時折ネット上で「リア充。」という言葉が出てくるので、ググってみたら「リアルが充実。」の略だとあった。
充実といっても物質的充実と、精神的充実の二つが存在する。しかし、一般的な大衆観念的には「リアルが充実。」といえば物質的な充実のことを指すだろう。
どんなに物質的充足を得ていても、精神的に満たされるとは限らない。
物質的充実というものは、他人との比較においての羨望を促すため。一般大衆観念的にそれを「充実。」と形容する傾向がある。
精神的充実を得られなければ、どんなに物質的に充実していても精神的には「餓え。」た状態のままであるため、公益倫理的な自律判断をする余裕がない傾向がある。
独裁者達に見られる異常な権力への執着というものも、精神的充足が得られないことによる精神的「餓え。」によって生じるものである。物質的な充足は外見的には充足しているように思われがちで、他人から見れば羨ましがられるが。当人の精神的充足とは無関係なものなのである。
精神的に充実していない者、精神的に「餓え。」ている者というのは。他人のことである公益倫理にまで意識が働く余裕がないのである。
通り魔であろうと独裁者であろうと、その異常行動の根源は精神的な「餓え。」に起因するものであり。社会的地位や物質的充足とは無関係なのである。
他人に迷惑をかける者というのは、他人の迷惑にまで気を配る余裕がないからであり。意識狭窄性の原因は精神的な「餓え。」、精神的な余裕の欠落によるものなのである。
「リア充。」としての物質的充足を自慢する行為とは、「他人に。」物質的充実を自慢しなくてはいられないという自己自身の精神的「餓え。」による行動結果であり。その行為自体が精神的な充足の欠落を曝しているのである。
精神的充実というものに他人との比較は原理的に不可能であり。比較に意味もなければ、比較する理由も存在しない。
ヒトの生物学的な社会形成習性としての順位欲の表出として、「他人から見た、外見上の順位。」として物質的充実に執着するのである。
また、大衆観念的には多数の大衆が望むことこそが、個人の望むものであるというアプリオリな思い込みによって多数決的に物質的充足だけが重要視されがちなのである。
ヒトの習性として、物質的充足こそが本質的充足であると思いがちな傾向がある。
本質的充足とは、あくまで精神的充足のことである。
どんなに物質的充足をしていても、人は必ず死ぬ。死に臨して物質的充足は意味を成さない。棺桶に金を入れてもあの世にまでは持っていけないのである。
しかし、精神的充足を持つ人であるならば、自己の生命財産、利権や地位を失うとしても公益倫理的な判断を自律的に行うことも可能となる。
精神的充足というものは、自己自身が本質的自発的に自己存在を肯定する本質的「意思。」によって得られるものであり。それによって単なる物質的生存にこだわらない本質的自己存在価値として、公益倫理的な自律判断も可能になるのである。
本質的「意思。」を持たないまま、単なる欲望、その場限りの気分的な安心だけを追求していれば、外見上の充足にばかり執着してしまい、結果的に自己の精神的充足を得ることが出来ずに、公益倫理的自律判断もできない「ヒト。」に成り下がるのである。
本質的「意思。」とは、自発的な意識、自発的な「考え。」と同義であり。これによって論理的精密検証が確保でき、また、公益倫理的な自律判断も可能となるのである。
「考え。」が伴わないから、「思い。」だけで行動が選択されてしまうことになり。気分だけが選択基準となってしまうのである。
「気分=行動。」であるならば、それは大脳辺縁系に組み込まれた情動行動に操られるだけの、全く自由のない状態であり。何をしでかしたとしても、全ては既存在としての自己の「結果。」でしかないのである。犯罪者の多くに見られる「なぜ、そんなことをしたのかわからない。」とか「悪魔が乗り移った。」などというトンチンカンな言い訳の原因は。本質的には自己自身の意識的選択が行われていないからなのである。
本質的自己の選択として、目的意識を持って行動選択していれば、こうしたトンチンカンな言い訳は出てこない。
言い訳を全くしたがらない通り魔というのもいるが。無差別殺人という行動自体、全く目的の存在しないヒステリックな行動結果であり。論理的には全く説明ができないからこそ説明しないだけのことであって。トンチンカンであることは全く変わりはない。
