アメリカでブタの心臓をヒトに移植したという
どういうことなのかと思ったら 移植しても拒絶反応が起きづらいように遺伝子操作をしたブタを育てて心臓を移植したんだそうな
血液って鉄分を含むから 磁力と直交した電流を流せばポンプとして機能するんじゃないかなと思っている
知らんけど
あ 血液に磁性は要らんのか 塩分含むから電流流れればポンプになるのか
Ende;
アメリカでブタの心臓をヒトに移植したという
どういうことなのかと思ったら 移植しても拒絶反応が起きづらいように遺伝子操作をしたブタを育てて心臓を移植したんだそうな
血液って鉄分を含むから 磁力と直交した電流を流せばポンプとして機能するんじゃないかなと思っている
知らんけど
あ 血液に磁性は要らんのか 塩分含むから電流流れればポンプになるのか
Ende;
ジョンズ・ホプキンス大学キャリー経営大学院のクリストファー・G・マイヤーズ氏らは、「失敗したときに、その責任を自分で負う人は、そうでない人に比べて失敗から学ぶ確率が高い」とする研究報告をまとめました。
一方で、「失敗したのはあの人のせいだ、状況が悪かったからだ」など他責にする人は失敗から学べず、次なる挑戦において成功確率を上げられないとのこと。
失敗から背を向けるのではなく、自分の責任ととらえて今後の改善策を立て、実行する。このサイクルを回せる人が、成長できる人なのですね。
過度に自分を責める必要はありません。「失敗は成功のもと」という言葉があるとおり、「何が問題だったのか」「今後どうしたら防げるのか」を冷静に考え、そこから “学ぶ” 意識をもつことを心がけましょう。
3. 頭のいい人は「知性の落とし穴」に気づけていない
頭の回転が速いと言われる。専門知識の豊富さには自信がある——このように、頭のいい人のなかには、自分の知性を誇りに思う人もいるでしょう。ところが、そこにも落とし穴が。ジェームズマディソン大学とトロント大学の共同研究では、賢い人ほど、間違った答えに確信をもってしまうことが示されています。
たとえばあなたは、以下の問いにどう答えますか?
「合計1ドル10セントのバットとボールがある。バットはボールより1ドル高い。では、ボールの値段はいくらか?」
答えは10セント?——いいえ、正解は5セントです。
(※バットとボールの差額は1ドル。残り10セントをバットとボールで均等に分け、バットは1ドル5セント。ボールは5セント)
このような単純な引っかけ問題に、認知能力の高い人ほど、自信をもって間違えた回答をしてしまうのだとか。頭のいい人は、自分の論理的思考力や推論能力を過信する傾向にあります。つまり、すばやく答えを出すことに慣れているため、単純なミスを犯すのです。
この傾向は、チームワークにおいても問題となりえます。自分の主張がじつは合理的ではないのに、知性を用いて自分を正当化しようとするため、違う立場の意見を素直に聞き入れられないことも。
自分の頭の良さに自信があっても、誰かと意見が食い違ったときは、自らの主張を一度見直してみましょう。根拠は正しいのか、先入観で言っていないか、誤った確信をしていないか。冷静に考える癖をつけることが大切ですよ。
4. 頭のいい人は「成功が幸福とは限らない」と気づけていない
優秀な人ほど、成功のためにスキルを磨き、よいキャリアを築くことに注力するものでしょう。ですが、頭がよければ成功でき、成功できれば幸福になれる “とは限らない”、と留意しておいてください。
前出のアリス・ボーイズ氏によると、知能が非常に優れている人は知能以外のスキルを重要視しない傾向があり、高い知能さえあれば成功できると思い込んでいるそうです。
たとえば、「専門性の高い業務をミスなく遂行するには、知能があれば十分。面倒な対人関係を構築する必要はない」と考えるといったようなこと。ですが本来、仕事はチームワークをともなうものですから、人間性を高めることも必要ですよね。
また、成功によって幸福になるとは限らないことも明らかになっています。「幸福学」の第一人者・慶應義塾大学大学院教授の前野隆司氏は、「年収が上がって満たされるのは満足度だけで、幸福そのものではない」と説きます。
出典:https://studyhacker.net/smart-people-mistakes
⇨この記事における「頭が良い人」とされている基準は学力偏差値であって 正確に言い換えれば「頭の回転が速く 知識の量が豊富な人」である
「頭の回転が速い」というのは 思考が短絡的であるということでもあります
既に知っている思考のパターンに則った思考であるからこそ高速化が可能であって 深層学習型ニューラルネットワークAIで例えれば「蒸留(高度に学習された状態)」のことだと言えます
「学力=知能」という短絡的解釈には認知科学的根拠がないにも関わらず 「皆がそう言っているから」という「多数」こそが「正常」だという「常識(正解データ)」として「学習」されてしまっているために とても速い判断ができるようになるわけです
ヒトの脳はコンピューターのようにクロックパルスが高くできるわけではなく 神経回路の伝達速度そのものはヒト同士どころかサルでもさしたる違いはありません
思考の速度が「学習」によって速くなるのは 思考を単純化させているからであって 単純化された思考回路は専門性が高くなる一方で応用性が失われることになります
普段 私達が日常生活を送る上において 物事のいちいちを全部論理的に検証して判断することはほとんどありません
財布の中のお金が偽物かどうかをいちいち確認したりはしないものです
ヒトはそうやって お店で渡されたお釣りに偽札は混ざってなどいないという前提で生活しているものであり これは思考判断を単純化させているからです
アイヒマン実験において ヒトの6割以上が権威の命令に唯々諾々と服従し他人に危害を加えてしまうのも 普段の生活の中で権威を疑う必要性がないため 思考が単純化され 権威から命じられた内容に疑いを持つ応用性を失っているためです
普通の一般の人達は「東京大学名誉教授の言っている内容が本当に正しいことを言っているのかどうか」をいちいち考えたりはしないものなのです
○「失敗したのはあの人のせいだ、状況が悪かったからだ」など他責にする人は失敗から学ぶことができない
しかし「自責の念に駆られて」も失敗からは学べません
過度に自分を責める必要はありません。「失敗は成功のもと」という言葉があるとおり、「何が問題だったのか」「今後どうしたら防げるのか」を冷静に考え、そこから “学ぶ” 意識をもつことを心がけましょう。
とあるように あくまで客観的に失敗の原因究明と再発防止策を考え発見することから「学ぶ」ことができるのです
ところがヒトという種の生物は 先天的には論理客観的に「本当のこと」が何なのかを識別できるようにはできていないため どうしても「他人の所為」にするか「自分はバカだ」と気分的に嘆くことが優先してしまいがちです
これは先天的本能によって促される感情や気分の方がが理性よりも優先してしまっているからであって 非合理な観念の世界に閉じこもってしまうため 論理整合性の方が後回しになってしまうためです
養老孟司は「論理整合性がないだけ開かれているではないか」などと言い出しましたが 論理客観的根拠を伴う真実を見極める理性よりも観念や感情の方が優位になっているために「開かれている(自由)」ような感覚(錯覚)になっているだけなのです
通り魔の類いが支離滅裂なことを主張するのも 養老孟司の支離滅裂さと構造は一緒であり 論理客観的根拠を伴う真実よりも既に刷り込み学習された自分の「常識」に則った観念の方を優先することで支離滅裂な主張を平気で行えるようになるのです
Ende;
「人は見た目が9割」と言われている
これは「人の意識の9割は無意識」であることと相関がある
見かけ上の「印象」を ヒトの多くは「自分の意識」だと思っているが 実際には主観的「印象」こそが無意識な価値観の偏り(常識)に過ぎない
迷惑ユーチューバーの「へずまりゅう」や田代まさしが法廷において「反省しているかのような」心象(印象)を与えることは簡単なことである
法廷内だけで「反省しています」的な外見を装い 更生したかのような「印象」を与えておいて 釈放後には「俺の涙はヨダレみたいなものだ」などと判事を丸め込めたことを自慢する「嘘」とは 判事も含めて「ヒト」という種の生物に普遍的に見られる認知上の錯覚を利用されているのが原因である
本心から反省しているのかどうかは ポリグラフ(嘘発見器)やイスラエル製の音声解析アプリケーションなどを併用して科学的客観性に基づいて検証判定されるべきであり
更生していることが高い確率で認められない場合には社会に復帰させるべきではなく 「女子中学生を誘拐監禁することは強盗殺人よりも罪が軽い」などと称して懲役9年の「判決」で「解決」したと思うのも間違いである
寺内ナントカの場合 別に嘘は言っておらず むしろ本心で「監禁実験だ」と自慢している
にも関わらず「自殺を計る」というのは 言っていることとやっていることがチグハグで論理一貫性というものがない
自分の行為や発言というものに一貫性がない「嘘つき」というのは 当人にはその罪の意識が全くないようなのである
さすがに寺内ナントカの言っている内容は 普通一般の人には共感することができないものであろうが こうした論理的な一貫性・論理整合性の欠落による無責任行動や発言というものは 普通一般の人でも多少は見られるものであり 決して全てを論理的に考え検証できている者などいないと考えるべきである
ヒトの支離滅裂さというものは グラデーションでありスペクトルなのである
だからといって 「論理整合性が少しくらい欠落していても構わない」という解釈をするのは間違いである
平均的多数であることが 人間としての正常であることの論拠にはならないからだ
「迷惑者はザラにいる」ことを論拠に迷惑行為を正当化できていると「思って」いるのが「へずまりゅう」の「常識」である
「多くの人は養老孟司を信じている」からといって養老孟司の言っている内容に疑いを持たないことが「常識」だとみなして正当化できるわけでもない
「ヒトは同じを求める」性質があるからといって 「同じ」を求めることこそが「正常」で「常識」だと判断するからこそ 多様性を受容する寛容さを喪失することにもなるのである
養老孟司が東大で教員だった時期に地下鉄サリン事件は発生しており 養老の著作が大衆人気を集めた時期以降にヘイトスピーチが酷くなったのは 決して偶然ではなかろう
ヒトという種の生物は 論理客観的な根拠や証拠に基づいた「考え」と 単なる「決め付け」との区別がつかない習性があり 「本能習性には抗えない」などという決め付けを あたかも「自分の考え」だと錯覚しているから自身満々に公言することもできるのである
「オノレはカブトムシと一緒だから 本能習性には抗えない」などと言い出すバカなら 「スイカの皮でも喰わせておけ」という話にしかならないのである
支離滅裂な嘘を 平気で言える嘘つきというのは 嘘をついている自分が正当化できていると「思って」いるのである
だから「迷惑者はザラにいる」だの「教科書に墨を塗らされた」だのと「他人の所為」にして自律的な社会的責任判断選択を放棄できているかのような身勝手な観念(自分の中だけで通用する常識)を振り回すのである
だが 自律的に社会的責任判断をしていない自分に対しての罪悪感「も」抱えているため 自己肯定感も非常に低いのである
自己肯定感の欠如があるからこそ養老孟司は 「私のような人間が 生きて ここにいて 相済みません」という主観的感想を主張するのである
支離滅裂な行動や言動をしている自分に罪悪感「も」感じてはいるものの その一方では「他人の所為」だの「社会の所為」だのと称して「オノレが平気で嘘を言うのは世間が悪いからだ」という強い観念に基づいた自己過信に「も」陥っているのである
ヒトは 自分の主観的な「印象」の強度程度こそが意識の本質だと錯覚する性質があり 「世間が悪い」と強く思っていれば 自分の行動が少しくらい悪くても自分の責任ではないという「印象」によって ヒトは簡単に悪事を働くこともできるのである
スタンレー:ミルグラムによる「アイヒマン実験」において 多くのヒトが権威の命令に服従して他人に危害を加えてしまうのも 自分で自律的に判断選択する責任は 命令をしている権威が全て負ってくれるものだという主観的「印象」による「錯覚」が働いているのが原因である
ヒトは先天的にはバカである
子供を集団で放置しておけば 本能習性のままにシーケンシャルにイジメが始まるものであり
「論理客観的根拠のない勝手な決め付け(デマ)」と「論理客観的根拠に基づいた論証」の区別がつかず 「多数」だの「権威」肩書だのといった「形式」に基づいて主観的に安心満足できる「信じたい話」ばかりを信じようとするものである
「私のような人間が 生きて ここにいて 相済みません」などと吐露すれば 多くの衆愚は「謙虚だわ」などと都合良く解釈して安心満足しようとするが 養老というのは平気で嘘をつく自分に対して肯定感を持てないことよりも 「教科書に墨を塗らされた」という「他人の所為」という傲慢さの方が感情を支配している嘘つきである
嘘つきを嘘つきだと認識できないのも バカだからである
だからといってバカであることが正当化することができるわけではない
どんなに多数のバカを集めてきても バカでも構わないことの論拠には全くならない
「自分はバカだ」と称して落ち込んでも
「どうせ自分はバカだから」と称して諦めても
「だって皆がバカだから」と他人の所為にしても
それは頭の悪さの「なすりつけ合い」にしかならない
バカ同士で「お前がバカだから」となすりつけてもバカは治らない
バカだと社会的責任を負うことができない
それは バカだと真実と嘘やデマの見分けがつかないからであり 嘘やデマを真実だと錯覚していれば平気で迷惑行為も可能になるからである
他人のバカをとやかく言う暇があるならば 先ずは自分の頭の悪さを改善することが先である
頭の悪さを改善するために最も合理的で「正しい」方法とは 「自分がなぜ嘘やデマを信じ込んだのか」についての論理客観的な仕組み・構造というものを理解分析解明することである
「主観的に気分が良くなる話=正しい話」という主観的感覚に基づく「印象」に惑わされずに 「気分が良くなったのはなぜだろう」という自己客観的分析をすれば それが論理客観的な根拠に基づいた「正しい」話かどうかは区別ができるようにもなる
しかし 「主観的に気分が良くなる話=正しい話」という観念が 強く自分の中の「常識」として植え付けられて「学習」されてしまうと自己客観性が働かなくなるのである
その原因は 主体性を尊重されずに「他人から誉められること」でしか気分が良くならない生育環境にある
養老孟司はこう述べたこともある
「教えられていないことは 教えられないじゃありませんか」と
これは「自分の頭で考えて気付くことなんぞできない」と言っているのと同義であり 「嘘を教え込まれても間違いであることには気付くことは出来ないじゃありませんか」と言っているのとも同義である
それはもはや「バカ自慢」でしかあるまい
こうしたバカ自慢を正当化できていると「思って」いるからこそ 「自分で思いついたこと」と「他人から教えられて知っている」ことが「同じだ」と養老は言い張るのである
多くの人が理解可能な内容であるならば それは理解可能な誰であっても気付くことは可能なはずである
それなら気づいた者が特異に天才なのではなく 気付かなかった大半の者が自分の頭で何も考えていなかったことの方が重大問題なのである
「考えていない者」だから「バカ」なのである
養老孟司は「客観的事実などない」と主張したことがある
その論拠とした「説明」とは 「個人的な好き嫌いは他人には関係がない」という 「主観的好き嫌い(事実)」と「論理客観的事実」のすり替えによるものである
畑村洋太郎のように論理客観的に物事を検証できる学者であれば 養老の著作は「わけがわからない」と笑うだけである
「養老先生は素晴らしい」などと評価しているのは澤口俊之や茂木健一郎のようなポンコツ脳科学者ばかりである
賛否の「数」は客観的に養老の信憑性の論証にはならない
日大の組織腐敗においても 「数」の論理こそが腐敗放置温存の最も大きな要因であり 科学は多数決ではなく あくまで論理客観的証拠や根拠に基づいた判断が必要である
ヒトの集団組織というものは 「数」の論理が優先する性質があり これはヒトの祖先が環境資源の独占にとって有利に働いた「結果」的な本能習性による安心満足感に依存したものである
「数」の論理で物事が判断されていれば 論理客観的な根拠は無視される
知識というものを「エコシステム(生態系)」における多様性になぞらえてしまえば 「数」の論理が優先されるのは必然的結果である
科学的真実を見極めるために必要な「淘汰圧力」とは あくまで論理客観的根拠に基づかなければならず ただ多様性だけを容認しておいても科学的真実への収斂は促されることはない
だからこそ生物学においては遺伝的進化における「典型的な間違い」が延々と傍観放置され続け 優生学に対する論理反証も誰も認知しようともしないのである
長谷川眞理子は「ダーウィンは差別を嫌う人道主義者だった」とは言っているが その一方では「○○のために進化を選んだよの」などと間違った説明を一向にやめようとはしないクソババアである
こうした「はぐらかし」が傍観放置されているも マスコミ衆愚による頭の悪さが原因である
バカは平気で嘘をつくし 間違いを間違いだとすら思ってもいない
科学的に間違った話を垂れ流していても 責任は自分達にはないと「思って」いるからである
それでも受信料だけは徴収して平気な顔をしているのがNHKである
Ende;