書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

えんばかでろ。

2011年05月14日 14時49分00秒 | ネタ帳
 「バカ。」とか「出ろ。」とか読めるもんだから、また悪口でも書いているのかと勘違いされそうだけど、「エンバカデロ。」っていう開発環境を販売している会社名のことです。

 以前ウインドウズ95時代に「C++Builder」っていうRADを使っていたので寄ってみたんだけど、担当者の人は以前C++Builderを販売していたBolandのことは知っていたんだけど、その前のInpriseのことは知らなかった。

 最新のDelphi Prism XEではアンドロイドアプリまでコンパイルしてくれるそうなので、面白そうではある。確か3万6千円とか言っていた。でもパンフレットをいくら読んでもAndoroidの文字はどこにも書いてない。別途プラグインみたいのを買えばiPhoneアプリは作れるって書いてあるけど、なんだかよくわからない。

 パンフレットを読んでも知らない言葉がいっぱい書いてあって、隔世の感。ちんぷんかんぷんです。

 以上。(ネタじゃなかった。)






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

障害者向けスマートフォンアプリについて。

2011年05月14日 13時26分39秒 | ネタ帳
 昨日スマートフォン&モバイルEXPOっていうのに行って来たんですが、それとは関係なくて、(なんじゃそりゃ。)以前NHK教育テレビで障害者向けのスマートフォンアプリについて思ったことがあったので、ここで書いておきたいのです。

 弱視という視覚障害を持った人向けに、テキストの文字を一文字づつ画面いっぱいに表示させるアプリっていうのがあって。ところが文章中で同じ文字が続いている場合に文字が切り替わったかどうかがわからないとのことから、一文字毎に文字の色を変えて表示する機能を追加したらしい。

 でもタッチスクロールにしておけばいいだけのことじゃないのかね。違うのかな。端末を振る動作で反応させてスクロールさせてもいいんじゃないかな。加速度センサーで検出するやつね。



 聴覚障害のある人向けに、音声をフーリエ高速変換して画像表示しておいたら他人の声と自分の声を視覚的に比較することができるので、発声学習に応用できるのかなと思っている。

 いや、音声スペクトラムなんて、いきなり見たら何だかさっぱりわからないだろうけど、自分の声のスペクトラム画像を見ながら発声練習をしていれば、そのうち直感的に無意識学習が可能なんじゃないかなって思っている。だから表示されているスペクトラム画像の理論的な意味とかはわからなくても構わないはず。

 漢字とかを読む時に、漢字の一部が間違っていると直感的にわかるのに。何も見ずに書こうと思うと書けない場合というのがあるように、視覚認知機能というのは具体的な記憶ではなく、抽象化された直感的な無意識性の記憶によって「読む。」ことができるのと同じように、「なんとなく。」違いがわかるように学習できるはず。

 だからスペクトラム画像自体は漫然と模様か何かだと思って見ながら色々な音声の画像を見ているうちに、「なんとなく。」違いがわかってくるはずなんです。

 個人的に「性に合わない。」人とかもいるだろうから強制するようなものではないけれど、音声の画像を面白いと思う人であれば使えるようにしておいた方が選択肢が増えていいのではないだろうか。あまりアプリを提供する側が勝手に「難しくて使い難い。」とか決め付けてしまうと、選択肢が減って障害者の可能性を削いでしまうことにもなりかねない。少数でも使いたい人、使うのが苦にならない人がいるなら、用意しておくぐらいは罰はあたらんでしょ。

 それとも単にFFT変換アルゴリズムがわからないだけのことなのかね。誰かいるでしょ、フーリエ関数とかわかる人。ねぇ。専門書を読んだことはあるけど、そんなに難しくはないと思った。確か抽出したい周波数と測定波形とを掛け算するだけで抽出できるような内容だったと思うんだけど。だからフーリエ高速変換って言われるんだったはず。



 あ、そだ、そういえば「スマートフォン&モバイルEXPO」で見たんだけど、スマートフォンの傾きセンサーとか加速度センサーを用いて、カメラの画像から対象物までの距離を算出して速度計算をするという技術が紹介されていた。測定精度は低いんだけど、多分近い程距離計算精度は向上するはずなので、人混みとかでの電子白杖として使えるんじゃないかとか思ったんだけど。

 基本的には端末を持った高さ一定で、地面も水平であることが測定条件なんだけど、あまり極端な傾斜地とかでなければ、それなりに使えるんじゃないかな。

 GPSとかと連携させて、どこかに固定することで精度を向上させることも可能なんだとすれば、視覚障害者でなくても利用価値はありそう。

 あ、複数の端末で連携させたらもっと精度上がるんじゃないかな。二つの端末から三角測量すれば、相当精度向上が期待できそうなんだけど。エンベデッドソリューション株式会社だったので調べて見ます。でわ後で。

 追記:

 エンベデッドソリューション株式会社のHPは見つかったんですが、イベントで紹介していたような内容は全く掲載されていませんでした。何だろう、秘密にしておきたかったのかな。よくわからない。

 「SpeedPhone」っていうスピード計測アプリなんだけど、これはアンドロイドアプリのマーケットに行けばあるのかな。行ったことないからわからないや。

 この種の展示会全般にいえるんだけど、ブースの看板に会社名が明記されていなくて、商品名だったり英文キャッチコピーだったりすると見つけられないことが少なくない。そもそも何の会社なのかもわからないことが多くて、無駄に時間を浪費させられて疲れる。

 会社名がはっきりしないと自分が今会場のどこにいるのかを見失うこともあるので、ブースの一番大きな一番上の文字は会社名を明記することを義務付けた方が良いのではないだろうか。今回の展示会は異常に広かったのでなをさら迷いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スマートフォンで集団イルミネーション。とか。

2011年05月13日 23時39分33秒 | ネタ帳
 ソネットブログの時からあったネタなんだけど、スマートフォンとか使って集団でイルミネーションをするアプリとか、冨田勲とかがやっているようなマルチチャンネル音声とかができないかなと思って探してみたら、ゲームのSDKとか作っている会社さんが興味を持っていたらしい。

 今のところその会社さんのゲームSDKだとP2Pのゲームしか作れないので、集団アプリには対応できないらしいんだけど、将来的には視野にいれて開発しているとのこと。SDKがなくても単体アプリで出来そうな気もするんだけど、最近のアプリケーション開発のことは良くわかりません。おいらゲームをやらないので、ゲームSDKとかあまり興味がない。