無差別殺人者に動機を聞いても無駄なのである。無差別であるという時点で論理的な理由などあるはずもなく、単なるヒステリックな感情による気分の結果として、選択「してしまった。」行動であるから。そこには当人の意識的「目的。」は最初から存在しないのである。
本質的には「意識。」的に「目的。」選択は成されていないのである。
だからといって死刑が正当化されるわけではない。むしろ、無差別殺人のような行動を採る程の無意識性の原因、本質的自己選択の欠落の原因を突き止め。再発防止に応用すべきなのである。
無差別殺人犯に共感する者も多いという。こうした者は無差別殺人犯予備軍といっても過言ではない。「世の中が悪い。」と称して、理論的な原因究明を全く行わず、その場限りの気分的な誹謗中傷をするだけで。同じ観念を目先の多数で共有して気分的な安心のまどろみに浸っているだけのバカを放置しておいて良いわけがないのである。
物質的充足の有無に関わらず、個人が自己自身の精神的充足としての純粋行為を持ち。自律的に公益性や倫理を重んじる本質的「意思。」「意識。」を持つようにすべきなのである。それが可能であるかとか、困難であるかどうかはどうでも良いことである。これはやらなければならないことであって、選択の余地など最初から存在しないからである。
刑法に基づく司法判決というものには、再発防止策の確立を行うための一切の構造が存在しない。ただ単に法手続き的に刑罰が確定するだけなのである。それで満足しているというのは、要するに国家権力に対する異常な信頼に由来する気分的満足でしかないのである。
大抵の場合、個人的な純粋行為を持つ人の多くは他人の精神的な欠落には無関心で。一方純粋行為を持たず、自律判断のできない者の全ては本質的意識の重要性は認識不可能である。
無意識的な者というのは「自分ができないことは、他人もできないものである。」という気分的な観念を無意識に持っているため。問題意識自体が全く存在しないのである。こうした観念というのは、「他人ができることを、自分ができないとは認めたくない。」という、無意識的な傲慢さに由来する。
何の「考え。」もなしに、ただ「思い。」感情だけを主張するから傲慢なのである。「思い。」とは個人的な感情であり、極めて主観的な観念である。その観念を多数決的に共有して気分的に安心するから、何の「考え。」も働かないのである。
充実といっても物質的充実と、精神的充実の二つが存在する。しかし、一般的な大衆観念的には「リアルが充実。」といえば物質的な充実のことを指すだろう。
どんなに物質的充足を得ていても、精神的に満たされるとは限らない。
物質的充実というものは、他人との比較においての羨望を促すため。一般大衆観念的にそれを「充実。」と形容する傾向がある。
精神的充実を得られなければ、どんなに物質的に充実していても精神的には「餓え。」た状態のままであるため、公益倫理的な自律判断をする余裕がない傾向がある。
独裁者達に見られる異常な権力への執着というものも、精神的充足が得られないことによる精神的「餓え。」によって生じるものである。物質的な充足は外見的には充足しているように思われがちで、他人から見れば羨ましがられるが。当人の精神的充足とは無関係なものなのである。
精神的に充実していない者、精神的に「餓え。」ている者というのは。他人のことである公益倫理にまで意識が働く余裕がないのである。
通り魔であろうと独裁者であろうと、その異常行動の根源は精神的な「餓え。」に起因するものであり。社会的地位や物質的充足とは無関係なのである。
他人に迷惑をかける者というのは、他人の迷惑にまで気を配る余裕がないからであり。意識狭窄性の原因は精神的な「餓え。」、精神的な余裕の欠落によるものなのである。
「リア充。」としての物質的充足を自慢する行為とは、「他人に。」物質的充実を自慢しなくてはいられないという自己自身の精神的「餓え。」による行動結果であり。その行為自体が精神的な充足の欠落を曝しているのである。
精神的充実というものに他人との比較は原理的に不可能であり。比較に意味もなければ、比較する理由も存在しない。
ヒトの生物学的な社会形成習性としての順位欲の表出として、「他人から見た、外見上の順位。」として物質的充実に執着するのである。
また、大衆観念的には多数の大衆が望むことこそが、個人の望むものであるというアプリオリな思い込みによって多数決的に物質的充足だけが重要視されがちなのである。
ヒトの習性として、物質的充足こそが本質的充足であると思いがちな傾向がある。
