書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

胸部プロテクターバッグ

2022年01月08日 23時05分44秒 | 日記

バイク運転者に胸部プロテクターが普及しないって話があるんだけど

リュックにプロテクターが組み込んであればリュックを前に背負うだけで良いから簡便で使いやすいんじゃないかと思ってデザイン画を書いてて気づいたんだが

小学生のランドセルを前後逆に背負った(?)ら胸部プロテクターとして丁度良いんじゃないかと一瞬思ったんだけど

ランドセルって底の部分の金具がタンクに当たって傷になりそう

スクーターだったら大丈夫だけど

スポーツバイクの場合はデザインを変えないとダメかなと

 

 

衝動的に女の子を描いてみた

鼻描くの忘れた

 

 

Ende;


認知上の偏り

2022年01月08日 14時54分27秒 | 意識論関連

○学校で教えていること

○長年読み継がれている古典的な内容

○多数から人気がある

○世間的に成功している

これらに対してヒトの多くは 内容に論理客観的根拠があるのかどうかは自分の頭で考えたりはせずに鵜呑みにする習性がある

イマヌエル:カントの主張した「叡智界」には 何ら論理客観的根拠がないのだが 学術研究者も含めて多くのヒトは主観的満足感や安心感や納得感という主観的感覚(錯覚)によって 何の疑いも持たずに鵜呑みにしてきた

「古典的」であれば 長い期間多くの人に読まれてきたはずであり その「多数」によって内容が保証されているものだという思い込みによる カントは鵜呑みにされてきたのである

更に 科学哲学者のカール:ライムンド:ポパーによっても「評価」されていることも 疑うことへの意識(意欲)を阻害するのであろう

ポパーも所詮はヒトであって神ではないので 間違えることもある

ポパーが「評価」していても 「叡智界」を立証することは不可能であり ポパーの評価が間違っていることはむしろ論理客観的に立証されているのである

 

「多数」とか「人気」とか「世間的成功」というものに対し 大衆はそれこそが「人間としての価値」であるかのように錯覚する習性があるが これは自分も世間的成功や多数人気を得て社会的地位のようなものを獲得したいという利己的欲望が社会安全性や公平性よりも優先してしまうからである

中野信子の大衆人気というものは 「金儲け能力=頭が良い」という方程式を基準にしたものであり 多くの衆愚が利己的金儲け能力を獲得求めていることに対して正当化にこじつけられることが 中野の衆愚人気の原因である

 

衆愚は物事を深く考えて判断してなどいない

だから 人間としての本質的価値が一体何なのかなど 本当は興味がないのである

人間としての本質的価値とは 「個人が自律的な社会的責任判断選択を行うこと」であって 世間的成功や多数人気とは関係がない

関係がないのだが 衆愚は利己的に利益や快楽が得られる話ばかりを優先し 必ずしも利益や快楽が得られない社会的責任になど興味がないため 安易に中野信子の「そそのかし」を鵜呑みにして「世間的成功=頭が良い」という基準を鵜呑みにしてしまうのである

多くの衆愚が世間的成功を優先したがる習性にとって都合良く「頭が良い」という錯覚を植え付けることによって 衆愚は気分が良いため「信じたい話」として成立することになる

自律的な社会的責任判断というものは 必ずしも世間的成功や報酬快楽には結びつかず 場合によっては逆に世間的には「裏切り者」扱いされ 「正直者はバカを見る」ことになることも少なくない

社会的責任判断をしたものが「裏切り者」扱いされるというのは 多数の衆愚にとって 社会的責任判断などというものは価値がないと「思って」いるから「裏切り者」扱いされ 差別排除の対象にされてしまうのである

 