 携帯型ゲーム機とかだと4人対戦とかも可能らしいのだけど、集団アプリの場合は下手すると何百人単位でシンクロさせないといけないだろうから、ゲームとかのシンクロシステムとは異なるアプローチが必要かも知れない。例えばマスター機を一台設定しておいて、他の全ての端末は受信だけに徹するとか。Bluetoothっていうのは一対一でしか使えない通信機能なのかな。一方的に受信するだけなら複数の端末で受信することも可能なんじゃないかと思うんだけど、どうなんだろう。画像処理とか以外にあまり興味もない上、ネット自体が今年の2月から始めたばかりで調べものとか探しものが苦手で、しかも英文サイトが読めないので、結構手詰まり状態。

 あ、あとマスター機を設定するっていうのも、マスター機のカメラを使って他の端末の位置情報登録をするっていう意味もある。でも、この時にはマスター機に向かって送受信しないといけなくなるから、これはWeb通信で行うのがいいんだろうな。当然ながら登録時にはマスター機を完全に固定しておかないといけないし。カメラの視野が狭い場合は登録自体ができない場合もありそうである。

 マスター機のカメラのリフレッシュレート、記録コマ数が30fpsとかの場合、登録する端末の方から位置情報を光でPCM信号で送信するとなると、登録自体を自動化しないと扱い難くなってしまうだろうね。

 ある程度の規模で行う場合なら、ワイドレンズを付けたデジタル一眼とかをパソコンでキャプチャ動作させてマスター機として使うこともできるだろうけど。できれば全て普通のスマートフォンだけでできた方が汎用性が高くて普及率も高いとは思う。

 位置情報登録をしなくても、時間単位でのシンクロだけでもできるような、事前の登録準備がなくても即興で使えるモードもあると便利かもしれない。

 そもそもスマートフォンの液晶表示というのは、画素の半分が反射式になっているため、太陽光の下でも見難くならないんだけど。輝度自体があまり高くないので、イルミネーションとしてはちょっと地味なのかも知れない。おいらが今このブログを書いている端末は東芝アンドロイドAZ05/Mというキーボード付きの端末なんだけど、これは完全な透過液晶なので輝度を最大にすれば非常用照明になるくらい明るいので、一般的なアンドロイドOSのスマートフォンとは状況が異なる。

 液晶表示をイルミネーション光源として使うのが難しい場合には、USBに接続するLEDライトとかがあれば良いのではないだろうか。LEDを光らせるだけなら100円ショップとかでも扱える位安価に出来そうだし、非常用照明としても効率よく使えるので便利そう。


 §音声シンクロ

 光によるイルミネーションだけでなく、音声を使った集団インスタレーションというのも考えられる。

 位相とか定位を端末間で変化させることで、音が空間をグルグル回るような再生も可能なはず。

 でも位相シンクロに関しては、機種によっては再生タイムラグが異なる場合もありそうなので、それを自動調整する機能も必要かも知れない。

 マルチチャンネル音声再生アプリを作った場合、スマートフォンの低音再生能力の低さが問題になりそうなので、携帯型スーパーウーハーとかがあれば良いかなと思ったんだけど、商品化しても数が売れそうにないので難しいだろうな。

 低音域の場合、あまり音源「定位」がはっきりしないので、スマートフォン自体は複数あってもウーハーは一台あれば充分だと思う。となると更に台数が売れないだろうな。

 AUX入力のある大型のCDラジカセとかでも代用出来そうなんだけど、その方が現実的かな。オルゴールのような共鳴を利用した「アクチュエーター」という手法もあるんだろうけど、これは共鳴させる相手にも依るのだが、あまり低音再生能力が高くないらしい。そもそも共鳴させる相手としての板がないと使えないので、それなりに不便でもある。

 集団アプリ関係のネタのまとめはとりあえずそんなところ。





 §IT業界全体に言える思想について。

 世の中的にはヒマゲーとかクソゲーが儲かるもんだから、クソゲーSDKとかが結構出回っているみたい。作っている人達からすれば気分が悪いかも知れないけど、従来のゲーム製作の機能をオブジェクト化しても、ゲーム自体の動作はどれも似たようなものにしかならないんじゃないかな。ゲームのジャンルというものが既に存在するジャンルからの脱却ができなくなってしまうと、ゲーム業界自体の停滞を招く原因にもなっているんじゃないかな。

 「意識。」に関わる話として、ヒトというのはどうしても「従来のパラダイム」に固執してしまう傾向というのがあって、脱構築可能性を失ってしまう習性がある。ただ漫然と同じようなものを作り続けていれば気分的には安心なんだろうけど、そこから新しいものは出て来なくなってしまう。「柳の下のどぜう。」に皆群がってしまうという傾向も、そこに拍車をかけてしまうらしい。それは意識狭窄以外の何物でもないんだけどね。

 甥っ子が小さいころ、プレステでラチェットとかいう3Dのゲームをやってたときに、「それは面白いのか?。」って尋ねたら、「別に。」って答えてきたことがあって驚いたことがある。どうもクソゲーというのはやっている方も漫然と「他に楽しみもないから。」といった消極的理由で消費されている傾向があるらしい。酒とかパチンコとかも同じ理由で中毒になるのだけど、やっている本人的には本当は「楽しく。」はなくて。むしろ個人的な楽しみが見つからない精神的な「穴。」を埋めようとしてクソゲーにハマっているだけなのではないだろうか。

 単なる金儲けの観点からすれば、ユーザーの精神的な虚脱とかはどうでもいいのかも知れないけど。企業の在り方として漫然とクソゲーを提供し続ける怠惰性は、社会全体から見て必要な企業であると言えるだろうか。

 ユーザーが求めているものというのは本当はゲームという括りに縛られるようなものではないんじゃないかな。「ゲーム=楽しい。」とか「科学知識=つまらない。」という方程式が脳に刷り込まれてしまっているから漫然とゲームをやっているだけで、実際にはもっと面白いものがたくさんあると思うんだけどね。こうした刷り込みというのは現在の教育システム自体の怠惰性によるものでもある。このことについては改めて書くとして、製作している人達の方も「それは本当に欲しいコンテンツ、やりたいゲームなのか。」って意識的に考えて欲しいんだけどね。こうした自律的な考えを現在の教育はさせないようにしてきちゃったんだろうな。



 話は変わるけど、サイトのユーザーID登録とかって書く欄によって「半角英数字」とか「全角カタカナ」とか「漢字」とかって指定されていて、これが結構面倒臭い。うっかり反射的にreturnキーを連打しちゃうと勝手に送信されてしまって、それまで入力したものが全てリセットされて、もう一度最初からやり直しになったりする。

 日本語を変換する時には、変換時に必要回数returnキーを押さないと文字が確定されないものだから、普段反射的にreturnキーを連打する癖がついていて、半角英数字モードの時でもそれをやってしまって全てがパーになってしまうことが時折ある。

