書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

「落とし穴」の正体

2022年01月20日 15時10分40秒 | 意識論関連

少年が通う高校のコメント(16日):「『密』を作るなという社会風潮のなかで、個々の生徒が分断され、そのなかで孤立感を深めている生徒が存在しているのかもしれません。今回の事件も、事件に関わった本校生徒の身勝手な言動は、孤立感にさいなまれて自分しか見えていない状況のなかで引き起こされたものと思われます」

 

 

⇨東大刺傷事件を引き起こした17歳のような無差別暴力事件というものは 別にコロナ禍特有のものではなく 旧来からから幾度も繰り返されているものである

孤立(孤独)というものは 逆に「自分を見つめ直す」良い機会にもなり得るものであって 孤立自体が悪いわけではない

武道家が修行で山籠りをするのも 「自分を見つめ直す」ためのものであって むしろ周囲の親や大人が無神経な根拠のない「常識」をなりつけることによって人格が破壊されてしまうのである

そもそも「自律」とは「他人に頼らない判断能力」を指すのである

生徒同士が分断されているかどうかも 結局はクソDQNがクソDQN同士で共感共鳴するからこそ集団心理によって暴走族などというクソしょうもない行動を採る大きな要因になるのであって マトモな生徒との関係性が構築できるかどうかも本人の「意思」や「運」次第でもある

少年が通う高校の職員は「孤立感にさいなまれて自分しか見えていない状況」などという解釈をしているが こうした「解釈」には根拠がなく 単に客観性が働いていないから欲望のままに支離滅裂な行動を引き起こしているのである

大衆観念的には 自分の先天的本能欲望こそが意識の本質で 多数の他人によって構成されている「世間」に迎合することで人間性が形成されているという「解釈」をしたがるが これが根本的に大間違いなのである

人間性の本質は「個人が自律的な社会的責任を負うこと」であって 周囲の多数に流されることは人間性ではない

東電や日大の組織腐敗も 組織の利益を優先することによって個人が自律的な社会的責任を負わなくなった原因であって 多数他人で人間性が左右されているからこそ「自律」が働かなくなるのである

評価承認欲求中毒者の場合 自分の頭で物事を検証判断することをせず 世間一般的な「常識」でさえあれば主観的に安心満足して鵜呑みにして疑うことをしないものである

生物学上の遺伝的進化における「典型的な間違い」が放置され 優生学に対する論理反証が一向に周知訂正されないのも

哲学界においてイマヌエル:カントの「純粋理性批判」における実証不能の謎の「叡智界」に客観的根拠がないのに誰も指摘訂正しないのも それらが世間多数による「常識(正解データ)」として学習されてしまっているからである

ちょっと自分の頭で考えればわかるようなことでさえ 学力が高いだけの「インテリ」は誰も考えずに鵜呑みにし 多数の誰も間違いに気付かないことで主観的に安心満足してしまう

ヒトという種の生物には こうした認知的欠陥が先天的に存在しているからであり 「自分の常識」を疑う客観性がないから間違った解釈にも何の疑いも持たなくなるのである

 

「自分が本当は何をしたいのか」を見極めるために必要なのは 主体的な意思である

そもそも「自律的な社会的責任判断」というものは 主体性や自主性の中で育まれるものであって 多数他人に迎合し 権威に服従忖度することで発揮されるような環境依存的なものではない

世間が「特攻隊は英霊だ」という「常識」に囚われていれば ヒトは簡単に合理性のない自爆攻撃もできるようになるものであり その一方で終戦によってその「常識」が覆れば「世間が悪い」と称して「荒れる」のである

主観的に「誉められたい」「評価されたい」といった多数他人からの「根拠のない常識」的動機によってそそのかされた行動だからこそ主体性が欠けており 奴隷根性に基づく報復感情によって暴力的に「荒れる」という行動にしかならないのである

これはそもそも主体性がないから「世間が悪い」という理屈になるのであって 戦争そのものに反対した「政治犯」達は英霊扱いされず むしろ「裏切り者」扱いしかされないものである

 


なぜ「自分が見えなくなるのか」

それは 世間の「常識」的価値観に漫然と無意識に流されているからであり 主体的な「目的意識」が働かなくなることによって ひたすら先天的情動バイアスのままに行動を促されるだけに陥るからである

これは 自分の情動を意識の本質だと勘違いしていることが根本にある

私であっても主観的に殴りたい奴などいくらでもいる しかし 私は殴っても問題が解決しないことを客観的に理解しているからこそ こうして面倒臭い説明に毎日のように時間を割いているのである

