分的に後悔する以上のことを全くしないため 騙される人というのは何度でも騙されることになるのです
NHKでは週5で詐欺師の手口を紹介し続けていますが 一向に詐欺被害が減る気配がありません
原因は単純で 騙される人というのは自分の主観的「印象」こそが常に正しいという過信があるからです
自分の主観的「印象」が正しい判断しか促さないと「思って」いるからこそ 詐欺の手口がどういうものなのかを知ろうとも覚えようとも「思わない」ため いくら手口を紹介しても全く「心に響かない」のです
「心に響く」って 一体何でしょうか?
要するに「情動が動く」とか 「興味がわく」といったことを指します
「どうせ自分は騙されることなどないのだから 詐欺の手口なんかには興味を持っても仕方ない」と主観的に「思って」いるために NHKでいくら手口を説明しても聴く耳を持たないのです
自動車運転中であるにも関わらず飲酒をする時にも「前頭葉は邪魔なだけ」でしょう
万引き犯が万引をする時にも「前頭葉は邪魔なだけ」でしょう
幼女強姦をする時にも「前頭葉は邪魔なだけ」でしょう
そもそも全ての犯罪において理性なんて「邪魔なだけ」なんですよ
バカな「哲学者」は 「理性には利己的利益追求の側面があります」などと言い出しますが それじゃ何ですか「欲望や本能には利己的利益追求の側面が存在しない」とでも言うんでしょうかね
利己的利益追求というのは むしろ理性を欠いた欲望主体の行動選択であって その手段としての論理客観性は本質的には理性とは言えません
本当の理性というものは社会安全性や公平性にも配慮できる人間性であり 「個人が自律的な社会的責任を負うこと」ですから 理性に利己的利益追求性などないのです
唯脳論は「形」や「形式」しか扱いません 養老孟司は自分を「解剖学者なので形や形式しか扱えない」と称して外見的な「印象」や結果的構造しか扱っていないのです
「だって皆さん同じを求めるでしょ」などという多数の「結果(形式)」だけが唯脳論の論拠です
「人は今まで実証不能の観念を振り回し 他人に多大な迷惑をかけてきた」という「結果」に対し 養老は「人とはそういうものである」という「決め付け」を「考え」だと主張しました
ただの「結果」に過ぎない事実を挙げておいて それを「考え」だと主張したら それって本当に「考え」になるんでしょうかね?
「考え」だと言うのならば それは「論理的根拠」や「何かの応用性みたいなもの」があるんでしょうか?
ないですよね?
なぜヒトは実証不能の観念を振り回して他人に多大な迷惑をかけてしまうのか その原因究明と再発防止にまで「考え」が及んで はじめて「考え」だと言うことができるんですよ
養老の著作には そういった論理的根拠に基づいた「考え」がありません
フリードリヒ:ニーチェと同じ様に 単なる主観的印象による「決め付け」の羅列に過ぎないのです
ニーチェとか養老のような観念論の方が大衆には人気があります
具体的に論理客観的根拠を伴った論証ではないため 読み手が都合良く勝手な解釈をすることができるため 論理的に物事を考えない衆愚にとっては満足感とか納得感だけを与え むしろ思考停止に陥れてしまう危険性が 養老やニーチェの著作にはあるのです
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