なんだこの要領を得ない学習指導要領は
5,6年生向け道徳学習指導要領
ああしろこうしろと列挙した挙げ句に
「自己の生き方についての考えを一層深められるよう指導を工夫すること。」
などと現場に「工夫」を丸投げじゃねぇか
「自己の生き方についての考え」が薄っぺらなバカ役人が一体何を指導するつもりなのか 意味がわからない
内容のほとんどは主観的で抽象的な観念ばっかりで 大人にとって都合の良いよう子供を誘導したい「願望」の列挙に過ぎない
こんな意味不明で支離滅裂な「道徳」教育なんぞしているからイジメ差別もなくならないし いざイジメが起きれば教育者側が「死んだ被害者よりも 将来がある加害者の方が多数だ」などという言い逃れを平気でし始める始末である
ふざけてんのかと
なめてんのかと
もうツッコミどころが多すぎて どっから手をつけていいのかわかんねぇよ
1:主として自分自身に関すること。
(1) 生活習慣の大切さを知り,自分の生活を見直し,節度を守り節制に心掛ける。
(2) より高い目標を立て,希望と勇気をもってくじけないで努力する。
(3) 自由を大切にし,自律的で責任のある行動をする。
(4) 誠実に,明るい心で楽しく生活する。
(5) 真理を大切にし,進んで新しいものを求め,工夫して生活をよりよくする。
(6) 自分の特徴を知って,悪い所を改めよい所を積極的に伸ばす。
2:主として他の人とのかかわりに関すること。
(1) 時と場をわきまえて,礼儀正しく真心をもって接する。
(2) だれに対しても思いやりの心をもち,相手の立場に立って親切にする。
(3) 互いに信頼し,学び合って友情を深め,男女仲よく協力し助け合う。
(4) 謙虚な心をもち,広い心で自分と異なる意見や立場を大切にする。
(5) 日々の生活が人々の支え合いや助け合いで成り立っていることに感謝し,それにこたえる。
3:主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。
(1) 生命がかけがえのないものであることを知り,自他の生命を尊重する。
(2) 自然の偉大さを知り,自然環境を大切にする。
(3) 美しいものに感動する心や人間の力を超えたものに対する畏敬の念をもつ。
4:主として集団や社会とのかかわりに関すること。
(1) 公徳心をもって法やきまりを守り,自他の権利を大切にし進んで義務を果たす。
(2) だれに対しても差別をすることや偏見をもつことなく公正,公平にし,正義の実現に努める。
(3) 身近な集団に進んで参加し,自分の役割を自覚し,協力して主体的に責任を果たす。
(4) 働くことの意義を理解し,社会に奉仕する喜びを知って公共のために役に立つことをする。
(5) 父母,祖父母を敬愛し,家族の幸せを求めて,進んで役に立つことをする。
(6) 先生や学校の人々への敬愛を深め,みんなで協力し合いよりよい校風をつくる。
(7) 郷土や我が国の伝統と文化を大切にし,先人の努力を知り,郷土や国を愛する心をもつ。
(8) 外国の人々や文化を大切にする心をもち,日本人としての自覚をもって世界の人々と親善に努める。
「自由を大切にし,自律的で責任のある行動をする。」だとか言っているが 自律というのは強要されたら自律じゃねぇだろ
「誠実に,明るい心で楽しく生活する。」それも強要されるもんじゃねぇ
「真理を大切にし,進んで新しいものを求め,工夫して生活をよりよくする。」だとか言っているが 真理とはすなはち「本当のこと」であり 論理客観的根拠に基づいて見極めなければならないが その重要な部分が抜け落ちている
「新し」けりゃ何でもいいわけでもないし 「工夫して生活をよりよくする」なんてのは言われなくても誰もが求めているものだろ