現代社会においても不条理や非合理はたくさんある だからこそ社会問題が山積しているのであって それらの問題の根源を論理客観的に解明し 再発防止や改善策に応用することによって 世の中の不条理や非合理は一つづつ解決してゆくのである

いくら説明しても理解できないバカなら 殴って恐怖で威圧しておけば簡単に服従忖度するようになるものである

犯罪者は刑務所の中では刑務官に服従するようにはなるものの 実際には半数は再犯する事実からも そうした服従性は「その場限り」の暫定的なものに過ぎない

北欧の「リゾート刑務所」における再犯率低下という「立証」的事実は 犯罪者というのは自分を見失っているからこそ人間性をも見失っていることを示しているのであり 「罰で解決」というのは主観的な「印象」による錯覚に過ぎないのである

「一人も取り残さない」というのであれば 犯罪者も然りである

だが それは「加害者だけを擁護する」ことなどではなく むしろ加害者がどのような過ちを犯したのかについての詳細な分析検証や徹底した原因究明によって得られた知見を 再発防止のために周知徹底することが必要である

ヒトが犯した過ちであれば 誰が犯してもおかしくはない 「間違えないヒトなどいない」という観点に立脚すれば 「懲罰で解決」などという主観的満足安心で片付けられるものではないことは明らかである

 


「学校の勉強は認知的ワクチンだ」などというデマを鵜呑みにし 学力成績さえ高ければ人間としての価値になるという大衆観念に基づいた根拠のない「常識」によって バカな親大人は頭ごなしに「勉強しろ」としか言わなくなるのである

学力偏差値という特定の評価基準を あたかも絶対的な人間の価値であるかのように錯覚することで 「学歴=就職に有利=年収が高い=偉い=賢い」という結果的方程式(デファクトスタンダード)に基づいて あたかも「学力=頭が良い」という根拠のない「常識」を「正解データ」として刷り込み学習され 何の疑いも持たなくなっている頭の悪さを認識しないからこそ バカの一つ覚えみたいに「勉強しろ」としか言わなくなるのである

学力評価というものを抽象化された脳への報酬として刷り込まれることによって 学力成績が上がることだけが人間しての評価の価値基準だといった「常識(正解データ)」だけに意識を奪われてしまうことによって 個人の主体的意思や目的意識を見失い ただひたすらに先天的情動バイアスのままに行動するようになるから無差別暴力へと駆り立てられてしまうのである

ヒトの先天的情動には合理性などない

繁殖能力すら持たない幼女強姦が起きるのも ヒトが進化する過程において幼形成熟性への収斂の結果に過ぎず 合理性は何もないのである

ヒトが権威と見なした相手に服従し ミャンマー軍兵士のように民衆虐殺に暴走するのも ヒトがヒトにまで進化する過程における生存競争バイアスの名残りに他ならない

環境資源の限られた自然界においては殺し合いによって勝ち抜いた方が生き残る そうした「結果」が現存生物種における先天的習性として組み込まれており ヒトも基本的に同じ行動バイアスを持っているからこそ 非合理で不条理な暴力破壊が繰り返されるのである

自然環境下においては ただ環境資源を独占するだけでは「繁殖を継続」することはできず 環境との調和性も必要とはなるものの 決して個体種自体が「環境と調和しよう」として調和しているわけではなく あくまで結果的に環境調和性を持っていた個体種への収斂進化の結果でしかない

遺伝的進化というものは そのプロセス過程において方向性のない「変異」が引き起こすものであって 結果的に「繁殖を継続」に成功した個体種への収斂進化の結果以上の意味など存在しないのである

生物学者達はやたらと「自然は美しい」だの「偉大」だのと主観的「印象」操作ばかりをしたがるが 自然環境を保全しなければならないのは論理客観的事実に基づいた行動選択であって 個人的主観は関係がない

生物学者共は あたかも「自分は自然を美しく偉大なものだと思っているから 人間として優秀だ」とでも勝手に妄想しているのであろうか それは傲慢というものである

主観的に「虫が嫌い」な人もいるだろうし 家の周囲や畑に蔓延(はびこ)る雑草に悩まされている人もいるであろう

農家の最大の「敵」は害虫である だからといって殺虫剤を撒き散らして生態系を破壊してしまえば むしろ農作物を生産する上で逆効果になる客観的事実に基づいて共存する方法論を導き出し続けているのである

害虫を殲滅駆逐してしまえば 害虫の天敵まで失うことになり 強い殺虫剤を使えば使うほど耐性を持った害虫を作り出し 結果的に雑草以外何も生産できない土地になってしまうのである

