書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

自律

2022年01月23日 15時58分47秒 | 意識論関連

迷惑者が迷惑行為を平気でやらかす屁理屈は 要するに「迷惑者はザラにいる」という「世間の所為」が根幹にある

「迷惑者はザラにいる」としても それが「迷惑をかけても構わない理由」には全くならない

「教科書に墨を塗らされた」からといっても それが支離滅裂なデマカセを言っていても構わない理由にもならない

「世間が悪い」からといって自分の行動責任を負わない屁理屈にこじつけるのが迷惑者の屁理屈の根幹にあるのだ

通り魔の類いは 自分が世間の中で思ったように評価してもらえないことを嘆いて他人を巻き添えにしようとする

ただ死にたいだけなら他人を巻き添えにする必要はなく 本当は「他人からの評価を得たいという評価承認欲求が満たされない不満」を 他人に八つ当たりする形で無差別攻撃に暴走するのである

評価承認欲求というのは 基本的に子供の「甘え」であり 「誉めて貰えないから暴れている」だけの話に過ぎない

欲求というものは本能的なものであり 先天的なものであり 且つ 自己選択不可能なものである

いくら論理的に正しいことを主張しても 誰も認めてくれないからといって私は暴れたりはしない 言葉遣いが荒いのは私の勝手である

重要なのは世間の評価ではなく 社会のどこが どのように間違っているのかを論理客観的に検証し 丁寧に丹念に修正してゆくことで 理不尽な「人災」を減らしてゆくことである

「努力したら報われたから 努力するようになった」という「成功体験」には 必ず運とか個人的な向き不向きが伴うものである

どんなに努力しても生前は評価されないこともあるし 最悪「火炙り」にされそうになることも スイス山中で自決を余儀なくさせられることもあるかも知れない

逆もあって ナチス政権下でユダヤ人殺害計画書の作成能力で「中佐」にまでのぼりつめた吏官もいる

根拠のないデマを用いて衆愚人気を得て金儲けに成功している奴も非常に多い

衆愚は知識の「量」さえひけらかしておけば「頭が良い」と勝手に勘違いし 根拠のない話であっても簡単に鵜呑みにするようになる頭の悪さを利用すれば 世間的成功をおさめることも簡単である

読書猿のように「学校の勉強は認知的ワクチン」だと称して「学力さえ高ければデマや嘘に騙されなくなる」かのように主張すれば 衆愚観念的には安心して鵜呑みにし 客観的根拠があるかどうかなど誰も考えたりはしなくなるのである

認知科学的にも学力学歴は知能の論証にはならないし 東大医学部に入れても地下鉄に毒ガス撒いて「人類の救済だ」などという訳のわからぬデマを鵜呑みにするバカもいるものである

嘘やデマか それとも真実なのかを区別するために必要なのは 論理客観的根拠に基づいた「考え」と 主観的情動バイアスによる「思い込み」との区別をつけることである

ただの主観的印象としての「思い込み(錯覚)」と 論理客観的「考え」を区別するために必要なのは 論理客観的「考え」の方である

感覚的にそう「思う」 主観的にそう「感じる」 といった印象の方が優先してしまうのは ヒトが生物であるからであり 祖先の生息環境における収斂進化の結果的な行動バイアス(偏り)に過ぎない

ヒトという種の生物は 別に先天的に論理客観的真実を認識できるようにはできていないのである

だから「真理は大切」なのである

ヒトは主観にすぎない「印象」を操作されると簡単にデマや嘘を信じ込んでしまう習性がある

先程述べた読書猿の「学校の勉強は認知的ワクチン」などというデマも 論理客観的根拠などないのに多くのヒトは短絡的に鵜呑みにして誰も疑わないものである

予め大衆観念的に「学力=頭が良い」という短絡的方程式を鵜呑みにしているから「学校の勉強は認知的ワクチン」などというデマも鵜呑みにするようになるのである

別に認知科学的知見なんぞなくても 実際の社会の中で学力が人間性や知能との相関がないことくらいはいくらでも証拠が出てくるものである

ところが 大衆というのは金儲け能力だの世間的な多数評価こそが人間としての価値だと錯覚して ただの大衆人気だけで何でも鵜呑みにするようになる習性がある

自分が利己的利益を得たいという欲望に基づき 欲望を叶える能力ことが人間としての優秀さであるかのように錯覚しているからである

人間としての本当の価値とは 自律的に社会的責任判断選択を行えることであって それは別に世間的評価が得られるとは限らないものであり そもそも世間的評価をアテにするものでも 利益につながるものでもない

それでは 何で自律的な社会的責任判断選択をするのかと言えば それこそが「本当に自分が生き続けるに価する社会(理想)」への道筋だからである

「誰も取り残さない」持続可能で公平な社会こそが人間として求めるべきものであって 自分が世間的に評価されることを目的にしていたのでは 現状世間の諸問題の解決には結びつかないばかりか むしろ世間の諸問題を助長に加担することにもなるのである




人間の思考はあまり変わらない気がします。


出口治明 -立命館アジア太平洋大学(APU)学長

出口治明は「深い理由」などと称して何か意味のあることを論じている風味を醸し出しているが 実際には「何も言っていない」

こういった 「何かを論じたかのようで 実際には何も言っていない」奴というのは哲学界で大半を占めているものである

養老孟司もまた

「人が考える形式(パターン)にさしたる違いはない」と言ったが

ヒトという種の生物の先天的欠陥に起因する同じパターンの間違いをいくら陳列枚挙しても それが「正常」で合理的であることの論拠には全くならない

「刑法懲罰で解決だ」という大衆観念をいくら陳列枚挙しても それが論理客観的に再発防止の最善策であることの論拠には全くならないのと同じである

何度も言うが 科学は多数決ではない

それは哲学も同じで 真理は多数決ではなく 論理客観的根拠証拠に基づいて精査され 見極められなければならないのであって 衆愚の人気や多数決こそが真理を見えなくさせる根本原因なのである

衆愚は「ヒトには先天的に人間性が組み込まれている」だとか言っておけば 安心満足して「信じたい」という主観的印象だけで信じ込もうとするバカである

「ああ 自分には先天的な人間性が組み込まれているから 本能欲望のままに行動しておけば人間性なんだわ」とでも勝手に解釈し 何も考えずに「刑法罰で解決だ」と信じ込んで満足し デマだろうが嘘だろうが多数人気がある内容なら誰も疑わないから信じていて良いと錯覚するのが衆愚というものである

衆愚は利己的な世間的成功ばかりを基準にしているために 多数人気や世間的成功者の言っていることなら何でも鵜呑みにして疑うということをしない

「ハーメルンの笛吹き男」に追随して喜んでいるだけで それが本当に人間として正しい行動選択なのかどうかは誰も考えもしないものなのである

「衆愚が考える形式(パターン)」をいくら大量に抽出陳列枚挙してきても それが論理客観的真理の論拠には全くならない

人間性として 個人が自律的な社会的責任判断選択をするのは 世間的評価や金儲けのためではなく 自分が生き続けるに価する社会の在り方に基づいた「考え」によるものであって 世間的評価とは無関係でなければならない

自律とは 自発性の中にあり 他にはない

これは定理である

世間的評価や利己的金儲けを優先していれば自律は後回しになる

世間に流されていて自律など発揮されることはないのである

世間的評価や利益を棄ててでも自律的に社会的責任判断選択をしてこその「人間性」というものである







Ende;

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公開隔離策

2022年01月23日 14時05分40秒 | 日記

集団としてはいろいろな免疫をもっているほうが、このコロナウイルスに対しては得策ではないかと思うのです。一つのコロナウイルスに特化したワクチンでバランスを崩すようなことはしないほうがよいのではないかと。根拠が薄弱で申し訳ないのですが、私はそういうことも考えています。

宮沢孝幸 京都大学

 

⇨宮沢の発言というのは一面的で根拠の乏しい話をヒステリックに主張するので全面的には到底受け入れ難い

「考えている」と言っているものの 論理的根拠が薄弱ならそれは「思い込み」の強度程度に過ぎず 主観と客観的論理を混同している

生物学者の多くが こうした個人的な主観を科学的論証にこじつける傾向が強いために 遺伝的進化における「典型的な間違い」が一向に修正周知されない原因ともなっている

 

だが しかし 若年層においてオミクロン株がインフルエンザ程度の症状しか発症しないのは確かであって(後遺症を無視するとして)

短期間に限って「感染しても構わない人」と「感染してはシャレにならない人」が隔離できれば良いわけで

例えば電車を「感染してはいけない人車両」と分けて 高齢者介護施設の職員さんとか妊婦さんや医療従事者は若くても感染しちゃいけないから それに乗るようにするとか

2〜3週間隔離している間に「感染しても構わない人」の間で集団免疫を獲得しちまえば収束に向かったりしないのかしら

職業柄とか家族に高齢者とか基礎疾患を持っている人がいる若年層と 
「別に健康だから感染しても大丈夫そうだ」と思っている人が社会生活の中で隔離できていれば 一月もしないうちにナントカなりそうな気もするんだが

何か見落としているかしら

居酒屋とかでも高齢者専門のお店と そうでないお店とに分けるとか

そうすれば経済と感染症を両立させることができるんじゃなかろうかという提案です

おいら一人の知見じゃ到底完全ではないだろうとも思っているので それぞれの立場から意見を出し合って効果的な感染対策にしていけばいいんじゃないだろうかと

そういうドラフト試案を東京都とかで公表して意見を募ったら良いのではないだろうか

 

 ◇追記:集団免疫を獲得する前に医療が崩壊することになるらしい これは沖縄の先行例から予測されてはいたものではある

とは言え 電車に妊婦などの「ハイリスク者専用車両」を設けるのは 重症者を減らすには一定の効果があるんじゃないかと思ってはいる

感染対策を充分にとっていない奴が乗ってきてしまう可能性は避けられないものの 基本的には性善説に則って車両区分をすれば 一定の効果はあるはずである

何の区分もせずに一緒くたにハイリスク者と重症化しずらい若年層が混在している状態を放置する方が問題であろう

スーパーなどの食料品店においても 時間区分によってハイリスク者専用時間みたいな区分をしても良いのではないか あくまで期間限定的な暫定措置として そういう工夫をしてもバチは当たらないはずである

 

Ende;

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