自発的に好きでやっていることで失敗しても 他人の所為にはしないし 出来ないんですね
でも 他人からやらされていることで失敗すると他人の所為にしたくなる
賢い人ほど、間違った答えに確信をもってしまうことが示されています。
「賢い人」なのに どうして「間違った答えに確信を持ってしまう」のでしょうか
「間違った答えに確信を持ってしまう」のであれば それ自体が「賢くない」ことの証明じゃないですか
一般的に学力が高いことを「賢い」と形容しますが 認知科学的には学力は知能の論証にはなりません
スタディハッカーなんてのは 要するに学力ビジネス利権との関わりがありますから 「学力は知能の論証にはならない」なんて話は都合が悪いので あくまで「学力偏差値が高い人=賢い人」という形式の説明しかしません
学力偏差値というのは 受験で合格するには必要なものですが それ以外においてはあまり役に立ちません
受験では 教えられたことを教えられた通りに高速にできれば良いだけで 教えられた内容が間違っていても気付く能力は養われませんし 自ら問題を発見して取り組み解決する能力もつきません
要するに学力偏差値が高いだけというのは 受験にだけ特化された「受験脳」に過ぎないのです
受験に合格することは 「人間としての目的」にはなりません
受験に合格すれば世間的には「頭が良い」とみなされ 世間的には評価を得ることで就職などには有利ですが 言い換えれば「衆愚の価値観」に基づいた評価に過ぎないため 大企業での粉飾決算や検査データ改竄といった不祥事も学力偏差値が高い社員達によって引き起こされているわけです
原発事故も同様ですね 原発の安全担当者が偏差値低いわけがありませんから
学力偏差値が高くても社会的に迷惑な奴なんてのはそこいらじゅうにいっぱいいるものです
個人が自律的に社会的責任判断選択をするためには 主体性が欠かせません
なぜなら自律というのは自発性によって発揮されるものであって 他人から「やらされて」いたのでは自発性でも何でもないからです
衆愚観念上では 人間性というものは他者との関係性の中 社会の中で相互監視的な束縛や 超自我的な抑圧によって発揮されるものだという解釈がされていますが これが根本的に大間違いなのです
人間としての社会性というものは あくまで「個人が自律的な社会的責任判断選択」をすることであって 他人は関係ありません
「迷惑者はザラにいる」だとか「私は教科書に墨を塗らされた」などという「他人の所為」に行動責任をなすりつけたがるのは 主体的に自己客観的な観点を持つことが出来ないからです
「だって皆が」と称して あたかも自分の無責任性が「世間が悪い」とか「他人の所為」に起因するものだと言い出すのは 本質的な主体性に基づく自発的客観性が全く働いていないからです
自分からは生きていない
世間から「生かされて」いるだけで 主体性や自発性がない
一見すると大衆観念的には「社会から生かされている」なんて言えば謙虚風味を醸し出すのかも知れませんが 主体性がない奴は自律もありませんから 卑屈なだけであって全く謙虚ではない
ユダヤ人絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンは ナチス政権に「生かされる」形でユダヤ人殺害計画書の作成に邁進しました
ミャンマー政府軍兵士達も 軍事政権に「生かされる」形で民衆虐殺や弾圧に邁進しているのです
自分の周りの人達の行動が 本当に人間として正しいのかどうかは自分では主体的に考えたりせず 周囲の環境に流される形で「他人が悪い」と称して他人に多大な迷惑をかけている
養老孟司のデマを鵜呑みにする形で ネトウヨは「安心して同じを求める」ことでヘイトスピーチに邁進する
「怒り狂って怒鳴り散らしている時には 前頭葉など邪魔なだけ」だという養老のデマを鵜呑みにする形で 怒鳴り散らしていることが自分の主体的な意思や意識だと安心して怒り狂っている
自分の頭で考えて 「あれ? 俺のやっていることって何かおかしくね?」とはツユとも思わない
だから地下鉄に毒ガスを撒くことも可能になる
原発の津波に対する脆弱性も平気で安心して放置できるようになる
上司の命令に服従忖度していることが「謙虚」で「素直」だと勝手に思い込んでいる
実際には「卑屈」で「従順」なだけであって 勘違いも甚だしい
政府の命令に唯々諾々と服従した特攻隊を 「英霊」と称して正当化したがるのも 従順さや忠誠忠実さこそが人間性であるという感覚(観念)に基づいたレトリックです