それは個人の主観的な好き嫌いや「印象」とは関係がない 客観的事実である

 

現在地球上ではヒトはホモ・サピエンス以外はほとんど現存していないが かつては数百万年に渡って存続していた別のヒト科生物もいたと言われている

明らかに持続不可能な文明社会を作り出し 未だに殺し合いを「解決」だと勘違いしている現代人に 「先天的な人間性」が組み込まれている根拠など何もないのである

地球上に80億も異常繁殖することで環境資源を食い尽くし暴走破綻破壊への一途を辿っている「ヒト」は 生物としても人間としても欠陥品であることに間違いはない

先天的本能習性の暴走に歯止めをかける理性なくして人類に未来などないのである

ヒトという種の生物が 他の野生動物と比べた際の優位性とは あくまで客観的に何が真実なのかを論理的に検証して見極められること「も」可能だという点である

大脳辺縁系によって促される先天的本能習性に意味や意識が存在するのではなく 様々な本能や価値観の中から統合的に最も重要な優先事項を見極めるために必要なのが 論理客観性(理性)であり それこそが「人間としての意識の本質」なのである

何が真実なのかを見極められないことには 人間性など発揮できるわけがない

カルト宗教だのデマや嘘や科学的誤謬を信じていて人間性を発揮することなどできないのである

「信じたい」という主観的欲求そのものに依存している中毒性によって 自分の頭で物事を考え判断することを拒絶するのであり

主観的に「信じたくない」かどうかを物事の判断基準に混入させるから 真実が見えなくなるのである

 

 

やれ「巨人の肩の上」だとか称して謙遜じみたことでも言っていれば満足なのだろうが

「巨人」だと主観的に「思って」いる相手が本当に「巨人」なのかどうかも見極められていないのに どうして「巨人の肩の上」から物事を見極められていると思っているのであろうか

イマヌエル:カントだのフリードリヒ:ニーチェだのフランシス:ゴルトンなどを「巨人」だと勘違いしているバカだからこそ バカげた非合理な過ちが何度も繰り返すのであって それはむしろ「凡人の穴の中」から世界を見ているに過ぎない

大多数を占める「凡人の穴の中」の方が居心地は良かろう 「進化によってヒトには先天的人間性が組み込まれているから 安心して主観的「印象」に基づいて判断しておけば自動的自然に人間として行動できる」とでも思っておけば満足であろう

それこそが「落とし穴」の正体である

 

 


Ende;

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自己とは何か

2022年01月20日 12時17分22秒 | 意識論関連

東大で刺傷事件を起こした17歳は 自分が本当に何をしたいのかという「目的意識」が働いていないから非合理で意味のわからぬ行動や言動に陥っているのである

衆愚の大半は自分の意識的行動とは別に 実証不能の謎の行動バイアスによって人間性が担保されているかのような妄想を抱いて安心満足しようとする性質があり 故に「叡智界」といった根拠のないカントの妄想であっても鵜呑みにできるのである

「学力=知能」という方程式にも根拠はないが 何となく皆がそう「思って」いる環境下では 単なる「多数」が「正常」で「正解データ」として刷り込み学習されることで 根拠のない「常識」として多くの衆愚は鵜呑みにしているだけなのである

元々根拠のない「常識」に基づいて「学校の勉強は認知的ワクチン」などと言い出せば 多くの衆愚は何の疑いも持たずに鵜呑みにし 「勉強さえしておけばデマや嘘にも騙されなくなるはずだ」という読書猿のデマを鵜呑みにして満足する

東大刺傷事件の17歳の親も こうした衆愚観念的デマに過ぎない世間の「常識」を鵜呑みにする形で 頭ごなしに「勉強をしろ」と強要したのであって 「世間的(多数)に人気があるなら 正しいことを言っている」という主観的「印象」によって真実を見失っているのである

刺傷事件の17歳が「目的意識」を失ってしまっている原因とは そもそも大多数の衆愚に「目的意識」が働いていないのが原因である

衆愚観念的には 自分が生き続ける上において 多数に迎合しておかないと主観的に「怖い」から迎合しているだけであって 生き続けることに絶望してしまえば簡単に多数への暴力的報復攻撃という最終解決に暴走することになる

人間性の本質とは 多数に迎合同調して権威に服従忖度することではなく 自律的に社会的責任判断選択を行うことであって この選択において生存価だの気分的安心満足は優先されてはならない

単に多数や権威に服従忖度迎合同調しているだけであれば これは多数や権威に選択が依存してしまい 自律判断にはならない これが根本的な衆愚観念的な大間違いなのである

 

