書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

厄介な可能性

2022年01月14日 23時18分24秒 | 日記

コロナウイルス -国立感染症研究所

コロナウイルスについてのお話

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新型コロナウイルスの追加接種(ブースター)について、欧州連合(EU)の専門機関、欧州医薬品庁(EMA)は1月11日、頻繁に繰り返すと人の免疫システムを弱らせる可能性があるとの見解を示した。

まだ「可能性」の段階ではあるが 一応注視しておいた方が良い情報

本当 コロナウイルスって厄介だわ

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「風邪」というのは「症候群(症状)」の事を指すので 病原体には様々なものがあるという

戸田ファミリア耳鼻咽喉科

それぞれの抗生物質は、服用する期間が決まっていて、どの種類でも10日前後は確実に服用する必要があります。症状がよくなったなど、自己判断で薬を飲むことをやめてしまうと、きちんと治りきっていないことで再発をしたり、急性糸球体腎炎(腎臓のっ病気)やリウマチ熱(心臓の病気)などの合併症を起こすことがあります処方された抗生剤は必ず飲み切るようにしましょう

耐性菌以外にも飲みきらないといけない理由があるんだね

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オミクロン株の重症化率が低いことは確かなようなのだが

あまりの感染力の強さ故に医療従事者が感染してしまったり 濃厚接触者扱いされることで 沖縄では既に治療に当たれなくなった医療従事者が1000人を超えたという

その上患者数もウナギのぼりで医療崩壊を起こしているという

コロナ患者だけでキャパシティがオーバーフローしてしまっていて 冬場に多い脳梗塞などの治療が間に合わなくなって 助けられるはずの患者が助けられない状態に陥っているそうだ

中等症患者が多いと誰が重症化するかわからないので人手が全然足りないという

マヂ卍(既に死語)

 

 

Ende;


落とし穴

2022年01月14日 20時02分35秒 | 意識論関連

落とし穴を知ることができる」(又吉直樹)

「落とし穴」という「失敗」を知ることによって 陥りやすい失敗を避けることができるようになる

 

 

己の欲せざる所は人に施すこと勿れ。(自分がされていやなことは、人にしてはいけません)

論語ですよ 孔子の言葉です

「私は教科書に墨を塗らされた」とか「自分の頭で考えるのは10年早い 丸暗記しろ」とか「迷惑な奴はザラにいる」とか

養老孟司とか宮台真司とか「へずまりゅう」は嫌じゃなかったんですかね

嫌だと思ったら他人にはしなければ良いんですよ

虐待をされて育った人が 自分の子供にも虐待を繰り返すのは 逆らえなかったという既成事実を事後正当化することで「自分はそういう育て方しかされていない」という言い逃れをするんですね

自分よりも序列順位が「上」と見なした相手の理不尽な命令に服従した過去を正当化してしまうから ヒトは嫌なことを連鎖するようになる

そういう「落とし穴」が ヒトには普遍的にあるんですよ

 

 

Ende;


タカシくんは楽しい気持ちになりました

2022年01月14日 18時02分41秒 | 意識論関連

なんだこの要領を得ない学習指導要領は

5,6年生向け道徳学習指導要領

 

ああしろこうしろと列挙した挙げ句に

「自己の生き方についての考えを一層深められるよう指導を工夫すること。」

などと現場に「工夫」を丸投げじゃねぇか

「自己の生き方についての考え」が薄っぺらなバカ役人が一体何を指導するつもりなのか 意味がわからない

内容のほとんどは主観的で抽象的な観念ばっかりで 大人にとって都合の良いよう子供を誘導したい「願望」の列挙に過ぎない

こんな意味不明で支離滅裂な「道徳」教育なんぞしているからイジメ差別もなくならないし いざイジメが起きれば教育者側が「死んだ被害者よりも 将来がある加害者の方が多数だ」などという言い逃れを平気でし始める始末である

ふざけてんのかと

なめてんのかと

もうツッコミどころが多すぎて どっから手をつけていいのかわかんねぇよ

 