その一方で戦争そのものに反対した「政治犯」は「英霊」ほどの評価を受けずに まるで「裏切り者」であるかのように黙殺無視されるのです
天動説が蔓延していた時代に地動説を唱えたガリレオ:ガリレイは「火炙り」にされそうになりましたが それを衆愚は「信念は真理の最大の敵だ」などというフリードリヒ:ニーチェの都合の良い「こじつけ」を鵜呑みにし あたかも「愚か」であるかのように嘲(あざけ)ります
ナチス政権に真っ向から反対して自決に追い込まれたヴァルター:ベンヤミンに対しても 「賢くない」という評価をしたがります
テレビ朝日の玉川徹が「エスカレーターで俺はどかない」と宣言したことに対しても「冷静ではない」という評価をするのが衆愚というものです
エスカレーターで歩く方が間違っているのですから 「どかない」という選択はむしろ正当性があり理性的(合理的)でありながら 威圧的な相手に服従迎合することの方が「冷静だ」という判断を衆愚は平気でするのです
それは単に「主観的に安心」なだけの日和見でしかありません
社会的に冷遇されたり 多数派から排除の対象にされることを「異常な信念によって排除された愚か者」だというレッテルを貼り 排除している衆愚の方を「数の論理」で正当化しているわけです
それなら東京電力社内において 原発の津波に対する脆弱性を主張して社内に居づらくなることも「愚か」ということになってしまうのです
腐敗した組織の中で 上司や「組織の体質」に同調迎合服従忖度しておいた方が自分にとって利己的利益に最も効率の良い行動選択にはなるでしょう それこそがあの「人災」における「最も根源的な原因」となったのです
1000年に一度くらいしか来ない津波の恐怖よりも 自分が組織の中で有利になることを優先した結果があの「人災」を引き起こしたのです
エスカレーターでヒステリックに「どけどけ」と追い抜くバカに対して 歩くことは危険だからやめろと「どかない」玉川の方が「冷静ではない」という衆愚の評価は 「怖い相手に逆らわず 危険を放置しておいた方が冷静だ」という意味になるにも関わらず 衆愚は「どかないことは冷静ではない」という話の方に気分的な安心し 自分も多数派に迎合していることを正当化できていると満足するために 玉川の方を「冷静ではない」ということにしておいて 衆愚の多数決で益々安心しようとする
これを心理学では「合理化」と呼ぶわけです
もちろん論理的合理性ではありません 単に気分的安心満足感を合理的だと錯覚しているだけの妄想でしかありません
学力成績という基準には 本当は認知科学的にも知能の根拠にならないことは証明されているにも関わらず 世間多数がそう「思って」いることを「論拠」として 数の論理で「学力=知能」という観念を「常識(正解データ)」として鵜呑みにしていなければならなくなるのも 「自分は頭が良いんだ」という身勝手な妄想による錯覚に過ぎないのです
学力成績が上がると 成績評価という「抽象化された脳への報酬」になります
教えられたことを 教えられた通りにできれば たとえ間違ったことを教え込まれていても評価になるため 「疑う」ということを一切しなくなります
「疑う」ということに対しての根拠のない罪悪感によって 「疑うことは悪いこと」だという観念的思考バイアスが働くことによって ヒトは簡単に相手の言うことを信じ込もうとしたがるものなのです
だから占いだのスピリチュアルだの詐欺ペテンが成立する
盲目的に相手を信用することが人間性か何かだと錯覚し それを「純粋」だと勝手に解釈し 唯々諾々と集団組織に服従迎合することが正当化できていると錯覚しているから 組織腐敗が傍観放置どころか暴走的に促進されることになる
それが酷くなるとミャンマー政府軍や 太平洋戦争時の日本軍みたいな事態に陥ることになる
自分が主観的に安心できることに対して 疑問を持たなくなることこそが 論理客観性を喪失させ 集団心理による暴走破綻へと陥ってしまう仕組みが ヒトという種の生物には普遍的に見られるものなのです
こういった「ヒトは先天的に人間として欠陥品」だという話には衆愚人気は集まりません
玉川徹の「俺はどかない」という話と一緒で 衆愚観念的には大多数が気分的に悪くなるため 必然的に多数人気なんぞ得られないものなのです