「自分の特徴を知って,悪い所を改めよい所を積極的に伸ばす。」などと言っているが 先天的に文字が識別困難な生徒なら もはや改めることなど不可能であり 一律に平均的能力に揃えようとする文科省の身勝手な観念に他ならない 益川敏英は「嫌いなことや苦手なことはそんなにやらなくて良いから 好きなことや得意なことを伸ばした方が良い」と言っていたのである バカ文科省役人共の身勝手な観念に何の価値があると思っているのであろうか
「生命がかけがえのないものであることを知り,自他の生命を尊重する。」などと言っているが ヒトは誰しも必ず死ぬ運命にあるものであり ただ「生命を尊重」しているからこそ「死んだ被害者よりも 将来がある加害者の方が多数だ」などという屁理屈が出てきてしまうのである
「自然の偉大さを知り,自然環境を大切にする。」などと言っているが ほんの0.数%の二酸化炭素の増大だけでも大規模気候変動を引き起こすことがあり 自然というものは極めて微妙なバランスの上に成り立つ脆弱で儚い存在であるからこそ「大切に」しなければならないのであって 「偉大」などというのは主観的印象であって 到底客観的「真理」とは言えないものである
「美しいものに感動する心や人間の力を超えたものに対する畏敬の念をもつ。」などと言っているが 「美しいものに感動する」かどうかは完全に主観の問題であって 誰が何を「美しい」と思うかは他人から強要されるべきものではない
「人間の力を超えたものに対する畏敬の念」などという抽象概念を押し付けておいて「真理」もヘッタクレもあったものではない
「公徳心をもって法やきまりを守り,自他の権利を大切にし進んで義務を果たす。」などと言っているが 「公徳心」すなはち「規範意識」に則って機械手続き的に「法律やルールを遵守」しておけば良いというものではない
「進んで義務を果たす」といっても ナチス政権下のユダヤ人絶滅収容所における「義務を果たして」しまったからこそ非人道的行為に邁進したのである
「だれに対しても差別をすることや偏見をもつことなく公正,公平にし,正義の実現に努める。」というが 何が差別や偏見であるかを見極める能力について全く論じておらず 公平公正もスッタクレもあったものではない
「正義の実現」を振り回してしまうからこそ「私刑」などという身勝手で卑劣な行為も起きるのである
「身近な集団に進んで参加し,自分の役割を自覚し,協力して主体的に責任を果たす。」などと言っているが 「身近な集団」なら振り込め詐欺集団や暴力団や暴走族に「進んで参加参加し,自分の役割を自覚し,協力して主体的に責任を果た」されたら迷惑にしかならない
「父母,祖父母を敬愛し,家族の幸せを求めて,進んで役に立つことをする。」親族ばかりを優先すれば 公平性や公正性は後回しにされてしまう
「先生や学校の人々への敬愛を深め,みんなで協力し合いよりよい校風をつくる。」などと言っているが 校風を作るのは教師や親などの大人の義務であり 子供に丸投げするべきものではない
それこそ「死んだ被害者よりも 将来がある加害者の方が多数だ」などと言い出す教育者が悪い校風を作り上げる最大の原因である
「郷土や我が国の伝統と文化を大切にし,先人の努力を知り,郷土や国を愛する心をもつ。」などと強要されても「死んだ被害者よりも 将来がある加害者の方が多数だ」などという教師がいる国を 一体どうやって愛しろと言うのであろうか
完全に頭がおかしい
「希望と勇気をもってくじけないで」
「誠実に,明るい心で楽しく生活する。」
「思いやりの心」
「謙虚な心」
「感謝」
「偉大さ」
「感動」
「畏敬」
「公徳心」
「正義」
「敬愛」
これらは全部主観であって 真理を見分けるための論理客観性を蔑ろにする文科省のバカ役人共による「はぐらかし」に他ならない
「時と場をわきまえて,礼儀正しく真心をもって接する。」だけなら 法廷だけで「反省している風味」を装っていた「へずまりゅう」も正当化されてしまう
「挨拶」も同様で イジメなど 大人の見ていない場所で悪事を働いていても外見だけ善人を装うことは簡単であり 外見的な形式に過ぎない「礼儀」が人間性の論証には全くならない