1:主として自分自身に関すること。

(1) 生活習慣の大切さを知り,自分の生活を見直し,節度を守り節制に心掛ける。

(2) より高い目標を立て,希望と勇気をもってくじけないで努力する。

(3) 自由を大切にし,自律的で責任のある行動をする。

(4) 誠実に,明るい心で楽しく生活する。

(5) 真理を大切にし,進んで新しいものを求め,工夫して生活をよりよくする。

(6) 自分の特徴を知って,悪い所を改めよい所を積極的に伸ばす。

2:主として他の人とのかかわりに関すること。

(1) 時と場をわきまえて,礼儀正しく真心をもって接する。

(2) だれに対しても思いやりの心をもち,相手の立場に立って親切にする。

(3) 互いに信頼し,学び合って友情を深め,男女仲よく協力し助け合う。

(4) 謙虚な心をもち,広い心で自分と異なる意見や立場を大切にする。

(5) 日々の生活が人々の支え合いや助け合いで成り立っていることに感謝し,それにこたえる。

3:主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。

(1) 生命がかけがえのないものであることを知り,自他の生命を尊重する。

(2) 自然の偉大さを知り,自然環境を大切にする。

(3) 美しいものに感動する心や人間の力を超えたものに対する畏敬の念をもつ。

4:主として集団や社会とのかかわりに関すること。

(1) 公徳心をもって法やきまりを守り,自他の権利を大切にし進んで義務を果たす。

(2) だれに対しても差別をすることや偏見をもつことなく公正,公平にし,正義の実現に努める。

(3) 身近な集団に進んで参加し,自分の役割を自覚し,協力して主体的に責任を果たす。

(4) 働くことの意義を理解し,社会に奉仕する喜びを知って公共のために役に立つことをする。

(5) 父母,祖父母を敬愛し,家族の幸せを求めて,進んで役に立つことをする。

(6) 先生や学校の人々への敬愛を深め,みんなで協力し合いよりよい校風をつくる。

(7) 郷土や我が国の伝統と文化を大切にし,先人の努力を知り,郷土や国を愛する心をもつ。

(8) 外国の人々や文化を大切にする心をもち,日本人としての自覚をもって世界の人々と親善に努める。

 


「自由を大切にし,自律的で責任のある行動をする。」だとか言っているが 自律というのは強要されたら自律じゃねぇだろ

「誠実に,明るい心で楽しく生活する。」それも強要されるもんじゃねぇ

「真理を大切にし,進んで新しいものを求め,工夫して生活をよりよくする。」だとか言っているが 真理とはすなはち「本当のこと」であり 論理客観的根拠に基づいて見極めなければならないが その重要な部分が抜け落ちている

「新し」けりゃ何でもいいわけでもないし 「工夫して生活をよりよくする」なんてのは言われなくても誰もが求めているものだろ

「自分の特徴を知って,悪い所を改めよい所を積極的に伸ばす。」などと言っているが 先天的に文字が識別困難な生徒なら もはや改めることなど不可能であり 一律に平均的能力に揃えようとする文科省の身勝手な観念に他ならない 益川敏英は「嫌いなことや苦手なことはそんなにやらなくて良いから 好きなことや得意なことを伸ばした方が良い」と言っていたのである バカ文科省役人共の身勝手な観念に何の価値があると思っているのであろうか

「生命がかけがえのないものであることを知り,自他の生命を尊重する。」などと言っているが ヒトは誰しも必ず死ぬ運命にあるものであり ただ「生命を尊重」しているからこそ「死んだ被害者よりも 将来がある加害者の方が多数だ」などという屁理屈が出てきてしまうのである

「自然の偉大さを知り,自然環境を大切にする。」などと言っているが ほんの0.数%の二酸化炭素の増大だけでも大規模気候変動を引き起こすことがあり 自然というものは極めて微妙なバランスの上に成り立つ脆弱で儚い存在であるからこそ「大切に」しなければならないのであって 「偉大」などというのは主観的印象であって 到底客観的「真理」とは言えないものである

「美しいものに感動する心や人間の力を超えたものに対する畏敬の念をもつ。」などと言っているが 「美しいものに感動する」かどうかは完全に主観の問題であって 誰が何を「美しい」と思うかは他人から強要されるべきものではない

「人間の力を超えたものに対する畏敬の念」などという抽象概念を押し付けておいて「真理」もヘッタクレもあったものではない

「公徳心をもって法やきまりを守り,自他の権利を大切にし進んで義務を果たす。」などと言っているが 「公徳心」すなはち「規範意識」に則って機械手続き的に「法律やルールを遵守」しておけば良いというものではない

「進んで義務を果たす」といっても ナチス政権下のユダヤ人絶滅収容所における「義務を果たして」しまったからこそ非人道的行為に邁進したのである

「だれに対しても差別をすることや偏見をもつことなく公正,公平にし,正義の実現に努める。」というが 何が差別や偏見であるかを見極める能力について全く論じておらず 公平公正もスッタクレもあったものではない