衆愚の観念的には 多数や権威に同調迎合服従忖度さえしておけば 主観的に安心満足感が得られることを あたかも論理客観的安全性と錯覚することで これを「道徳」と称して論理客観的根拠のない身勝手な「お花畑」的理想を鵜呑みにし 子供に押し付けているからこそ自律的に社会的責任を負わないバカが大量生産され続けてしまうのである

東大刺傷事件の17歳のような人は少数だと「思って」いるであろうが これは事実誤認である

一つの重大事象の陰には 無数の小さな事象が隠れている(ハインリッヒの法則)のであって 大衆の大半が「ヒトという種の生物には先天的に人間性が組み込まれているはずだ」などという科学的根拠のない生物学者や社会心理学者共のデマを鵜呑みにして 結局は主観的に満足安心できることへの多数人気を あたかも論理客観的根拠のある真実と誤認しているバカが大半を占めているからこそ 通り魔などの「重大事象」への発展を許してしまっているのである

 

ヒトという種の生物は 気に入らない相手を殴りたいと思うものである それと同時に怖い相手には逆らいたくなく 結局通り魔の類いが標的にするのは心療内科の医療関係者だの 単なる受験生といった弱者であって ヤクザや暴走族といった典型的な迷惑者には向かわないのである

自分が生きている世間が「生きづらい」からといっても 心療内科医や通りすがりの受験生に暴力を振るっても何の解決にもならないのだが そういった合理性というものがスッポリ抜け落ち 目的も何もない非合理で不条理な「八つ当たり」によって主観的満足を得ようとするようになるのは 自分が本当は何がしたいのか 何を目的として生きているのかという「目的意識」が働いていないのが原因である

「東大に入って医者になりたかったが 成績が振るわなかったので自暴自棄な気分になって無差別刺傷事件を引き起こして自殺したかった」などという「動機」には 元々「何のために医者になるのか」という目的意識がなかったからである

「東大卒で国境なき医師団で活動」していれば それはそれは世間的にも「立派な人間」ではあろうが それは主体性がなければできるものではない

本当に「病気から人々を助けたい」という意思がないからこそ 無差別刺傷事件なんぞを引き起こすのである

単なる世間的価値観「常識」に基づいた「憧れ」による世間的評価が目的だからこそ 「医者になれないから無差別刺傷事件を引き起こす」という支離滅裂な行動に陥るのである

 

世間的評価に依らず 自律的な社会的責任判断選択をすることこそが人間としての社会性であって 世間の多数評価に流されるからこそ特攻隊を「英霊」だと信じ込んで政府権力の手先となって無意味な暴力に加担した挙げ句 終戦で特攻の価値が失われた途端に「特攻崩れは荒れた」のである

自分の存在価値を 多数衆愚に丸投げし 本当に何をすべきかを自律的には一切選択していなかったからこそ 世間に対する無差別報復的に「荒れた」のであって 世の中の「常識」に本当に論理客観的根拠があるのかどうかを自分の頭で「考え」ずに ただ目先の気分的安心満足感を追求した結果が思い通りの評価にならなければ報復的に「荒れる」だけである

多数が「英霊」と称して評価していることに対し その評価に流される形で特攻隊に志願していただけであって 「特攻が世の中にとって本当に意味のある行動なのか」といった「考え」がなく ただ目先の主観的安心満足だけを追求していたからこそ 評価が得られなくなった途端に「荒れた」のであって これもまた先天的本能による行動バイアスに無意識に流されているに過ぎない

何度も繰り返すが 人間性の本質とは「個人が自律的な社会的責任を負う」ことであって 衆愚観念に則って人気や報酬や評価を得ることではない

 

学歴が高ければ就職に有利で年収も高いという現状世間の「結果」に基づいて「金儲け能力=頭が良い」という観念を鵜呑みにすることも簡単であり 中野信子はこうした短絡的価値観に基づいた知能論をでっち上げて衆愚人気を集めているのである

衆愚人気を集めていれば 本も売れて金も儲かるだろうが 「金儲け能力=知能」という方程式には認知科学的はおろか 何の根拠もない衆愚観念でしかなく 衆愚観念に寄り添って衆愚から人気を得ているだけのペテンに過ぎない

衆愚は 自分が世間的に評価されたり金儲けに成功するという価値観だけが優先し 「人間としての社会性とは一体何なのか」など本当は興味などないのである

 