 書き込む欄の最後に送信ボタンがあるんだから、returnキーで勝手に送信しないで欲しいんだけど、なんで書き込む途中でreturnキーを押すと送信される仕様になっているんだろう。こうした不便な動作によって登録を途中で諦めたり、面倒臭くなって放棄する人もいるだろうに、そんなんで良いのかね。

 書き込む欄をクリックしてアクティブ状態になったら、その欄に書き込むべき文字入力モードに自動で設定できないのかな。HTMLとかの規格を策定している団体では、そういうことは議論されないのかな。クラウドコンピューティングがこれからますます加速しそうな現状なのに、CGIの文字入力については不便なままで放置プレイにするつもりなのかしら。

 あと、登録関係の入力で面倒臭いのが誕生年の西暦入力。誕生年というのは普段役所とかでは元号しか使わないので、急に西暦変換とか要求されても忘れていることが多かった。ネット上には元号と西暦を変換してくれるサイトもあるのだけど、それをするには一度登録ページから離れなければならず、結局初めからやり直しになったりして鬱陶しい。

 誕生年の記入欄自体に西暦入力の欄と元号入力の欄が備えられていて、どちらか一方に入力すれば自動的にもう一方の欄は計算されるような構造にもできるのではないか。別に難しいことはないと思うのだけど。

 ネット上での登録ページではなかったんだけど、コンビニのポイントカードの登録用紙に誕生年の記入欄があって、それが西暦だったものだからその場で計算したら間違っていたらしくて、訂正要求の手紙が送付されてきたことがあった。それはもう面倒臭いので棄ててしまった。

 こうした用紙でも西暦と元号の二つの記入欄どちらか一方に記入しておけば良いことになっていればいいだけのことで。別に難しいことなんか何もなかろうと思うのだけど、コンビニの店頭で西暦と元号の換算を登録者の方に要求するというのは、西暦だけどお役所仕事的で嫌だな。お役所の場合はわからなければ調べてくれるけど、コンビニのアルバイト店員の場合には全く対応してくれないことも多い。

 西暦と元号の換算間違いというのは、こうした登録類において、どの程度の頻度で発生しているのだろう。もし圧倒的に多い場合には先述した方法を採ることが望ましいはずである。西暦と元号のどちらもわからないという場合はかなり少ないはずだからだ。


 ハイテクが普及した世の中だけれど、結構マヌケな手抜きが結構存在する。サイトによっては「このページは最新の技術が使われているので、表示できません。」とか表示されることがある。それって一体何のための「最新。」なのさ。そういうのを本末転倒っていうんじゃないのかね。

 森永ケーキシロップのフタみたいに、機械的技術関係のものづくりは日本の技術者は凄いんだけど、IT系でのソフトウエア系ものづくりに関しては手抜きというかマヌケなものが結構少なくない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幼女性愛は純粋行為か。

2011年05月09日 14時29分06秒 | 意識論関連
 年齢に関わらず、レイプは犯罪である。それが幼女性愛の場合は中毒性、依存性が非常に高い傾向があるため特に問題視される。

 自分で自分の情動行動を制御選択できない時点で、それは本質的「自由。」ではない。

 本能のおもむくままに行動することは「自由。」ではないのである。だから犯罪者の多くは犯行後に「どうして、そんなことをしたのか、自分でもわからない。」とか「悪魔が乗り移った。」などと他人事みたいなことを言い出すのである。

 養老が良く使う言い逃れに「人は川だ、常に変化する。」というのがある。これは自分の言っている話の論理整合性の欠落、無責任性を正当化するための屁理屈である。実際には自分の言ったことに責任を持ちたくないために、録音されることを嫌うだけのことであり。結局は犯罪者の言い逃れと構造は一緒である。

 幼い少女に性的な興奮を「してしまう。」こと自体は当人の選択ではない。問題なのはそうした感情の大きさだけで行動が選択されてしまうことである。

 単に感情の大きさだけで行動が選択されている状態というのは、理論的には本質的な選択ではない。感情の大きさというものは自己の選択によって決定されるものではないからだ。

 また、実際の犯罪者というのは自己顕示が強く、犯罪の重大さを他人と比較して自慢する傾向が見られる。つまり「自分の脳の方が気持ちいい。」と主張したいらしいのである。

 現実には、脳というのは他人との神経接続が存在しないので、他人の脳との快楽度の比較は原理的に不可能である。つまり、快楽というものは極めて個人的な価値観であって、外見上の快楽を多数で共有しても、それが全てのヒトにおける普遍的快楽であることの証明になど一切ならないのである。

 ホリエモンが述べていた「だって、皆さんお金欲しいでしょ。」という話も同様である。多数他人との価値観共鳴に固執すること自体が犯罪者への近道なのである。なぜならそれこそが「自律。」の欠落を意味するものであるからだ。

 「養老は犯罪者ではない。」と反論されそうだが、それを言うなら天下り役人達も犯罪者ではない。単に刑法に引っ掛からないだけで、社会的には損失にしかならないことというのは少なからず存在する。原発行政など典型である。

 あるゆる社会損失の全てを刑法で取り締まってしまったら、世の中がんじがらめで何にもできなくなってしまうのである。重要なのは、罰を与えることではなく、再発防止を優先することであり、論理的に考えることが重要なのである。そのための「教育。」なのではないか。

 気分的に嫌な話は無視しておいて、手っ取り早く評価報酬につながるような強迫観念的行動ばかりに執着しているからバカが増えるのである。幼女性愛犯罪というのは「エサ。」に対する最も短絡的な行動である。どんなに高学歴であろうと性犯罪というのは存在する。自律と学歴は無関係なのである。

 最も重要なのは、個人が感情に左右されずに、本質的行動選択ができるかどうかであり。特定「能力。」を知能と見なすような現在の知能論というのは、単なる大衆迎合でしかない。

 個人が、自己自身の感情に左右されず、公益倫理的な行動判断をできるようになるためにはどうすれば良いのか。それにはまず個人的な純粋行為を持つことである。だが、単に持っただけではダメで、そこに個人的な価値観を置いた人生観を持つことも必要である。それは環境依存的なものでどうにかなるようなものではなく、同時に教育「環境。」だけでどうにかなるようなものでもない。ただ、少なくとも個人的価値観を大切にするような環境の方が、本質的自発的行為、純粋行為への価値観を持ちやすくなることは確かである。特に幼少期は。具体的な教育の方法論についてはここでは論じない。それは専門外でもあるからだ。