「正義の実現」を振り回してしまうからこそ「私刑」などという身勝手で卑劣な行為も起きるのである

「身近な集団に進んで参加し,自分の役割を自覚し,協力して主体的に責任を果たす。」などと言っているが 「身近な集団」なら振り込め詐欺集団や暴力団や暴走族に「進んで参加参加し,自分の役割を自覚し,協力して主体的に責任を果た」されたら迷惑にしかならない

「父母,祖父母を敬愛し,家族の幸せを求めて,進んで役に立つことをする。」親族ばかりを優先すれば 公平性や公正性は後回しにされてしまう

「先生や学校の人々への敬愛を深め,みんなで協力し合いよりよい校風をつくる。」などと言っているが 校風を作るのは教師や親などの大人の義務であり 子供に丸投げするべきものではない

それこそ「死んだ被害者よりも 将来がある加害者の方が多数だ」などと言い出す教育者が悪い校風を作り上げる最大の原因である

「郷土や我が国の伝統と文化を大切にし,先人の努力を知り,郷土や国を愛する心をもつ。」などと強要されても「死んだ被害者よりも 将来がある加害者の方が多数だ」などという教師がいる国を 一体どうやって愛しろと言うのであろうか

完全に頭がおかしい

「希望と勇気をもってくじけないで」

「誠実に,明るい心で楽しく生活する。」

「思いやりの心」

「謙虚な心」

「感謝」

「偉大さ」

「感動」

「畏敬」

「公徳心」

「正義」

「敬愛」

これらは全部主観であって 真理を見分けるための論理客観性を蔑ろにする文科省のバカ役人共による「はぐらかし」に他ならない

「時と場をわきまえて,礼儀正しく真心をもって接する。」だけなら 法廷だけで「反省している風味」を装っていた「へずまりゅう」も正当化されてしまう

「挨拶」も同様で イジメなど 大人の見ていない場所で悪事を働いていても外見だけ善人を装うことは簡単であり 外見的な形式に過ぎない「礼儀」が人間性の論証には全くならない

挨拶などの外見的形式を装うことが苦手な生徒もいるのであって そんなことで生徒を評価するのはバカな大人の身勝手な観念でしかなく 外見的形式なんぞを鵜呑みにしているからこそ振り込め詐欺なんぞに引っかかるのである

法律やルールにさえ従っておけば社会問題が解決するわけではなく 何が本当に重要なのかという真理(本当の目的)を見極めるためには 個人の主観的印象や常識を疑う客観性が必要不可欠である

既存の刑法では犯罪の根源的原因究明や再発防止にはつながらないのであって 呆然と法令遵守だけしておけば問題解決になるわけではない

実際の道徳の教科書では 「タカシくんは 優しい気持ちになりました」などと大人にとって都合の良い身勝手なファンタジー妄想しか書かれてはいないのであり これはもはや「子供騙し」にすらなっていない

実際のイジメというものは 加害者が家庭内でのヒエラルキー(序列順位)が低く扱われていることを 学級内で正当化するための「憂さ晴らし」が原因であり 一度イジメが始まると集団内部でイジメ競争が価値観になってしまい より酷いイジメをすることこそが「正義」にすり替わってしまうことで暴走的に過激化が生ずるのである

8割の生徒が傍観放置するのも 自分が被害者になりたくないという利己的な「主観的感情」によるものであり むしろイジメを止めたりすれば「無駄なことをするバカだ」というレッテルを貼られてイジメの標的にされている正直者の方をバカ扱いするようになるのである

イジメなどというものは 別に目的があってやっているわけではなく 単に主観的に「楽しい」から無意識にやっているだけであって 「ヒトとは誰かを差別してイジメることが先天的に楽しいと感じる欠陥品である」という論理客観的事実(真理)を周知すべきなのである

同級生を自殺にまで追い込んでしまえば自尊心の回復は困難になり 「自分はどうせクソみたいな奴だ」という決め付けに満足し 虚無的感情論が優位になれば物事を論理客観的に検証して真理を求めることを放棄するようになるのである

文科省のバカ役人が勝手にでっち上げた「都合の良い子供像」に基づいた身勝手な道徳観を 論理的根拠もなく子供に押し付けているのが現状の道徳教育である

それは衆愚が「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」という身勝手な妄想ファンタジーを信じ込んでいるただの衆愚迎合的妄想に基づいたものである

イジメというものが どのような情動バイアスによって促されてしまうのかを 論理客観的にメカニズムを教え 過激化するプロセスを子供自身が理解していれば 無意識に集団心理に流されて誰も望んでいない結果に陥らないようにもできるはずである

危険学や失敗学というのは 失敗から学ぶためには失敗を正確に知る必要がある

成功例だけを押し付けておいても失敗からは学ぶことは出来ない

「タカシくんは優しい気持ちになりました」などという「お花畑」事例ではなく 「タカシくんは皆でヒロシくんをイジメていると楽しい気持ちになりました」という失敗事例を教えるべきなのである