これはイジメでも同じことで イジメに反対することの方が「冷静ではないバカだ」というレッテルを貼ることで 大多数が傍観放置していることが正当化されているという錯覚によって イジメは傍観放置されることになる
衆愚はガリレオ:ガリレイの地動説に対しても 「火炙りにされてまで地動説を唱えるなんて冷静じゃない」と 「何か異常な信念に取り憑かれたバカげた行動なんじゃないか」というレッテルを貼ります
そうやって真実は衆愚の愚かさによって「愚か」というレッテルを貼られて遺棄されることになるのです
バカが大多数なら 民主主義は「バカ主義」にしかなりません
国民一人ひとりが自律的に社会的責任判断選択をしないからこそ ナチスのような暴力者による独裁を許してしまう事態にも陥るのです
独裁とか洗脳というのは その集団に服従迎合している方が組織を構成している個人にとっては気分的に安心だからこそ成立するのであって 「個人が自律的な社会的責任判断選択」をしなくなる原因とは 主観的気分による安心満足によって促される行動バイアス(偏り)が促す錯覚を 錯覚だと識別する理性(意識)が働いていないのが原因です
真実か それとも根拠のないデマや嘘なのかは 論理客観的検証性によって識別されるものであって 主観的な衆愚の多数「印象」で気分的に安心して鵜呑みにしているから 嘘やデマが真実だと錯覚して疑わなくなる
「ワクチン危険」程度の荒唐無稽なデマならば 「信頼できるメディア」で複数(多数)確認すればデマかどうかは判別可能でしょう
しかし 「信頼できるメディア」というのも所詮は「ヒト」が運営しているものであり 学術権威もまた「ヒト」が作り出したものにすぎず 決して完全無欠の神が保証しているわけではありません
生物学における遺伝的進化の「典型的な間違い」については 論理客観的に「考え」れば 「進化を選んだ」だの「進化を考えた」だの「戦略を採った」などといった「説明」の全ては科学的根拠をすっ飛ばした生物学者共の妄想でしかありません
さかなクンまでもが「進化を選んだ」といった説明をしていますが さかなクンはフィールド研究者であって 論理的整合性にはあまり興味を持っていないためです
生物の研究者というのは どうしても自分が研究している生物を ナントカして「賢い」とか「優秀」なものだという正当化をしたいバイアスが働いてしまうために 遺伝的進化の結果にまで「考え」だの「選択可能性」が存在しているかのような説明をしがちな傾向があります
ダンゴムシが好き過ぎて 一般的習性とは異なる未知の行動が観察された途端に「ダンゴムシには心がある」などと言い出すのは あまりに論理が飛躍し過ぎていて科学を逸脱しています
免疫力が低下した患者の体内環境において 皮膚の常在菌が多剤耐性を獲得しても 取り憑いた患者さんを死に至らしめて自滅するだけであって 多剤耐性を獲得することに合理性なんぞありません
多剤耐性なんぞ獲得しなくても ヒトなんぞ地球上に80億もいるんですから必要ないんですよ
それでも環境が整えば多剤耐性菌は発生します それは遺伝的進化というシーケンシャルな機械的自然現象に過ぎないからです
遺伝的進化のメカニズムを応用したのが「品種改良」です
牛乳をたくさん取るために乳の出が良い個体同士をかけ合わせることで 乳牛は作られました
狩猟にとって都合の良いように 脚の短いイヌを作ったのが狩猟犬です
農作物の類いの多くも品種改良されたものばかりです
トマトなどのナス科の植物は 原種は有毒なものだそうです
それも品種改良で食べられるように作った
遺伝子のことを「設計図」と形容しますが 実際には意図目的に基づいて誰かが設計したわけではありませんから 「設計図」というのは比喩でしかなく 論理的には間違っています
遺伝的進化に対して「盲目の時計職人」なんて形容されることもありますが 別に「時計を作ろう」といった意図目的があったわけではなく あくまで機械的自然に「ヒトにまで進化が促された」に過ぎないのです
ヒトは 理性に基づき深く「考え」ることで真実と嘘を見分けること「も」可能ではありますが ヒトは先天的には他の動物と同様に情動によって行動のほとんどが支配されているため 理性が優先されるようには出来ていません
論理客観的に考えれば「正しい」行動選択であっても 主観的に「怖い」とか「安心ではない」と思ってしまえば 主観的な「思い」の強度程度の方が優先してしまう認知上の欠陥が存在しているのです
そして こうした先天的な欠陥というものは 品種改良的に補えるようなものではありません