 私が論じたいのは、子供の教育ではなく、それを行う教育者自身の意識の問題なのである。そしてそれは子供の親も含まれる。刷り込まれた無意識的な強迫観念に基づく教育を、単に反射的に繰り返しているだけの人間ほどヒステリックで感情的に執着する。その典型が虐待の連鎖なのである。

 虐待をされた人であっても虐待を止めることができる以上、そうでない人間が無意識な価値観を放棄することが不可能であることの証明など存在しないのである。「俺はそうやって育てられた。」などというのは泣き言でしかない。そんな話をしている段階で教育者としては出来損ないであることを認識すべきである。

 公益倫理的判断として、子供の本質的意識を養うことに選択の余地など初めから存在しない。それが気分的に嫌だというのであれば、それは犯罪者に加担しているのと同義である。

 頭のおかしい人間同士で同じ観念を共有していれば気分的には安心であろう。自分の愚かさを意識から外し、過去の栄光を自慢して自信たっぷりに観念をぶちまけておけば気分的には満足であろう。そうした自己満足のまどろみこそが人間社会の諸悪の根源なのである。


 本能自体は選択できない。女性の好みが個人的に幼い少女であること自体はあまり変える余地は存在しない。それなら、その欲望をどのように「消費。」するか、その選択が重要となるのである。この選択こそが本当の選択であると言えるからだ。

 実害がないのであれば、どんなに多数からの批判をされても構わない。かつて江戸川乱歩は猟奇的内容を批判されたこともあったが、現在では賞のタイトルにまでなっているのである。社会や時代に左右されず、自分の本当に行いたいことであるなら、それは行なうべきなのである。社会的な評価や報酬に関わらず、個人的に熱中できることこそが、最終的には自己の自律判断に結び付く本質的意識、「意思。」を育むことになるからである。

 自分の気持ちが大切にできない者が、他人の気持ちなど推し量ることなど原理的に不可能なのである。

 間違っても多数他人と同じ観念を共有して気分的安心を求めてはならない。あくまで個人的な純粋行為として追求しなければならないのである。

 「相手の気持ちになって考えなさい。」とは良く聞く話であるが、自分の気持ちがわからないまま相手の気持ちを鑑みることなど原理的に不可能なのである。自分自身に価値を持たない者であれば、他人の気持ちにも価値など見いだせないのは当然である。

 なによりも優先して自分の気持ち、自分の純粋行為を大切にすることが重要である。先立つものがなければどうにもならない。逆に自分自身の純粋行為に価値を持っているのであれば、自ずと他人としての社会公益性にも意識は働くようになるものである。

 他人からお説教的に押し付けられなくとも、自然と相手の気持ちも判るようになるものなのである。

 無意識下に刷り込まれた強迫観念的なブレーキとしての「超自我。」というものは、結局はその場の気分、感情の大きさによって簡単にタガが外れてしまうものである。刷り込み学習的な倫理など、糞の役にも立たないことを認識すべきである。


 都の条例でR-18規制が強化されたが、表現自体を禁じているわけではない。条例に対する反論を見ると大抵は「作家が萎縮する。」とか「漫画が売れなくなる。」といった話ばかりで、そんな理由で子供の育成環境を犠牲にするのはおかしな話である。

 小学生がエロビデオを見て同級生を集団レイプしたという話があり、結構ネット上で取り上げられているようだ。子供というものは本能を自律的に抑制できないのが普通である、むしろ本能とか感情を自律的に制御できないから「大人」として出来損ないなのである。年齢だけ18歳以上であっても出来損ないは結構少なくない。それこそタバコの購入カードとかと一緒にR-18書籍購入に規制をかけても良いくらいではないだろうか。飲酒運転とか泥酔して「トラ箱」送りにされた者に対しての酒類販売規制をして欲しいくらいである。

 優先すべきは「安全」であって、作り手の一方的で個人的な「安心」を優先すべきではない。今まで野放し状態で儲かっていたいう「結果」をいくら枚挙しても、それは正当化する論理的根拠にはならない。

 現実にはカルト宗教の教祖の書いた書籍であっても規制はない。だから事実上思想信条に関する表現規制など存在していないのである。ということは何が間違いで何が正しいのかは読み手の方が判断するのが民衆主義の基本であり、それが単なる大衆迎合的な「流行」に流されていてはダメなのである。


 現在の生物学における「客観性」というものは実際には「傍観性」にしかなっていない。思考段階において客観性は必要であるが、結論において傍観してはならない。どんなにたくさんの「結果」を枚挙しても、それは自体は「目的」にはならないからである。

 生物学というのはヒトという生物における本質的意識の存在というものを意図的に無視しようとしている。「戦争をしても絶滅していない。」などと言っていれば、犯罪犠牲などは「さざ波」扱いになるのは当然である。それならヒトが犯す過ちのほとんど全ては生物学者にとってどうでも良いことだということである。

 チンパンジーの研究ならそれでもいいが。実際には脳科学や認知科学においてもこうしたパラダイムが継承されており、それがヒトの本能習性に起因する諸問題に対する障害となっているのである。起こったことは全て「結果」である、その結果を踏まえてどのような行動選択を行うかは「目的」意識によって選択されなければならないものなのである。現在の生物学はヒトが何をしたとしても「結果」だけが全てになってしまう。これでは何の進歩も促されることはない。それこそ絶滅を予言しておいて絶滅すれば業績であると思い込んでいるような奴が権威に君臨している。これらの異常性というものは生物学的な社会形成習性による批判性の欠落や、年功序列体制の無意識的構築性の結果である。他人のことも傍観するが、自己自身の判断までも傍観するというのは学者として糞の役にも立たない。税金の無駄遣いのみならず、社会的にも害を及ぼす実証不能の観念というものは科学界からは排除すべきなのである。

 研究の途中段階において思考の自由度は必要だが、結論については「勝手」はゆるされるべきではない。結論というのは既に起こったことの「結果」それ自体と同義ではない。このことを厳密に検証しないから無為無策に陥ることになる。

 マスコミの多くも、多くの生物学者と同様に文系の非理論的な観念の世界を好み、論理的精密検証も、それに伴う批判精神も持たずに、体制に迎合して年功序列的に服従するだけの人間が非常に多い。マスコミの社会的な役割として、権威性に対する批判は重要であるはずなのだが、なぜか政治に対しては必要以上に批判的でありながら生物学に対しては無意味に寛容である。これはおそらく「前例がない。」という慣習的な怠惰によるものであろう。

 慣習的怠惰というのが無意識であることは、別に説明しなくてもバカでもわかるはずである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