ヒトの先天的危険性を教えないから バカみたいな無差別殺人まで起きることになる

ヒトは「自分だけは絶対に大丈夫だ」と錯覚させておいた方が衆愚人気を得ることは簡単である 養老孟司だの読書猿だのマルクス:ガブリエルの衆愚人気は 衆愚の論理客観的検証性を剥ぎ取ることで得ているものである

衆愚は「世界は存在しない」だの「客観的事実は存在しない」だのといった荒唐無稽なデマの方が脳が気持ちよくなる話を鵜呑みにしているから衆愚なのである

本当にヒトが過ちに陥らないようにするために必要なのは ヒトの危険性 ヒトの先天的欠陥について客観的事実を知ることである

「真理(本当のこと)」を見極め識別できないからこそ バカげた事象が何度も繰り返すことになるのである

「真理」を見極めるためには 主観との区別が大前提であり 「刑法罰で解決だ」などという衆愚の「正義」を放置しているから イジメや差別がなくならない根本原因となっているのである

 

 


Ende;


人間の証明(そんなタイトルの小説あったな)

2022年01月14日 00時50分45秒 | 意識論関連

自然界にいおいては 面倒臭い事態に陥ったら客観的に検証して合理的に解決するよりも 短絡的に暴力で解決する方が生存にとっては有利である

ヒトも含めて生物というものは暴力的解決の方が生存にとっては有利な環境においての収斂進化を経ているため 暴力的に物事を解決する行動バイアスが組み込まれているものである

生存そのものが「目的」ではない以上 生存にとって有利なことが合理的であることの論拠にはならない

個人の人生において最も重要なのは 単なる生存ではなく 「どのように生きるか」という選択にある

多数衆愚に阿って忖度して迎合同調服従忖度しておいた方が その場限りには気分的安心満足感は得られるであろうが その選択に人間としての尊厳がなければ自己を肯定することはできない

その人生に いかばかりの「意味」があるであろうか

「どう生きるか」とは すなはち「どう死ぬか」と同義である

野垂れ死にしてでも尊厳を守ることが人間としての「目的」であり

人間としての尊厳を棄ててまで生き延びても それは人間として生きる価値の論証にはならない

 

 


Ende;


先天的人間性という妄想

2022年01月14日 00時25分37秒 | 意識論関連

知識の「量」をひけらかして「俺は頭が良いんだ」と称して 他人が知らないことをバカにするバカは多い

また 知識の「量」だけひけらかして池上彰のように識者を装うことも簡単である

 

自分の頭でちょっと考えれば真実か間違いや嘘なのかが見分けられるにも関わらず 考えない奴こそが本当のバカなのである

イマヌエル:カントの「純粋理性批判」における「叡智界」には 論理客観的根拠がなにも示されていないにも関わらず それを指摘できなくても大学の「修士」はとれるものである

現状の哲学界というのは そういうデクノボウの集まりに過ぎないため 池上彰的に知識の「量」だけで偉そうにマウントをかけてくるバカしかいないのが原因である

 

「教わっていないことを知らない」だけなら それはバカではない それは「まだ知っていなかった」というだけのことであり 知るきっかけがなかったに過ぎず 知能のポテンシャルとは無関係である

だが 教わった内容が間違っているかどうか 論理客観的根拠を伴った論証であるのか それとも合理的根拠を伴わぬただの決め付けに過ぎないのかを判別できないからバカなのである

話を聞いてなを「わからない」なら それはそれで間違った判断ではないのだが 本当は何も論理的には理解していないのに気分的に安心満足したことで「わかったような感覚(錯覚)」に陥って嘘やデマを信じ込んでしまえばバカである

主観的感覚としての「印象」には 錯覚が伴う可能性が否定できない だから論理客観的根拠に基づいて真実かどうかを検証判断しなければならないのである

しかし ヒトという種の生物の主観的「印象」というものは 他の脳を持つ動物の情動と同じものであり 主観的「印象」を作り出す情動自体は大脳辺縁系は野獣のそれとほとんど一緒である

遺伝的進化の過程を鑑みれば その過程のほとんどはヒト以前の「祖先」の生息環境における収斂進化過程を経ているのであって 自然界における過酷な生存競争 他の種の生物を喰い 同種同士でも環境資源の奪い合いに勝ち残った生物の末裔が「ヒト」なのである

現代においてもミャンマー政府軍やアフガニスタンのタリバンのような野蛮行為が起きるのは 祖先から受け継いだ先天的本能習性によって促されている主観的情動や印象や気分を 意識の本質だと錯覚しているのが原因である