理論的にはやろうと思えば可能かも知れませんが それをやった時点で人道に反するからです
欲望や感情を司る情動大脳辺縁系の働きが先天的に弱い人の場合 物事に取り組む意欲までもが希薄になってしまいます
大脳辺縁系を事故や疾患で損傷すると 何も「感じ」なくなってしまい 主体性すらも失ってしまいます
逆に大脳辺縁系の活動が活発だと感情や欲望が優先して野獣のような行動にも陥りがちになります
先天的に大脳辺縁系の活動が活発かどうかは人間性とは関係がなく あくまで自発性や主体性によって自律的に「考え(理性)」る能力が身についているかどうかで人間性が発揮されるかどうかが決まります
暴走族だった少年が ある日洋菓子作りに目覚めて猛勉強し 菓子職人になって更生したという話もあります
本当に主体的に好きなことが見つかれば 他人に方向性のない非合理な迷惑をかけている暇なんかなくなります
他人に迷惑をかけたがるのは 実は脳が暇だから クソどうでも良い観念に囚われているのが根本原因です
「生きている意味が見いだせない」奴というのは 死ぬ意味すらも見いだせずに「死刑にしてくれ」などとやっぱり他人任せ 他人の所為に丸投げしてきます
これは「甘え」ていることから抜け出すことが出来ていないからです
とはいっても 甘やかされて育ったのが原因ではなくて むしろ幼少期に充分な「甘え」を満たされなかったからこそ 「甘え」を社会の方に丸投げしてくるようになるのです
「思い残し」があると「甘え」から抜け出せないんですよ
犯罪者の6割は幼少期に暴力を伴う苛烈な虐待を受けていると言われています
子供は親を選べませんから 社会が支えないと意味不明で非合理な犯罪はなくなりません
潜在的原因を放置しておいて 実際に被害が出てから「厳罰化だ」と怒鳴り散らしても根源的「解決」になどなりません
むしろ「感情的に怒鳴り散らして」いるからこそ 前頭葉(理性)が働かなくなって「刑法懲罰で解決だ」という非合理な結論しか出てこなくなるのです
憲法によって国民は最低限の文化的生活が保証されなければならないにも関わらず 都庁のすぐそばでホームレスが溢れかえっているというのは支離滅裂というものです
役所はすぐに強制代執行的な排除で「解決」だとみなしたがりますが これはメンタリストのDaiGoの発想とほとんど一緒です どうやったらホームレス生活から抜け出せるようになるのかを本人達とちゃんと話し合って個別の事情に合わせた丁寧な対応が必要であり 役所と保護団体が協調して生活向上を「目的」とすべきなのです
主体的な意欲をブラック企業によって労働力の叩き買い搾取されてしまうこともありますが それはブラック企業側が企業としての社会的存在意義を考えたこともないからです
一人でもバカがいると社会全体で損失を負担しなければならないため社会効率が著しく阻害されてしまうことになります
「一人も取り残さない」ためには 「一人もバカを出さない」ことが大前提になるのです
ヒトは一人ひとり全部違います
決して「同じ」ことに興味を持つわけではなく 主体的に好きで熱中できることは「同じ」ではないのです
それが受験産業などによって一律に価値観が揃えられることにより 勝ち組と負け組に選別されてしまうことで 「勝った」側は優越感に溺れて必要以上の評価や報酬を要求するようになり
「負けた」側は劣等感に苛まされることで必要以上に自信を喪失することになります 受験産業というのは そういう一律な価値観だけに子供達を洗脳してしまうことになることも差別排除が起きる大きな要因でもあります
世間的に上手くいかないのは 社会とのマッチングが上手くいっていないからであって どうすれば社会とのマッチングが成立するのかはあれこれ試してみたいと誰にもわからないものでもあります
クラウドファンディングや無料での商品出品サイトも充実してきていますから お金をかけなくともあれこれと試してみることはできるはずです 本当に好きなことなら失敗することも厭わなくなります
山中伸弥は「たくさん失敗してください」と言いました
「失敗から学ぶことは多い」と言ったのは三宅宏実です
絶対に失敗しない奴なんてのは妄想ファンタジーでしかありません
たくさんの失敗経験から学ぶことによってこそ ヒトは成長するのです
ヒト個人が成長しなければ 社会の成長もありえないのです
社会が成長しなければ衰える一方であり その先にあるのは破綻だけなのです
Ende;