依存症。

2011年05月09日 09時08分03秒 | 意識論関連
 買い物依存などの行動の原因は、刷り込まれてしまった快楽への行動学習であり。これは無意識学習である。

 意識の上では「やめなければ。」と「考え。」ながらも、感情がそれを上回ってしまう。

 これは要するに「考え。」が失われてしまっているからである。

 一つの解決策として、「他に燃える(萌える)ものを見付ける。」ことである。世の中にはいろいろな依存性を持った物事が存在するはずである。その中から他人との関係性に関わらない極めて個人的な価値観に関わる純粋行為への依存を持つことが一番良い。

 ノーベル賞受賞者の小柴昌俊氏が必ず論ずるのが、「これなら自分は一生続けることができる、そういうものを見つけなさい。」というのがこれに相当する。


 ヒトは生物学的な社会形成習性があり、他人との関係性を求める傾向性があるため。どうしても個人的純粋行為への価値観を蔑ろにしてしまいがちである。

 買い物依存症の表面的「理由。」として、「自信。」というものがあり、これは「他人から見た自己。」であり、一般的に言われる「自意識。」としても意識であり、これが無意識なのである。本質的意識と一般的な自意識を混同してはならない。

 問題のある依存症の類というのは、基本的に無意識的な行動が促すものであり。本質的な意識が働いていないことが原因である。

 本当に個人的な純粋行為の場合、こうした問題のある依存症とは無縁である。それは純粋行為というもの自体が、それを行っている個人の意思、本質的意識に関わる行為であるからである。

 養老孟司の「虫取り。」自体には社会的な問題は発生しない。養老が支離滅裂な「嘘。」を言い出す原因は「他人からの評価。」に関わる「人間について。」の話であり。これもある種の依存症である。

 カルト宗教の教祖が支離滅裂な命令を下すようになるのも、養老の「嘘。」と一緒で周囲の人間からの要請によって、依存症的な無意識行動として支離滅裂なことを言い出すようになるのである。

 従って、カルト宗教というのは、教祖だけが作り出したものではなく。教祖に対して盲目的な「信頼感。」を抱き、命令を求める多数の信者達によって、教祖自体までも洗脳されてしまっている状態であると言える。

 冷静に考えれば、教祖の言っていることが支離滅裂であることは明白である。にも関わらず多くの信者が信じ込んで疑わなくなる原因は、信者の多数性にある。

 多数の信者が信じている状態において、信じることが安心を促し、信じない状態への不安感によって強迫観念的に信じ込む状態に陥っているのである。

 一般的には教祖がカルト宗教の元凶であると思われがちだが、実際には教祖自身も多数の信者達によって勘違い、洗脳されているのであり。むしろ多数の盲目性によってカルト状態というものは作り出されるのである。

 ビンラディン容疑者を殺害することで熱狂するアメリカ人達も、アメリカ政府の行ったことに対して何らの疑問も持たずに盲信することで熱狂できるのであり。これはアメリカ人以外には見られない極めて特異な行動であることを認識すべきである。

 熱狂するアメリカ人の、おそらく全員は被害者や遺族ではない。むしろ他人事であるからこそお祭り騒ぎができるのであり、「アメリカ人。」という括りで同じ観念を共有、共鳴することによる気分的興奮に酔っ払っているだけである。

 「買い物依存症と何の関係があるのか。」と思ったかも知れないが、普段から自己自身と社会という多数他人との関係性を区別していないから、カルト的熱狂状態に陥るのである。

 カルトに限らず、ペテンに引っ掛からないようにするためには、自己自身の強い意思が不可欠であり、自己自身で理論的に考え、自制し、自律的に行動判断する本質的意識が不可欠である。


 「心。」というものを考えるとき、一般的には合理性といったものとは異なるものであると思いがちである。一般的に言う「合理性。」追求とは、実際には経済性や金に関わる欲望感情に由来する無意識的本能によって選択される行動選択のことを指しているのであり。これは本質的には理性ではない。理論的に理性、合理性ではないのである。そのことを多くの人は理論的に理解できていない。若しくは気分的に「したくない。」。

 単なる欲望ではなく、広い視野、広い意識、認識に立って考えれば。どうのような行動判断こそが最も精神的平穏を得られるか。それを選択するのは理性なのである。

 ややこしいのは、「精神的平穏。」それ自体もまた、情動であり感情であるということである。様々な感情の中から最も重要な感情を抽出する段階において理性が必要となるのであり、単なる感情の大きさで反射的に選択されるような行動選択を大脳辺縁系は促すようにできている。「ヒトとはそういうもの。」なのである。「ヒト。」とはね。それはチンパンジーやイヌでも同じである。

 自己個人の単なる生物的な生存よりも、公益倫理的行動判断を自律的に選択する「心。」というものは。そこに本質的自発性がなければ選択されることはない。本能的な自己保存が優先してしまうからである。

 単なる欲望の「大きさ。」だけが行動選択基準となっている状態とは、そこに本質的自発的自律判断が存在しないからである。

 生物種としての「ヒト。」が、公益倫理判断を自律的に選択する「人間。」であるためには、単なる本能感情の大きさだけが行動選択基準とならない本質的自律が不可欠である。それは単なる生物学上での進化とは直接的には無関係なものであり、個人の本質的意識に関わるものであるから、生物種としての「自己。」であるところの既に存在してしまっているだけの自己、既存在としてのあらゆる無意識行動を客観視する本質的意識が「人間。」としての素養なのである。

 ややこしいかな。ややこしいな。

 たとえ自己自身の生存に関わるような状況であっても、公益倫理的判断を行うような「心。」というものは、単なる感情の大きさだけで選択されるようなものではない。

 自己個人の地位や利権を失う状況であっても、社会の平穏を優先する行動選択を行うというのは、理性以外の何物でもない。それは論理的には合理性なのである。「心。」というのは本能それ自体ではなく、理性によって抽出された本質的自己によって選択される行動である。

 多数世間や権威の促す、気分的に安心な行動というものは理性ではなく本能である。たとえそれが後天的に刷り込まれた行動であってもである。無意識下に刷り込まれた行動、情動行動に抗い、目先の感情とは無関係の行動選択としての公益倫理的行動選択を行うのは。既存在としての自己を客観視し本質的合理性追求としての自己の精神的平穏を優先する選択を自律的に行うから「心。」となるのである。

 環境に流されていて「心。」もすったくれもありはしない。どんなに感情的に嫌な思いをしたとしても、多数他人からの排除を受けようとも、公益倫理的判断を行うのは。そこに理性があるからに他ならない。


 たとえ学力学歴が低くても、公益倫理的な自律判断ができれば、それが本質的な人間としての「知能。」であり。それこそが本質的知性というものなのである。逆に高学歴で社会的成功をしようとも、天下りなどの合法的詐欺に固執している状態というのはチンパンジーの瞬間記憶能力と構造的には全く同じ機械手続き的条件反射行動に他ならない。それはある種の能力ではあっても本質的には知能とは言えないのである。

