個体において本能的に組み込まれた行動というものが、結果的に種の存続などにつながるとしても。個体自体には種の存続などに対する「意識。」や「思考。」が存在するという証明は全くない。
むしろ、そうした証明が存在しない証明であればいくらでも枚挙可能である。
ヒトであっても連続レイプ犯の行動というものに「種の存続。」などという高尚な意識があろうはずもなく。組み込まれた本能のままにレイプを繰り返すだけのことである。場合によってはレイプ後に証拠隠滅のために殺害してしまうケースも少なくはない。
相手を殺害してしまって「種の存続。」もすったくれもない。例外を許すようなあやふやな話で科学的普遍性に言及することはできないのである。
このように、ヒトであっても本能的行動というのは機械条件反射的な、その場限りの行動しか促すことはなく。本能自体に「目的。」意識など存在することはない。
個体が本能のままに行動した「結果。」として、偶発的に「生存。」だの「種の保存。」だのといった、事後正当化のこじつけをいくら枚挙しても。それらは全て科学哲学者カール:ライムンド:ポパーが論ずる「白いスワン。」に過ぎない。
どんなにたくさんの白いスワンを集めてきても、この世の全てのスワンが白いことの論理的証明にはならないのである。
生物というのは、現在観測可能な生物においては、過去数十億年に渡る進化(変化)過程を経た「結果。」としての現在の生物しか観測観察することしか原理的に不可能であり。観測されていない過程において結果的に獲得したあらゆる機能や習性が種にとって優位に働くことをどんなにたくさん抽出サンプリングしても、個体自身が意図的に種にとって優位であろうと行動「選択。」することの証明にはならない。
個体が「種にとって優位な行動。」を意識的に選択しないのであれば。一体「誰。」が種にとっての優位性を担保しているというのであろうか。
ウサギが交尾相手を選択する際に暴力的に他の個体を捩じ伏せる行動を、従来の生物学は「より優秀な遺伝要因の選別。」などと言い出す。しかし、優秀な遺伝要因などという概念が本能的行動を左右する根拠など全く存在しない。むしろ個体においては本能とは、その本能のおもむくままに目先の環境に対して反射的に行動を促しているだけであって、個体にとって遺伝要因もすったくれもなく無関係に行動するものである。一体「誰。」が遺伝要因について「考えて。」いるというのであろうか。「種の存続。」について「誰。」が担保していると言うのであろうか。
シツケを間違えた小型犬が、飼い主の手を噛む行動に対し、従来の生物学は一貫した合理的結論を導くことができない。
「より優秀な遺伝子。」だと言ってみたり。或は「シンボルを介して無駄な争いを避ける。」だと言ってみたりと、その場限りで一貫した結論など全く存在しないにも関わらず。その場限りにご都合主義丸出しの、合理的根拠のない結論で気分的に満足しているだけなのである。
バカな文系マスコミを丸め込むにはそれで充分らしい。
個体における本能的行動習性というものは、あくまで個体が機械条件反射的に本能を満たすための行動を促すだけであり。生物学者達が論ずるような「遺伝要因。」だの「種の保存。」だのといった、個体の行動原理とは明らかに乖離した超越的「目的。」の存在に基づいて行動が選択されているかのように、行き当たり場当たりに「取り繕う。」ばかりである。
こうした現状である限り、現在の生物学は「科学。」ではなく。ありもしない超自然的な「目的。」意識の存在を立証肯定するための宗教にしかならない。
むしろ、そうした証明が存在しない証明であればいくらでも枚挙可能である。
ヒトであっても連続レイプ犯の行動というものに「種の存続。」などという高尚な意識があろうはずもなく。組み込まれた本能のままにレイプを繰り返すだけのことである。場合によってはレイプ後に証拠隠滅のために殺害してしまうケースも少なくはない。
相手を殺害してしまって「種の存続。」もすったくれもない。例外を許すようなあやふやな話で科学的普遍性に言及することはできないのである。
このように、ヒトであっても本能的行動というのは機械条件反射的な、その場限りの行動しか促すことはなく。本能自体に「目的。」意識など存在することはない。
個体が本能のままに行動した「結果。」として、偶発的に「生存。」だの「種の保存。」だのといった、事後正当化のこじつけをいくら枚挙しても。それらは全て科学哲学者カール:ライムンド:ポパーが論ずる「白いスワン。」に過ぎない。
どんなにたくさんの白いスワンを集めてきても、この世の全てのスワンが白いことの論理的証明にはならないのである。
生物というのは、現在観測可能な生物においては、過去数十億年に渡る進化(変化)過程を経た「結果。」としての現在の生物しか観測観察することしか原理的に不可能であり。観測されていない過程において結果的に獲得したあらゆる機能や習性が種にとって優位に働くことをどんなにたくさん抽出サンプリングしても、個体自身が意図的に種にとって優位であろうと行動「選択。」することの証明にはならない。
個体が「種にとって優位な行動。」を意識的に選択しないのであれば。一体「誰。」が種にとっての優位性を担保しているというのであろうか。
ウサギが交尾相手を選択する際に暴力的に他の個体を捩じ伏せる行動を、従来の生物学は「より優秀な遺伝要因の選別。」などと言い出す。しかし、優秀な遺伝要因などという概念が本能的行動を左右する根拠など全く存在しない。むしろ個体においては本能とは、その本能のおもむくままに目先の環境に対して反射的に行動を促しているだけであって、個体にとって遺伝要因もすったくれもなく無関係に行動するものである。一体「誰。」が遺伝要因について「考えて。」いるというのであろうか。「種の存続。」について「誰。」が担保していると言うのであろうか。
シツケを間違えた小型犬が、飼い主の手を噛む行動に対し、従来の生物学は一貫した合理的結論を導くことができない。
「より優秀な遺伝子。」だと言ってみたり。或は「シンボルを介して無駄な争いを避ける。」だと言ってみたりと、その場限りで一貫した結論など全く存在しないにも関わらず。その場限りにご都合主義丸出しの、合理的根拠のない結論で気分的に満足しているだけなのである。
バカな文系マスコミを丸め込むにはそれで充分らしい。
個体における本能的行動習性というものは、あくまで個体が機械条件反射的に本能を満たすための行動を促すだけであり。生物学者達が論ずるような「遺伝要因。」だの「種の保存。」だのといった、個体の行動原理とは明らかに乖離した超越的「目的。」の存在に基づいて行動が選択されているかのように、行き当たり場当たりに「取り繕う。」ばかりである。
こうした現状である限り、現在の生物学は「科学。」ではなく。ありもしない超自然的な「目的。」意識の存在を立証肯定するための宗教にしかならない。