本質的充足とは、あくまで精神的充足のことである。
どんなに物質的充足をしていても、人は必ず死ぬ。死に臨して物質的充足は意味を成さない。棺桶に金を入れてもあの世にまでは持っていけないのである。
しかし、精神的充足を持つ人であるならば、自己の生命財産、利権や地位を失うとしても公益倫理的な判断を自律的に行うことも可能となる。
精神的充足というものは、自己自身が本質的自発的に自己存在を肯定する本質的「意思。」によって得られるものであり。それによって単なる物質的生存にこだわらない本質的自己存在価値として、公益倫理的な自律判断も可能になるのである。
本質的「意思。」を持たないまま、単なる欲望、その場限りの気分的な安心だけを追求していれば、外見上の充足にばかり執着してしまい、結果的に自己の精神的充足を得ることが出来ずに、公益倫理的自律判断もできない「ヒト。」に成り下がるのである。
本質的「意思。」とは、自発的な意識、自発的な「考え。」と同義であり。これによって論理的精密検証が確保でき、また、公益倫理的な自律判断も可能となるのである。
「考え。」が伴わないから、「思い。」だけで行動が選択されてしまうことになり。気分だけが選択基準となってしまうのである。
「気分=行動。」であるならば、それは大脳辺縁系に組み込まれた情動行動に操られるだけの、全く自由のない状態であり。何をしでかしたとしても、全ては既存在としての自己の「結果。」でしかないのである。犯罪者の多くに見られる「なぜ、そんなことをしたのかわからない。」とか「悪魔が乗り移った。」などというトンチンカンな言い訳の原因は。本質的には自己自身の意識的選択が行われていないからなのである。
本質的自己の選択として、目的意識を持って行動選択していれば、こうしたトンチンカンな言い訳は出てこない。
言い訳を全くしたがらない通り魔というのもいるが。無差別殺人という行動自体、全く目的の存在しないヒステリックな行動結果であり。論理的には全く説明ができないからこそ説明しないだけのことであって。トンチンカンであることは全く変わりはない。
無差別殺人者に動機を聞いても無駄なのである。無差別であるという時点で論理的な理由などあるはずもなく、単なるヒステリックな感情による気分の結果として、選択「してしまった。」行動であるから。そこには当人の意識的「目的。」は最初から存在しないのである。
本質的には「意識。」的に「目的。」選択は成されていないのである。
だからといって死刑が正当化されるわけではない。むしろ、無差別殺人のような行動を採る程の無意識性の原因、本質的自己選択の欠落の原因を突き止め。再発防止に応用すべきなのである。
無差別殺人犯に共感する者も多いという。こうした者は無差別殺人犯予備軍といっても過言ではない。「世の中が悪い。」と称して、理論的な原因究明を全く行わず、その場限りの気分的な誹謗中傷をするだけで。同じ観念を目先の多数で共有して気分的な安心のまどろみに浸っているだけのバカを放置しておいて良いわけがないのである。
物質的充足の有無に関わらず、個人が自己自身の精神的充足としての純粋行為を持ち。自律的に公益性や倫理を重んじる本質的「意思。」「意識。」を持つようにすべきなのである。それが可能であるかとか、困難であるかどうかはどうでも良いことである。これはやらなければならないことであって、選択の余地など最初から存在しないからである。
刑法に基づく司法判決というものには、再発防止策の確立を行うための一切の構造が存在しない。ただ単に法手続き的に刑罰が確定するだけなのである。それで満足しているというのは、要するに国家権力に対する異常な信頼に由来する気分的満足でしかないのである。
大抵の場合、個人的な純粋行為を持つ人の多くは他人の精神的な欠落には無関心で。一方純粋行為を持たず、自律判断のできない者の全ては本質的意識の重要性は認識不可能である。
無意識的な者というのは「自分ができないことは、他人もできないものである。」という気分的な観念を無意識に持っているため。問題意識自体が全く存在しないのである。こうした観念というのは、「他人ができることを、自分ができないとは認めたくない。」という、無意識的な傲慢さに由来する。
何の「考え。」もなしに、ただ「思い。」感情だけを主張するから傲慢なのである。「思い。」とは個人的な感情であり、極めて主観的な観念である。その観念を多数決的に共有して気分的に安心するから、何の「考え。」も働かないのである。