 金を稼ぐことにだけ特化された、特定能力のことを本質的知能とは言うことができない。どんなに大量の金を所有しても、むしろ所有した金に麻痺して精神的には満足できず、取り憑かれている状態であれば、これはバカとしか言いようがない。

 チンパンジーの瞬間記憶能力と同様、「エサ。」にしか意識が働いておらず。その過程においてどんなに複雑論理的行動選択を行ったとしても、行動原理が本能的な欲望である以上、それは知能ではなく、特定能力でしかないのである。


 学生時代に強迫観念的に学力を要求された人物は、大人になってからも多数他人からの評価報酬に対する機械手続き的条件反射行動として、社会的成功とか搾取にばかり固執してしまうようになる。アインシュタインが懸念した「ゲウ゛ァルト。」による強迫観念を用いた教育というものは、後に重大な社会的損失を生み出すことになるのである。

 原発利権の暴走がなぜ起きたのか、それは研究者の多くが本質的な自発的選択をしていなかった純粋性の欠如が原因である。原子炉自体が暴走する前に、利権の方が暴走していたことを認識すべきである。放射性廃棄物の処理方法も決まっていない状態のまま、なし崩し的に暴走をした原因は、そこに報酬が発生したからである。「エサ。」に対する機械手続き的条件反射として暴走したのである。

 いわば報酬依存症ともいうべき病気であるから、社会的な負荷、社会的な損失になど意識は働かなくても当然である。買い物依存症などと同様に、とにかく大脳辺縁系が快楽を得られる行動しか選択できなくなっているのであり、それが安全に対する意識狭窄を促してしまうのである。

 将来の危険性と引き換えに、目先の経済損失を回避するというのは、これは支離滅裂で全く合理性がない。経済優先の考えというものは本質的合理性を欠いた、目先の欲望によって促される行動選択であり。これは合理性追求でもなんでもないのである。

 こうした理論的な思考をしてこなかったから、感情に流され非合理的な選択を許してしまうことになるのである。

 目先の現実に迎合することが合理性ではない。理想に基づき選択される行動こそが本当の合理性というものである。



 一般的に社交的であること、コミュニケーション能力が重要視されるが。これは理論的に考えることのできない人間が、社会的成功を基準とした価値観によって導き出される屁理屈である。

 詐欺師ペテン師は社交的でコミュニケーション能力が高く、社会的にも成功しやすい。それが「EQ」の基準である。それは個人的な利益にはなるが、社会的には損失にしかならないことは言うまでもかなろう。私の説明が下手くそで、社交的でないからといって意識から外そうとしている人間ほど、コミュニケーション能力云々を主張するのである。

 元々興味のない人が理解できないのは仕方がない。しかし、学者やマスコミ関係者が理解できないとか、したくないなどというのは許されるものではない。「やる気がないなら、辞めちまえ。」と言いたい。やる気もないのに漫然と「他に仕事が無かった。」程度の理由で研究職や報道に従事すべきではないのである。だから「金にならない記事は書かない。」ことになってしまうのである。これではマスコミとしての社会的役割を果たすことができないのは当然である。

 アスペクト盲のようなものが、カルト宗教だけの特殊なものであると思うのは間違いである。アイヒマン実験の結果からも、多くのヒトは権威への盲目性は予め存在することが立証されているのであり。その事実から全てのヒトは権威への盲目性を持っているものであると認識すべきなのである。

 多数の人間と気分的な安心を追求しておいて「心が平穏。」などと言っているから危険性というのは増すのである。それは実際には「気分的に平穏。」なだけであって、盲目性によって合理的思考追求をしないから気分的に楽なだけであり、危険性ごと意識的から外して「心。」もすったくれもあったものではない。だから人類はいつまでたってもバカなのである。

 本当に「人間について。」興味があるならば、徹底的に追求すべきである。それが気分的に嫌な奴が関わっているから進歩がないのである。

 ニーチェなんぞ読んで悦に入っているようなバカが哲学者として認知されていること自体が根本的に間違いである。ゾロアスター教が理論ではないことを指摘できないようなバカが一体何を生徒に教えているつもりなのだろうか。下らな過ぎて話にならない。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

データ放送。

2011年05月08日 11時17分25秒 | 日記
 地デジテレビのデータ放送の表示が見ずらい。

 東芝アンドロイドの場合、根っこがスマホなので拡大表示が簡単にできて良いのだが、テレビの場合は拡大表示ができないので、テレビに近付かないと文字が読めない。

 あと、リモコン操作をしたときの反応が遅いので、リモコンの信号が届いているのかどうかが判りづらい。一応「データ取得中」とかの表示が出るんだけど、画面の隅に小さくしか表示されないので認識しずらい。「ぴろっ」って音も出るんだけど、テレビ放送の音声に紛れて判りづらい。

 以前から思っていたんだけど、大画面のモニターとは別にタッチパネル式の小さなモニターが手元にあると便利。パナソニックが研究しているみたいだけど、まだ実用化には至ってないみたい。

 赤外線リモコン機能がついた小さなタッチパネルモニターが手元にあれば、結構いろいろなことが出来そう。充電式でワンセグとか見れれば停電とかでも情報が得られて緊急時にも対応できる。

 年寄りには小さな文字が見ずらいので、マルチタッチ機能で拡大できると便利。

 スマホで良いじゃんとか思うかもしれないけど、スマホは機能が多すぎて年寄りには使い切れない。月々の通信費もバカにならないし。

 正直、スマホのアプリとかって下らないものしか見たことない。ヒマゲークソゲーやりたいならゲーム機の方がよっぽど気が利いている。

 東芝アンドロイド端末で、新型が発売されるらしいんだけど、6万円ってちょっと高いな。基本的にスマホなんだろうし、家庭内で使うにはオーバースペックかな。今この記事書いているのは東芝アンドロイド端末AZ/05Mなんだけど、実売で2万円台前半で買える。だから本当はタブレットPCとかって安く作れるはず。

 年寄りが使うにはネット接続機能とか要らないから、学習リモコン機能付き小型ワンセグテレビとかあると便利そう。OSのバージョンアップに関してはネットじゃなくても町の電気屋さんにやってもらえばいいんだから、通信機能とかってなくても良い。あらゆる赤外線リモコン機器を一つのタブレット端末で制御できると便利。

 ネットサーフィンっていうのは、結構慣れが必要で、あまり年寄りには向いていないんじゃないかな。40代のおいらでもWebには慣れることが難しい。日常的に必要な情報とかって地デジデータ放送で充分って気がする。一応無料だし。