ヒトは誰一人として自らの意思で産まれてきた者はいない

自分の遺伝子は自分では選択不可能であり

自分が生まれ育ってきた社会や時代や親などの生育環境も選ぶことは出来ず その生育環境から刷り込み「学習」的に刷り込まれた価値観「常識」もまた選択不可能である

シエラレオネのゲリラの育てられれば残虐な行為が「常識」になるののも 太平洋戦争終結前の日本の「常識」に基づいた暴走も 本当はそうした「常識」には論理客観的根拠が何もなかったことにほとんど誰も気付かなかったという頭の悪さが根本原因である

 

ヒトという種の生物は 先天的にはバカである

だが 先天的(ハードウェア的)にバカであることを客観的に認識し 後天的(ソフトウェア的)にパッチを当てることは可能である

それが可能であることが ヒトとヒト以外との生物との最も大きな違いであり 優位性でもある

 

遺伝的進化というものは目的がない

だから進化の果てに絶滅しても何の不思議もない偶発的自然現象であって これを「賢い」と形容するのは遺伝的進化に対する「典型的な間違い」である

ヒトの個体 一人のヒトとして なぜ生き続ける必要性があるのかと言えば 生きていて楽しいからである

だから 楽しくないなら生きていても意味などない

それなら 全てを失ってなを生き続けている松永莉子パパが生き続ける意味はないかと言えば 逆に言えば「失った幸福な時間の記憶」があるからこその地獄でもある

松永利己パパにとっての「生き続ける意味」とは まだ残されている他の人達の「幸福な時間」を守ることであり そのささやかな「望み」だけである

地獄を感じるというのは 地獄ではない幸福状態を知っているからこそ地獄だと認識できるのであり 幸福状態を知らなければ地獄も感じることはない

「自分の方が不幸だ」などという他人との比較を基準にしているから「生きている意味がわからない」などと称して他人に方向性のない非合理な暴力によって報復感情を満たそうとするようになるのである

自分が生きている意味というのは自分で見つけるものであり 他人に生きている意味を求めたがるのは 他人からの評価でしか幸福を感じたことがないためである

他人から誉められることで何かを覚えたりできるようになるだけであれば 他人からそそのかされる事しかできなくなり 主体性を失うことで「生きている意味がわからない」不満を「他人の所為」にするため 方向性のない非合理な無差別殺人は行われるのである

「本当の目的」を見極められれば 松永莉子パパのように地獄であっても「生き続ける意味」も見出すことはできるのである

莉子パパが求めているのは「再発防止」である

「上級国民」の家にラクガキをしたり無言電話や抗議電話といった私刑(嫌がらせ)で満足しようとするのは再発防止にとって何の合理性もない「実証不能の観念の振り回し」にしかならない

「上級国民」が運転技能が衰えているにも関わらず 自分の運転能力を過信して運転を続けたことや 周囲の家族が忖度して止めなかったことが大きな要因である

このどちらも主観的気分によって客観性を後回しにしたためである

客観的に判断していれば 運転能力が低下していることを自覚することも 本人が自覚しなくても周囲の家族が止めることもできたはずである

原発事故の要因となった「組織の利益」として 上司からの「津波の影響を考慮に入れたら日本のどこにも原発は作れない」という非合理な観念を受け入れてしまったのも 上司の顔色を窺った「忖度」によるものである

怖い相手 ヒステリックに非合理な拒絶してくるパワハラ野郎に対して合理的で正当な批判をするのは気分(主観)的に嫌なものである

玉川徹がエスカレーターで「どかない」と言ったことに対して「冷静ではない」などと称して非合理で理不尽な行動を傍観放置したがるのも 「どけどけ」とばかりにエスカレーターで追い抜いてくる威圧的なバカに卑屈に阿(おもね)ることを正当化するためである

「怖い」という主観的感情を優先することで 衆愚は論理客観的に合理性のある行動選択を自律的にすることを放棄するようになるのである

ヒトという種の生物は 先天的行動バイアスとしては社会的責任を優先するようには出来ておらず あくまで主観的に安心満足ができる行動に流されがちなものなのである

そういう人間としての欠陥を ヒトは先天的に持っているものなのである

にも関わらず「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという論理的根拠のない山極寿一のデマをマスコミ衆愚は満足して鵜呑みにするのである

人間性というものはヒトでありさえすれば発揮できるわけではなく 後天的に自分から「何が本当の人間性なのか」を区別できてこそ発揮すること「も」可能となるのである

 

 


Ende;