挨拶などの外見的形式を装うことが苦手な生徒もいるのであって そんなことで生徒を評価するのはバカな大人の身勝手な観念でしかなく 外見的形式なんぞを鵜呑みにしているからこそ振り込め詐欺なんぞに引っかかるのである
法律やルールにさえ従っておけば社会問題が解決するわけではなく 何が本当に重要なのかという真理(本当の目的)を見極めるためには 個人の主観的印象や常識を疑う客観性が必要不可欠である
既存の刑法では犯罪の根源的原因究明や再発防止にはつながらないのであって 呆然と法令遵守だけしておけば問題解決になるわけではない
実際の道徳の教科書では 「タカシくんは 優しい気持ちになりました」などと大人にとって都合の良い身勝手なファンタジー妄想しか書かれてはいないのであり これはもはや「子供騙し」にすらなっていない
実際のイジメというものは 加害者が家庭内でのヒエラルキー(序列順位)が低く扱われていることを 学級内で正当化するための「憂さ晴らし」が原因であり 一度イジメが始まると集団内部でイジメ競争が価値観になってしまい より酷いイジメをすることこそが「正義」にすり替わってしまうことで暴走的に過激化が生ずるのである
8割の生徒が傍観放置するのも 自分が被害者になりたくないという利己的な「主観的感情」によるものであり むしろイジメを止めたりすれば「無駄なことをするバカだ」というレッテルを貼られてイジメの標的にされている正直者の方をバカ扱いするようになるのである
イジメなどというものは 別に目的があってやっているわけではなく 単に主観的に「楽しい」から無意識にやっているだけであって 「ヒトとは誰かを差別してイジメることが先天的に楽しいと感じる欠陥品である」という論理客観的事実(真理)を周知すべきなのである
同級生を自殺にまで追い込んでしまえば自尊心の回復は困難になり 「自分はどうせクソみたいな奴だ」という決め付けに満足し 虚無的感情論が優位になれば物事を論理客観的に検証して真理を求めることを放棄するようになるのである
文科省のバカ役人が勝手にでっち上げた「都合の良い子供像」に基づいた身勝手な道徳観を 論理的根拠もなく子供に押し付けているのが現状の道徳教育である
それは衆愚が「ヒトには先天的に人間性が組み込まれているはずだ」という身勝手な妄想ファンタジーを信じ込んでいるただの衆愚迎合的妄想に基づいたものである
イジメというものが どのような情動バイアスによって促されてしまうのかを 論理客観的にメカニズムを教え 過激化するプロセスを子供自身が理解していれば 無意識に集団心理に流されて誰も望んでいない結果に陥らないようにもできるはずである
危険学や失敗学というのは 失敗から学ぶためには失敗を正確に知る必要がある
成功例だけを押し付けておいても失敗からは学ぶことは出来ない
「タカシくんは優しい気持ちになりました」などという「お花畑」事例ではなく 「タカシくんは皆でヒロシくんをイジメていると楽しい気持ちになりました」という失敗事例を教えるべきなのである
ヒトの先天的危険性を教えないから バカみたいな無差別殺人まで起きることになる
ヒトは「自分だけは絶対に大丈夫だ」と錯覚させておいた方が衆愚人気を得ることは簡単である 養老孟司だの読書猿だのマルクス:ガブリエルの衆愚人気は 衆愚の論理客観的検証性を剥ぎ取ることで得ているものである
衆愚は「世界は存在しない」だの「客観的事実は存在しない」だのといった荒唐無稽なデマの方が脳が気持ちよくなる話を鵜呑みにしているから衆愚なのである
本当にヒトが過ちに陥らないようにするために必要なのは ヒトの危険性 ヒトの先天的欠陥について客観的事実を知ることである
「真理(本当のこと)」を見極め識別できないからこそ バカげた事象が何度も繰り返すことになるのである
「真理」を見極めるためには 主観との区別が大前提であり 「刑法罰で解決だ」などという衆愚の「正義」を放置しているから イジメや差別がなくならない根本原因となっているのである
Ende;