 だけど、地デジデータ放送をテレビモニターに表示しても見づらいのよね。その都度モニターに近付くなんて、とてもハイテク機器とは思えない。

 そういえば番組表とかに「教育2」とか「MX2」とか「放送大学2」とかが表示されない。

 ハイテクもいいんだけど、なんかマヌケな部分が結構ある。どんなに高度な技術であっても、その技術を「どう使うか。」は技術者の考えることじゃなくて、取締役とかが考えることなんだけどね。だからアップルの機械は売れるんだ。iPadなんてさしてハイテクでもないんだけど、結局使いやすいから売れるんだよね。

 B5タブレットPCで、家庭内専用端末とかあれば実用的。外に持ち歩くとどうしても落下破損の危険性が増えるから、持ち歩きたくはない。それなら無線通信機能なんか要らない。

 ワンセグ放送が見れて、データ放送が閲覧できて、赤外線通信機能が充実していて、デジカメとかビデオ画像が再生できて、バッテリーで10時間くらい動作できるようなアンドロイド端末があるといいな。アンドロイドOSじゃなくてもいいような気もするけど、汎用性の高いOSじゃないと後が面倒。

 ハイテク機器の宿命みたいなものなんだけど、機能が多すぎると使い難くなっちゃう。もっと現状に則した実用的な端末をつくるべきなんじゃないかな。

 タブレットPCとかって、どうしても若い人向けの仕様になりがちだけど、年寄り向け端末の需要も結構ありそう。だからできるだけシンプルなインターフェースの方が良い。

 今年買った東芝のテレビのリモコンはシンプルで使いやすいんだけど、去年買ったパナソニックのテレビのリモコンは複雑奇っ怪で、80になる母親は操作を間違えると元に戻らなくなって、しょっちゅう嘆いている。使わない機能は無効化できるといいんだけど、そういう機能はないのよね。ハイテク機器っていうのは結構「できないこと。」が少なくない。

 もう少し「考え。」て作って欲しいな。電機メーカーの取締役さん達には。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

番組表。

2011年05月07日 12時54分35秒 | 意識論関連
 NHK教育とかMXとか、あと放送大学とかにも新聞のラテ欄に載ってない番組が放送されている。

 で、ネット上なら番組表があるのかなと思って探したんだけど、MX2は見つかったんだけど、教育2が見つからない。NHKの番組表には「教育3」っていうのが載っているんだけど、これは内容が「教育1」と全く同じものが掲載されていて、意味がわからない。試しに3チャンネルつけたけどやってない。

 時折デジタルの3チャンネルが放送されていることはあるんだけど、リアルタイムでしかわからず、放送予定が見つからない。地デジテレビの番組表にも表示されない。

 なんなんだろうね。

 前から思っていたんだけど、HNKに限らずホームページって情報量が多すぎて必要な情報がどこにあるのか探すの大変。トップページはもっと整理してわかりやすくしてほしい。

 結局、ネット上のホームページって構造とか動作がそれぞれ違うものだから、「学習。」することが出来なくて不便。まだWebっていうのは未完成な代物なんだろうね。いつになったら完成するんだろう。面倒臭いわー。

 JAVAスクリプトだとかフラッシュプレイヤーとか、先端機能もいいけれど、基本的なインターフェイスをきちんと策定してからやって欲しい。これじゃ暴走だよ。

 NHKなんて根っこが「お役所。」だから、やってることが機械的でややこしい。個別の番組ページによっては扱い易いページもあるんだけど、ともかくトップページが複雑奇っ怪で扱い難い。どこにあるんだ「教育2」の番組表。あーイライラする。

 お役所仕事っていうのは、自発的には問題解決を一切せず、要望に対しての機械手続き的な条件反射でしか改善できない。勝手に何かを変えると責任問題になるもんだから要望しないと自発的には一切改善するつもりがない。つまり、上司なりユーザーといった「上。」からの指示がないと何もしないってこと。本人達には問題意識自体存在せず、ただ条件反射的に服従するだけの無意識な人達だからこんなことになる。

 NHKに就職できるくらいだからきっと高学歴に違いないが、学歴だけで「意思。」ってものが一切ないもんだから、何が問題なのかなんて一切考えることはないただのバカなのである。

 典型的なのが「天下り。」で、彼らには意思も目的も存在しないので、ただ本能のおもむくまま、感情的に天下りという合法詐欺行為に異常なまでに執着する。天下りがどんなに巧妙に行えても、そうした特定能力は本質的には知能ではない。天下りという合法詐欺行為を働くことによって社会的な負担とか、信頼性の欠如を招くことに意識が働かないという盲目性、意識狭窄性というのがバカの根本原因なのである。

 世の中が中々良くならない、改善しない原因というのは、本質的知能が働かないまま、特定能力だけを要求するという、多くのヒト達の無意識性が原因。

 危険学とか失敗学といった工学理論的な改善は、刑法などの犯罪再発防止策のみならず、あらゆる「ヒト。」の行動に応用すべきなのである。

 畑村洋太郎はダメだな。あいつは機械装置類にしか興味がないからね。根っからの機械バカなんだろうね。いや、それはそれでいいんだ。問題なのは一般大衆の多くが権威者にお任せしておけば全てはどうにかしてくれるものだっていう観念にある。

 「誰かが、どうにかしてくれる。」っていう盲目的「信頼性。」に気分的に安心すること。

 安全性に関わることというのは、全ての人にとって必要なものなんだから、本当は全ての人が発言するべき。だけど実際には事故被害者遺族とかしか興味を持たない。

 事故とか犯罪の被害者や遺族しか安全性に興味を持たないというのは、安全性というものに対する意識が働いていないわけで、これは一種のアスペクト盲でもある。

 自分が実際に犯罪とか事故に遭わないと興味を持たないというのは、社会人としての素養に欠けるとも言える。いうなれば「その場限り。」ってことだからね。

 何も年がら年中考えろとは言わないよ、犯罪被害者だって生活もあるし、楽しみだってあるんだからね。でも、気分が悪い話だからって全く考えないというのも問題がある。民主主義というものは民衆市民に問題意識がなければ社会を良くすることなんかできないってことだからね。



 未だに生物学者達は「結果。」こそが全てだと言い張っている。第二次世界大戦によって大量の死者を出した結果であっても、「それでも絶滅しないで、生物種として遺っているから良い。」などとバカげた観念を振り回している。