社会安全性にとって最も重要な知見とは 何が本当に危険なのかを知ることである

社会安全性を担保できなければ それ以外のあらゆる「能力」には人間としての価値は存在しない

自分という「ヒトという種の生物」における先天的な認知上の欠陥を知り どのような間違いに陥り易いのかを理解していれば 同じ様な間違いには陥りづらくなるのだが

衆愚はそうした自分の先天的な欠陥を直視することを忌避し 「道徳」教育のような論理客観的には何の根拠もない身勝手な「理想的人間像」を漫然と子供に押し付けて主観的に満足するだけである

ヒトは気に入らない相手を殴りたいと主観的に「思う」ものであるが 暴力というものは自分がこれからも生き続ける社会全体の損失になる非合理なものであることを「理解」していれば 暴力で解決しようとは「考え」なくなることも可能である

しかし 暴力というのは簡単に目先の欲望を満たす上においては便利なものであり 衆愚の大半は「怖い」相手には逆らわずに媚び諂(へつら)い阿(おもね)り忖度服従してしまうため バカだと暴力の便利さを「学習」する形で暴力依存に陥ることになるのである

それが「暴力者の常識」なのである

自分よりも弱い相手なら 殴っておけば便利に使役することが可能である これは物理的に「強い」必要性はなく 抽象的な「権威」肩書だけで充分であり だからこそミャンマー政府軍は民衆虐殺という暴挙も簡単にできるのである

現代文明以前の社会においては 環境資源の独占競争においては集団暴力は「繁殖の継続」において有効に作用することで ヒトは集団暴力的差別や民族浄化のバイアスを持った個体種への収斂進化を果たしているのである

ヒトはヒトにまで進化する過程のほとんどが過酷な野生環境下における生存競争を勝ち抜いた野獣の末裔であって ヒトにまで進化する以前の方が圧倒的に長いのであり 情動を司る大脳辺縁系の構造自体は解剖学的にも野獣のそれとほとんど同じである

遺伝的進化の過程においては 殺し合おうが奪い合おうが騙し合おうが 「死ななければ成功」「繁殖を継続できれば成功」であって そこに人間性が伴う必要性など何もないのである

メスを集団強姦してでも繁殖さえできれば進化的には「成功」であって 無責任に誰彼構わずヤリまくるオスの方が遺伝子を遺しやすいのも「結果」である

集団強姦の被害者達の大半は何も言わないだろう

それは「圧倒的多数ではない」からだ

ヒトの男がどれだけ卑劣であるのかなど 被害者はもとより加害者が主張することなどないのである

 

「欲望そのものを欲することはできない」

これは定理であり真理である

自分の遺伝子は自分では選択不可能であり その遺伝子によって形成された大脳辺縁系によって促される情動バイアスも 様々な世間的「常識」バイアスも 自分では選択不可能である

だが 様々な価値観の中から統合的観点に立脚して「本当の目的」を選択することは不可能ではない

ただ 「難しい」だけのことである

「難しい」とは言っても 要は主観的に「嫌だ」というだけであって そんな個人的な好き嫌いは「やらなくても良い理由」「選択不可能性の根拠」には全くならない

大学入試で高成績を採っても 金儲けに成功したり世間的人気を得ても 自律的な社会的責任判断選択が可能になるわけではない

衆愚は「世間的評価さえあれば 世間的評価を失いたくないから悪いことをすることは合理的ではないからやらないだろう」という勝手な期待をしがちだが 欲望に踊らされているバカに合理性など通用しないのである

他人からの評価や承認ばかりが優先している中毒者であれば 際限なく欲望を満たそうとして嘘でも何でも平気でつくようになるものである

世間的評価を得られていない相手の話など 主観的には「信じたくない」というバイアス(偏見)もあるだろうが 主観的に「信じたい」かどうかで物事を判断している時点で自分の主観的「印象」を自己過信している傲慢さを発揮しており 論理客観的に正しいのかどうかを自分の頭で「考え」ていないのである

「考え」ていないバカの判断の多数決など クソの役にも立たないことは いちいち説明するまでもなかろう それはただの洗脳である

ヒトが洗脳されるのは 洗脳状態が安心満足で気持ち良いからであり 一旦洗脳状態に陥ると脱洗脳に対する恐怖心から拒絶反応を示すから脱洗脳ができなくなるのである

もっと平たく言えば バカは自分がバカだとは思っていないのであり

それは酔っ払いが「俺は酔っ払ってなどいない」と主張することや 振り込め詐欺師に引っかかっている人が「俺は騙されてなどいない」と頑なに主張するのと一緒である

 

 

 


Ende;

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