東京電力社内で 原発事故が起きる以前に原発の津波に対する脆弱性を主張しても 社内では「会社の利益を優先しない面倒臭い奴」としてしか扱われなかった

腐敗した組織集団に対して迎合的ではない者は たとえ社会的責任判断選択をしても評価されることはない

それは 学校でイジメに反対した生徒が逆に「標的」にされてしまうのと同じ構図であり

ナチス政権下においてヴァルター:ベンヤミンが迫害されたのと同じ構造である

これはミャンマー政府軍内部でも同じ様な状況にあり 民衆弾圧に加わらない兵士やその家族は迫害対象にされてしまうため 従わざるを得ない状況に陥っているのである

 

イジメが発生している学級では その8割は傍観者である

圧倒的多数であるはずの8割の傍観者によって イジメは放置される

むしろ 圧倒的多数が傍観放置していることこそが「正常」で「冷静」だという「常識」を「学習」する形でイジメは傍観放置されるのである

 

ヒトという種の生物は 自分や自分が属する集団の安全性や利己的利益が最優先され 社会安全性や公平性に基づいた社会的責任判断選択は 決して優先されることはない

生物学上の「社会性」とは あくまで封建的順位序列による統率協調性を発揮する習性のことを指しているに過ぎず 封建的順位序列という不公平性に基づいて個人の自律的な社会的責任判断能力を著しく阻害する働きを持っているのである

ヒトが権威に盲目になるからこそ 組織腐敗は簡単に生ずる

ミャンマー政府軍のような非合理な暴力も ヒトの先天的本能習性による権威服従性や盲目性によって生ずるものであり 兵隊個人が自律的な社会的責任判断を放棄しているから歯止めが効かないのである

元々は狩猟において集団統率的協調行動を促すための本能としての盲目性だが これは別に目的に基づいて主体的に選択したものではなく あくまで遺伝的進化の過程において環境適応した収斂進化の結果以上の結果に過ぎず 現代社会において盲目性というのは「バカになる原因」にしかならない

 

「飲酒運転をしない」とか 「スマホ運転をしない」といった「当たり前」の行動選択は 別に社会的成功や評価には結びつかない

人間として正しい行動選択をしても 世間的成功には別にならないのである

人間としての正しい行動選択なしに人間としての知能を論証することは不可能である

事故を起こすなどして発覚すれば社会的バッシングの対象にはなるものの バレなければ構わないと「思って」いる者にとっては「どうでも良いこと」なのである

養老孟司の無責任な嘘も同様である 嘘だとバレなければ「どうでも良い」と思っているから嘘をつきつづけているのである

どんなに多数の衆愚から人気があるとしても それは養老が嘘つきではないことの論拠には全くならない

 

多数や 多数が認証している権威に対して ヒトは迎合的に服従し 同調的に忖度する習性がある

その方が主観的に安心だからであって 論理客観的安全性の根拠があるわけではない

多数に対して個人は「勝てそうにない」ので 「勝てそうな集団」の方に服従忖度しておいた方が かつての生息環境においては繁殖の継続にとって有利に働いた収斂進化の結果として ヒトは本能的に「勝てそうな集団」の方に服従忖度するよう収斂「進化」が促された結果である

「生きるためには」と称して個人の利己的生存を優先すれば 社会安全性や公平性は優先しなくても構わなくなる

8割の傍観者は服従でも忖度でもないかのように「見える」が 沈黙している時点で共謀と同罪である

傍観者は「自分が面倒臭いことに巻き込まれないため」という利己的判断によって傍観しているのであって 社会的責任を放棄しているのである

そうした日和見傍観放置というものは「冷静」でも「理性」でもなく 「利己的判断」という「目先の欲望に基づいた行動選択」に過ぎない

 

 

エコーチェンバーというのはネット上のデマだけの専売特許ではない

遺伝的進化における「典型的な間違い」は生物学界内部でのエコーチェンバーによるものであり

イマヌエル:カントの「純粋理性批判」を「近代哲学の最高峰」などと称して有り難がっていたことも哲学界内部でのエコーチェンバーによるものである

一度組織がエコーチェンバーに陥ると 組織内部ではデマや誤謬にとって都合の良い情報だけが判断材料となり 論理客観的根拠に基づいた真偽の検証が全く働かなくなる

そしてデマや誤謬を指摘すれば組織からは排除淘汰され デマや誤謬を盲目的に鵜呑みにするバカだけが組織を構成するようになり デマや誤謬があたかも学術的に正しいかのように温存され続けることになるのである