 こんな話をしている限り、事故も犯罪も減らなくてよいという話になってしまい、全く問題解決策には到達できない。

 単に生物種として遺ればよいというのならば、誰が死んでも構わないってことだからね。

 科学的見地の進歩を阻害しているのは、生物学のこうした観念が原因。現在の生物学の観念が蔓延している限り、本当の安全性確立というのはできず。無為無策な結果論しか語られないってこと。こうしたバカ生物学者達が税金で雇われ、無駄な研究費用が使われている事実を放置して良い訳がない。

 問題意識が欠けているのかね。「多数。」のヒトに。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正義。

2011年05月06日 17時07分24秒 | 意識論関連
 ビンラディン殺害でうかれている人達って、ありていにいって被害者遺族ではないよね。はたして戦争を正当化していた人の何割が被害者遺族だったんだろうね。本当は被害者遺族の意向とか無関係で、大多数の他人が勝手にナショナリズム振り回して戦争していたのではないだろうか。

 そもそも、相手がテロリストだろうとなんだろうと、ヒトを殺しておいて喜んでいるというのは人間としてどうなんだ。実際日本の遺族の方の意見では、殺害せずにきちんと裁判を行って、真実を知りたかったって言ってた。

 水戸黄門とか暴れん坊将軍、あるいはアイアンマンみたいに「悪者は殺せば満足。」という短絡的な気分的満足に溺れている状態というのは、結局テロリスト達と思考形式が同じである。こうした短絡性こそが戦争とかテロを正当化する原因。

 テロであろうと戦争であろうと、その手法は根本的に間違いである。「目には目を。」という条件反射的な行動の根源は感情論であり、これは何ら理論的な解決策、再発防止策をみちびかず、単に気分的に満足するだけの行動である。

 オバマの演説では、「テロ首謀者を殺害したから、正義の裁きが下された。」なんて言っているけど、裁判にもかけずに「裁き。」などというのはとんでもない理論的飛躍である。ノーベル賞というのは戦争を正当化しても、株価暴落を引き起こしても、知能であると「見なす。」らしい。

 テロリストの論理では、「パレスチナが迫害されているから。」と論じているけど、だからといってニューヨークを攻撃するのは根本的に間違いである。一方、アメリカの論理では、「テロリストさえ殺せば正義だ。」なんていうのも論理の飛躍。

 「俺が間違った行動を採るのは、相手が悪いからだ。」という、いわば環境依存性が自律的判断の欠落と同義なのである。


 シリアのデモで警官隊が実弾発砲して30人も死んだらしい。デモといっても、暴動みたいなデモだから、現場の判断として一概に市民弾圧とも言い難い。デモも良いけど暴動に発展するというのは市民の方に自制心というものが欠落している。単にお祭り騒ぎがしたいだけにしか見えない。おそらく少数の過激な人達の行動によって暴動に発展するのであろう、その時により多くの冷静な人達が自制を促していれば暴動は止められるはずである。そういう人達があまりに少な過ぎる。

 一面的な正義を振り回して、大勢で騒げば気分的、本能的には満足なんだろうけど。そうした「習性」「傾向性」というものを客観的に認識して、自制しなければ「人間。」ではない。

 デモが暴動に発展するのは集団心理という情動行動が原因である。どうも白人というのは大脳辺縁系の活動が活発なようで、簡単に暴動に発展する。

 東日本大震災で大規模暴動が発生しなかったことを、海外は「クールジャパン。」と賞賛しているが、日本人は遺伝的に感情的にならない性質、習性があるからなのではないか。

 それを生物学的に「進化している。」などと評価するのも間違いである。これは単なる結果論であって、日本人が戦争をしないことを証明していない。

 遺伝的にどのように「変化。」したかが問題なのではない。遺伝的要因に関わらず、また、環境に関わらず、今現在において行動選択する本質的意識こそが重要なのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若洲に行ってきました。

2011年05月05日 23時36分17秒 | 日記
 最近運動不足だったので、荒川河川敷を自転車で東京湾まで走ってみた。

 荒川河川敷の道は自動車がこないので、自転車で走るにはとても楽チンなのですが、河川敷の道路を下っても東京湾までは出られない構造になっているので注意が必要です。

 川の上流側がら見て左側、中川との中洲部分は清砂大橋から少し下流で無くなってしまうので、東京湾まで出られません。ちなみにこの中洲部分から清砂大橋には出られないので注意。

 逆に上流側から見て右側も、東京湾までは出られない構造になっています。

 東京湾まで出る方法としては、一つは江戸川区の葛西臨海公園に出るルートがあり、こちらは清砂大橋から一直線の自転車が通れる歩道が存在するので比較的簡単です。

 江東区側から東京湾まで出るためには、一度明治通りまで出てから新木場を通り、若洲海浜公園まで出なくてはならず。これは結構ややこしい道になります。予め地図で道程を調べてから行かないと結構迷います。

 まあ、証拠というか、東京湾ロックゲートの写真はもっと綺麗な写真がいっぱいあるのでググって見てください。薄ら暗い写真ですが、昼間の2時に撮影しました。

 で、若洲に渡る前の新木場には東京ヘリポートっていうのがあって、ヘリコプターがバタバタ飛び回っているのですが。海沿いというか川沿いというか、荒川河口橋の下をくぐる歩道の延長部分にある遊歩道から行くとヘリコプターが見えて何となくうれしいです。

この遊歩道には東京メトロの車両基地の上を渡る歩道橋ともつながっているので、鉄の人なら結構有名なのかな。

 東京湾ロックゲートの近くには巨大な発電用と思われる風車があって、これもまた結構面白いです。一応写真は撮ったんですが、巨大感は現地に行かないと伝わらないと思うので載せるのやめました。

 新木場の歩道では、所々下水のマンホールが飛び出し気味になっていて、これも震災の時の液状化現象によるもののようです。これも写真には撮ったんですが、立体感が伝わらない感じなので載せません。つまずいたり、ハンドルをとられたりしないように注意して下さい。

 今日は5月にしては風が冷たくて、指が冷えてしまいました。明日はもう少し寒くなるそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ログイン不良。

2011年05月01日 15時04分02秒 | 日記
 随分前からソネットブログのログイン画面の証明書が不一致したまま戻らない。もう一ヶ月になるのだが、リダイレクトが増えたらしくて証明書不良が連発するようになった。
 ソネットからは、「ログイン可能か。」と聞かれたのだが。証明書が不一致のままログインして、個人情報とかが流出したらこっちのせいにされるだけだから、そんなことはできるわけがない。

 もしかすると、アハ体験ゲームの売上に影響するのでCSLとかの妨害工作なのかも知れない。

 それとも単に東芝アンドロイドのブラウザに対応したくないのか。でも、ブラウザを認識して表示しているなら、対応自体はしていることになる。なのに証明書が不良。なんじゃこりゃ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする