学級内カーストというのがある
ヒトという種の生物は 他人との関係性に順位序列を決定したがる習性があり 自分よりも「上」と見なした相手には服従し
自分が「上」とみなして服従している自分の卑屈さを正当化するために 自分よりも「下」とみなした相手を服従させようとする
自分だけが卑屈であることを否定したいがために 他人にも卑屈であることを要求するのである
こうして子供は学級内で封建的カースト序列をでっち上げるのである
心理学上ではこれを「合理化」と呼ぶが 論理客観的合理性があるわけではなく 単に主観的に満足しているに過ぎない
ヒトは怖い相手には逆らいたくない
怖い相手に逆らうと自分に危害を加えられるという恐怖心から逆らわないようにしておきたい
ドイツ語では「暴力」と「権力」は同じ言葉が使われる
他の言語は知らんけど
日本大学の組織腐敗というのは 権力を持った田中理事長による理不尽な要求に唯々諾々と多数が服従する形で組織腐敗が進行し また 温存され続けた
組織内カーストに迎合する形で 権力者という「怖い相手」に唯々諾々と服従忖度し 阿(おもね)る形で組織腐敗を助長させたのである
こうした組織腐敗が起きると 衆愚は「トップが悪い」だの「組織の体質が悪い」だのと あたかも集団に阿って唯々諾々と服従忖度した組織を構成している個人には責任がないかのような「解釈」をこじつけるが これは合理性のない「言い逃れ」や「はぐらかし」でしかない
組織腐敗が進行してしまい 自浄効果が働かなくなるのは 組織を構成する個人の主体的な「意思」がなく 組織を温存することで自分の地位権益をも温存保守するための利己的選択に過ぎない
「沈黙は共謀と同じ」なのである
学校でのイジメにおいても 8割は傍観者である
圧倒的多数の傍観者の日和見によって イジメは温存されるのである
イジメがあったことを「チクる(通報する)」と自分が標的にされかねないので イジメが起きていることは誰にも言わなくなる
これは独裁政権下での相互監視と同じものであり 正直な「裏切り者」を排除することで恐怖で支配する腐敗した組織が温存されるメカニズムと一緒である
ヒトは基本的に動物であるため 「怖い」という主観的感覚や情動を優先する性質がある
社会安全性や公平性に基づいた論理客観的合理性のある行動選択など自律的には行わずに 自分の利己的安全性にとって有利な行動の方を選択する習性がある
理不尽な暴力者や権力者にとって都合の悪い「裏切り者」を排除することで権力者に評価を得ることの方が組織内部では優位な立場を得ることができるため 暴力者や権力者に唯々諾々と盲目的に服従忖度することの方が生存にとっては有利に働くことになる
バカな生物学者は「差別排除の先天的習性によって暴力者が排除される」などと都合の良いこじつけをするが 現実の差別排除は理不尽な暴力者への服従忖度によって組織腐敗を助長する働きしかしないのである
そもそも 暴力者を集団から排除したら「解決」になるわけではない
暴力者を集団という多数によって懲罰(暴力)的に排除している時点で 結局暴力依存であることに何の違いもないのである
嘘つきというのは 嘘をついている自分のことを客観的に「おかしい」とは思わない
「へずまりゅう」や田代まさしのように法廷で反省しているかのように装い判事を丸め込んで更生の余地があるかのように思わせるのは簡単なことである
「へずまりゅう」はこう述べたことがある
「迷惑者なんかザラにいる」と
これは養老孟司が言う「教科書に墨を塗らされた」と同じ社会環境から受けた主観的「印象」に基づく屁理屈である
「世の中には迷惑な嘘つきなんかいっぱいいるので 俺の迷惑行為なんぞ大したことではない」という身勝手な決め付け(観念)によって 嘘をつくことが正当化できていると「思って」いるのである
それが嘘つきの「常識」というものである
確かに世の中には嘘つきは一定数存在していて 迷惑を被ることも屡々(しばしば)ある
だが そうした迷惑を「学習」する形で迷惑行為を「世間の常識」として捉えることは 自己客観性の欠落した無意識な条件反射であり 深層学習型ニューラルネットワークAIによる「認知の偏り」と同じものである
「認知の偏り」というものは 要するに「個人的好き嫌い」のことである
「博士ちゃん」達が好きなことに熱中するのも価値観の偏りに基づくものではあるものの 価値観の偏りがあくまで個人の主観的な楽しみとして認識できていれば 決して他人にまで「同じ」を強要したりはしないのである
主観的な個人的好き嫌いと 客観的な合理性との区別がついているからこそ 純粋行為に熱中している「博士ちゃん」達は他人に「同じ」価値観を押し付けたりしないのである
イジメだのヘイトスピーチに邁進しているバカというのは こうした純粋行為を持たないため 身勝手な好き嫌いに基づいて他人に「同じ」を強要したがるからであり 「同じ」ではない誰かを許容することができずないからである
ダイバーシティ(多様性)を許容するというのは 個人的な好き嫌いを互いに尊重するということであり 自分の「好き」を尊重してもらうためには他人の「嫌い」にも配慮をすることでもある
養老孟司や「へずまりゅう」がどのような生育環境で育ったのかは全容を知る術はないが 彼らが迷惑行為を正当化するための屁理屈の形式は大体一緒で 「だって皆が」という「他人のせい」である
「だって皆が悪い」という「他人のせい」を 東京大学名誉教授という肩書権威が主張していれば あたかも自律的な責任判断選択を誰もしなくて良いかのような錯覚を与えかねない危険性がある
嘘などの迷惑行為を自分で自制できないのは 自律がないからであり 自律がないのは主体的な「考え」がないからであり 主観的気分と客観的な論理的根拠の区別がついていないからである
養老孟司は一見何か一貫した理論のようなものに基づいて論証しているように多くのヒトからは「見える」のかも知れないが
厳密に著作を検証すれば結局「何も言っていない」のであり 何かを論証したかのような錯覚を促すことによって読み手が勝手に自分にとって都合のよい「こじつけ」解釈が可能であるため その個人的満足感によって人気を集めているのである
養老が散々主張していた「脳化」云々の屁理屈には 論理的一貫性が何もなく その場限りに都合の良いこじつけを繰り返して「わかったような気分」にさせることではぐらかしているだけであって 論理的一貫性や根拠がまるでないため 何の具体的応用性もないのである
厄介なのは 養老は東大を退官後に大好きな昆虫採集に熱中しているため 主体的純粋行為に「も」意味があると「思って」はいることである
「思って」はいるものの 別に一貫した論理的根拠に基づいた「考え」があるわけではない
「人間は川だ」とか「君子豹変す」などといった話を都合の良いように身勝手な解釈をこじつけるのは 支離滅裂な観念を正当化するためであり
「論理整合性がないだけ開かれているではないか」などと称して身勝手な「常識」に基づいた観念を 論理的に検証できない衆愚に「わかった」ような錯覚を与えてはぐらかすためである
養老は自分の実証不能の観念(常識)を閉じるために 論理整合性の方を「開いて」おかなければならないのである
一応バカだとわからない奴がいるので説明しておくが 論理整合性がないということは 一方では正しいことを言っている場合 もう一方は「嘘」か「間違い」であり 養老の場合は相手に合わせて話を丸めて一貫して支離滅裂が治らないので「嘘」が確定している
更に言うと バカだと自分の主観的「印象」として「養老が嘘を言っているように見えない」ことを優先したがるが それは自分の主観的「印象」に対する過信に過ぎず 振り込め詐欺師に騙される被害者の多くが言う「自分だけは絶対に騙されないと思っていた」という過信と同じである
養老の屁理屈や「わかったようなこじつけの見本市」というのは 主観的「印象」の正当化であって これが衆愚にとっては自分の主観的「印象」までもが正当化可能であるかのような錯覚を促すことで満足感を与え その主観的満足感によって「自分は頭が良くなった」ような錯覚に陥って養老を好きになり 疑うことを一切しなくなるのである
こうした手口はマイケル:サンデルや麻原彰晃も含めたペテン師の常套手段である
「自分は頭が良くなった」と そう「思って」いるときは大抵の場合「バカになっている」ことの方が大半である
ヒトは論理客観的に物事を検証するようには先天的には出来ていない
ヒトは基本的に動物であるため 主観的な好き嫌いや「印象」の方が優先し 物事を深く論理検証することをしないものなのである
これは ヒトの祖先が過酷な自然環境下での生存競争を生き抜く上において収斂進化された「結果」であって
事物を深く論理客観的に「考え」自分の様々な価値観の中から「本当の目的」を選び出し 「本当の目的」に則った合理的行動選択を行うことによって人間性は発揮されるのである
その場限りに「常識」に流されていては人間性など発揮することはできない
ヒトは誰も自らの意思で産まれてきた者はいない
自分の遺伝子は自分で選んでいないし
育った環境によって刷り込まれた「常識」や好き嫌いといった「価値観」も選択不可能である
それなら全てが選択不可能かと言えば そうではなくて 自分の仲の「常識」に本当に論理客観的根拠があるのかどうかを識別するための主体的検証性(自分の頭で考えること)によって 目的意識に基づいて行動選択をすること「も」可能となる
嘘やデマに惑わされて 根拠のない「常識」に則って行動しているだけなら人間性など発揮することはできない
たとえ東大医学部に入れても命懸けで毒ガステロに邁進することもあり 「学力偏差値=知能」という方程式には認知科学的にも根拠はないのである
養老が東大教授だった時代に地下鉄サリン事件は起きており 養老による「わかったような説明」によって学生が論理客観的検証性を喪失したことが大きな要因となっている可能性も高い
知らんけど
何せ死刑になった実行犯からは聞き取りができないので どうにも検証のしようがない その意味においても死刑も含めた刑罰は廃止すべきなのである
選択不可能な生育環境によって刷り込み学習された「常識」に基づいた主観的好き嫌いや「印象」というものを 無意識に自分の意識や意思だと錯覚することはとても簡単なことである
「意識の9割は無意識」と言われるように ヒトの行動はそのほとんどが論理客観的に検証して自分自身で選択したものではない
ヒトは「普通」とか「平均」とか「多数」とか「常識」に安心し 異端少数派は恐怖心から排除差別の対象にしたがるものである
「ヒトとはそういうものである」ものの こうした既存の事実を短絡的に「考え」だと鵜呑みにせず 「ヒトとはそういう先天的欠陥があるからこそ 自分の頭で考えて慎重に行動選択をしなければならない」のである
ヒトが ミャンマー政府軍兵士のように人間とは思えぬ残虐行為をすることが可能になるのは 生育環境によって刷り込まれた「常識」を鵜呑みにし 自分の頭で主体的に「考え」自律的に社会的責任行動判断選択をしなくなるのが原因である
ヒトは暴力的懲罰を「解決」だと錯覚する性質がある
過酷な自然環境下での生存競争においては 暴力は最も短絡的に繁殖の継続や存続生存にとって有利に働くものであり 哺乳類にまで進化してからもヒトという種の生物は1/2000しか経過していないのであって ヒトになる2000倍は「ただの哺乳類」でしかないのである
更に言えば カンブリア大爆発の5億年前から考えれば ヒトなんていうのは多細胞生物としては1万分の1しか経験(進化過程)がないのであって ヒト以前の進化過程が1万倍もあるのにどうして都合良く「人間性が先天的に組み込まれている」などと言えるのであろうか
どうかしているぜ
多くの日本人はミャンマー政府軍の蛮行を「頭がおかしい」と思っているであろう
「自分達はあんな野蛮なことには陥らない」とでも思っているであろう
しかし ほんの80年前には同じ様なことが日本でもドイツでも起きていたのである
ヒトである以上 環境が整えば同じ様な事態に陥る危険性はあり得るものであり ヒトが持つ先天的危険性を回避するために必要なのは環境に影響されない普遍的価値に基づいた主体的で自律的な社会的責任判断選択能力としての論理客観性なのである
「本当の目的」を見極め識別できてこその人間としての本質的「意識」なのである
Ende;