真実を訴える正直者に対して淘汰圧力がかかれば 必然的に嘘を鵜呑みにするバカへの収斂しか起きることはない

そうやって組織腐敗は悪化の一途を辿ることになるのである

腐敗した組織を浄化するためには 組織の外から検証する必要がある

「社外取締役」を多くの企業が採用するのは 組織腐敗による損害を未然に防ぐためのものであって 大学においても同様に学科外検証制度を採用すべきである

天文物理工学系学部がどんなに正しいことを教えていても 一般教養学部や生物学部が嘘を教えていたのでは大学全体の信用に関わる重大問題である

「他の学部で嘘を教えていても オラ知らねぇ」は社会的に通用しないのである

それでよく学生に借金までさせて授業料を徴収できるものだと もはや呆れるばかりである

NHKなどのマスコミも 学術権威には何の疑問も持たずに漫然と嘘や誤謬を垂れ流し 全く問題視しようともしない

「過去の出来事からの教訓」だとか言いながらも 実際には具体的に合理的根拠に基づいた原因究明も再発防止策にもなっていないから 全然過去の出来事から教訓的に「学べて」いないのである

「反省」と称して気分的に再発防止になっているかのように錯覚することは むしろ無責任なものである

衆愚は「責任を取る」と称して単に「辞任する」だとか「処分(懲罰)する」といった「禊(みそぎ)」さえ済ませば「責任を取った」解決であるかのような錯覚をしているバカも多いが それは根本的解決には全くなっておらず ただ気分的に「責任を取ったような感覚」になっているだけであって錯覚以外の何物でもない

過去にマスコミが軍事政権や大衆に阿(おもね)って真実を捻じ曲げたという大失態を 本当の「教訓」とするために必要なのは 気分的に「反省したような感覚」に陥って主観的に満足することではない

養老孟司は「間違っていたら墨を塗れば良いんだ」などという観念に基づいて無責任発言を繰り返すこそこそが 「責任を負わない」態度なのであり 「ヒトはどうせ実証不能の観念を振り回して他人に多大な迷惑をかけるものだ」と決め付け 他人に対する迷惑に配慮しないことを正当化するから無責任な嘘も平気で言えるのである

無責任な者というのは 責任の取り方もまた無責任である

具体性のある再発防止のための論理客観的原因究明もせずに ただ「処分」だけして終わりにしようとする

「処分したんだから良いだろう」という発想は 犯罪者が「俺は懲役を終えて釈放されたから 罪がきれいになった」と言っているのと同じである

「罰で解決」だと思っている者だからこそ 「罰を与えられれば責任を取った」ことになってしまうのである

ヒトにはそういう錯覚を合理性のある「解決」だと勘違いする認知上の欠陥が存在しているのである

うっかり間違えたからといって丸坊主にしたら間違えないようになるわけでもないし 自分が間違えた経験を他の人に伝えずに同じ様な間違いに陥った場合にもまた「罰で解決」という終わらせ方を繰り返すだけである

そういうバカげた因習の応酬を繰り返していているから世の中の諸問題が解決しなくなるのである

何が本当の「解決」なのか 論理客観的に「考え」れば 懲罰だの禊(みそぎ)だのに意味がないことは余程のバカでない限り理解可能なはずである

自分の頭で「考え」ないからバカが治らない

自分の頭で「考え」ればバカではなくなる

理論的にはそれだけの話であるが それを阻害するのが主観的な気分感情というものによって促される「錯覚」である

気分感情というものは先天的な本能習性が作り出す価値観のバイアス(偏り)に過ぎない

 

 


Ende;