書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

個体。

2011年12月22日 01時20分59秒 | 意識論関連
 個体において本能的に組み込まれた行動というものが、結果的に種の存続などにつながるとしても。個体自体には種の存続などに対する「意識。」や「思考。」が存在するという証明は全くない。

 むしろ、そうした証明が存在しない証明であればいくらでも枚挙可能である。

 ヒトであっても連続レイプ犯の行動というものに「種の存続。」などという高尚な意識があろうはずもなく。組み込まれた本能のままにレイプを繰り返すだけのことである。場合によってはレイプ後に証拠隠滅のために殺害してしまうケースも少なくはない。

 相手を殺害してしまって「種の存続。」もすったくれもない。例外を許すようなあやふやな話で科学的普遍性に言及することはできないのである。

 このように、ヒトであっても本能的行動というのは機械条件反射的な、その場限りの行動しか促すことはなく。本能自体に「目的。」意識など存在することはない。

 個体が本能のままに行動した「結果。」として、偶発的に「生存。」だの「種の保存。」だのといった、事後正当化のこじつけをいくら枚挙しても。それらは全て科学哲学者カール:ライムンド:ポパーが論ずる「白いスワン。」に過ぎない。

 どんなにたくさんの白いスワンを集めてきても、この世の全てのスワンが白いことの論理的証明にはならないのである。

 生物というのは、現在観測可能な生物においては、過去数十億年に渡る進化(変化)過程を経た「結果。」としての現在の生物しか観測観察することしか原理的に不可能であり。観測されていない過程において結果的に獲得したあらゆる機能や習性が種にとって優位に働くことをどんなにたくさん抽出サンプリングしても、個体自身が意図的に種にとって優位であろうと行動「選択。」することの証明にはならない。

 個体が「種にとって優位な行動。」を意識的に選択しないのであれば。一体「誰。」が種にとっての優位性を担保しているというのであろうか。

 ウサギが交尾相手を選択する際に暴力的に他の個体を捩じ伏せる行動を、従来の生物学は「より優秀な遺伝要因の選別。」などと言い出す。しかし、優秀な遺伝要因などという概念が本能的行動を左右する根拠など全く存在しない。むしろ個体においては本能とは、その本能のおもむくままに目先の環境に対して反射的に行動を促しているだけであって、個体にとって遺伝要因もすったくれもなく無関係に行動するものである。一体「誰。」が遺伝要因について「考えて。」いるというのであろうか。「種の存続。」について「誰。」が担保していると言うのであろうか。

 シツケを間違えた小型犬が、飼い主の手を噛む行動に対し、従来の生物学は一貫した合理的結論を導くことができない。

 「より優秀な遺伝子。」だと言ってみたり。或は「シンボルを介して無駄な争いを避ける。」だと言ってみたりと、その場限りで一貫した結論など全く存在しないにも関わらず。その場限りにご都合主義丸出しの、合理的根拠のない結論で気分的に満足しているだけなのである。

 バカな文系マスコミを丸め込むにはそれで充分らしい。

 個体における本能的行動習性というものは、あくまで個体が機械条件反射的に本能を満たすための行動を促すだけであり。生物学者達が論ずるような「遺伝要因。」だの「種の保存。」だのといった、個体の行動原理とは明らかに乖離した超越的「目的。」の存在に基づいて行動が選択されているかのように、行き当たり場当たりに「取り繕う。」ばかりである。

 こうした現状である限り、現在の生物学は「科学。」ではなく。ありもしない超自然的な「目的。」意識の存在を立証肯定するための宗教にしかならない。

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最近撮った写真。

2011年12月21日 16時41分38秒 | 写真

荒川の千住新橋のところにある足立区の施設から南千住駅方向を撮影。


荒川にある芝川の水門のところで、たくさんの人が西の空にカメラを向けていたので、何かあるのかとよくみたら。

富士山でした。

時期はずれなのでダイヤモンド富士には程遠いですが。
GoogleMap


朝霞水門の上流から下流に向かうところなんですが、このまま河川敷を直進すると行き止まりになっています。行き止まりであることの表示が全くないので、朝霞水門が見えたらこの坂を右に登らないと、その先には行けません。
GoogleMap


荒川河川敷を羽根倉橋まで行ってみたんですが、ここより上流には川沿いの道が見つかりませんでした。みんなどうやって上流に行ってるんだろう。


一度サイクリングロードが整備されたらしいんだけど、封鎖されてて、しかも表示にある迂回道も工事中で通れなかったです。わけわからない。埼玉県ってこういうところの手抜きが多い。
GoogleMap *航空写真に切り替えると、やっぱり表示看板を読もうとする自転車の姿が。


荒川河川敷は堤の全面改良工事が始まっていて、今は笹目橋と戸田橋の間が自転車通行不可(降りて押せって言われる。)なんですが。東京都が言うには全面的に工事するそうなので、これから工事区間が増えるかもです。


イタリア製の軽自動車だそうです。子供のおもちゃみたいでかわいい。これ電気自動車に改造したら売れそうだけどな。
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言い逃れ、取り繕い。

2011年12月21日 00時03分45秒 | 意識論関連
 メスを巡る同一種間における競争というものに対し、「より優秀な遺伝子を遺すための生存戦略。」などと形容するのは、こじつけ以外の何物でもない。

 個体において種そのものの存続になど「意識」が働くはずもなく、ただメスを巡って本能を満たすための利己的行動として暴力競争を行っている「結果。」として、たとえ「より強い遺伝子が選択。」されるとしても、そこには個体の「意識」的行動選択が働いているわけではなく。あくまで暴力的な略奪の結果が偶発的に生存に適した結果に過ぎない。

 もし「より優秀な遺伝子。」が選択されないような本能習性を持った種や個体が生存に適さなかったがゆえに、結果的に「より優秀な遺伝子。」が選択「される。」ような種に結果的に淘汰されただけであり、そこに個体の意識的行動選択が介在する必要性も、また個体にとっての利得もなく。合理的説明になっていない。

 個体にとって、種の存続のために自分より優秀な遺伝子を持った個体に繁殖を譲ることの論理的利得など存在しない。従ってあらゆる個体には「種の優位性。」だの「存続。」といった事柄に対しての「意識。」が存在するなどということは有り得ないのである。

 生殖行動に本能的暴力行動が伴うことに対して、そこに何らかの「目的。」など存在せず。ただ単に本能習性のままに機械的条件反射行動として暴力行動が伴うことに後から屁理屈をこじつけるというのは科学的分析とは言えない。

 もし、「結果。」として生存に適するような行動であろうと、なかろうと。それらは全て「結果。」であり。そこには個体の意識的行動選択というのは介在する証明は存在しないのである。

 偶発的に本能習性による行動の結果が生存に対して高度に機能するとしても、それらの本能習性というものは個体が意識的に選択した行動であることにはならない。

 ヒトが本能習性のままにアイヒマン実験のような環境下において他者に危害を加える「習性。」があることに対して現在の生物学は「説明。」することができず、「進化の袋小路。」「暴走。」などと言い逃れ、取り繕いしかすることはない。

 ことほど左様に、本能習性による機械的条件反射行動の「結果。」というものの一面的優位性をどんなにたくさん枚挙しても。本能習性こそが常に絶対的に優位な結果に結び付くことの論理的証明にはならず。ましてや人道的で公益倫理的な人間としての社会性を常に発揮させることの証明になど、全く成り得ない。

 ヒトが、たとえ「同意の上。」において繁殖したとしても。配偶者が暴力によって子孫の養育に悪影響を及ぼすことも少なくない。従来の生物学においては、こうした現象であっても環境依存的「理由。」や偶発的な「特異性。」であるという言い逃れしかしていないのである。

 つまり、現在の生物学というのは、ヒトという種の生物に自由意思選択というものは存在しては「困る。」のである。

 こうしたからの「取り繕い。」による体制維持体質、閉鎖性というのは。まさに従来の生物学における本能的社会形成習性によって無意識的に構築されているものであり。こうした無意識的な習性こそがヒトの脱構築可能性を失わせる原因でもある。

 単なる「生存。」だけが絶対的価値であるならば、シエラレオネという環境においては残虐性を競うゲリラこそが「生物として優秀。」という帰結しか導き出されない。

 それはもはや「人間。」においては全く役に立たない戯言寝言でしかない。


 ダーウィンが導き出した進化論というのは、ヒトの生物種としての優位性は存在しないことを証明しているが。「ヒトが人間である所以。」にまでは、そもそも言及すらしていない。

 進化論を用いて特定の生物種の優位性を「証明。」することは根本的に最初から意味を持たないのである。こんな下らない事も自律的には理解できない生物学者を国立大学で雇う価値など全くないのである。


end;
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習性。

2011年12月19日 23時52分04秒 | 意識論関連
 ヒトという種の生物には、イヌなどに見られる社会形成習性が本能的に受け継がれており。権威や体制といったものに迎合することによって気分的「安心。」を得ようとする傾向がある。

 「体制に迎合。」とは言っても、政治社会体制に批判をしないことを指すのではなく。むしろマスコミが垂れ流すような怠惰な政権批判に便乗して批判するような無思考な批判もまた、その時代の「体制に迎合。」していると言える。

 ヒトという種の生物は、本能的に組み込まれた気分的に「安心。」な行動を追求する性質というものがある。

 「コミュニケーション能力。」などと称して、大多数の一般的観念に迎合して多数のご機嫌取りを行うことこそが人間性であると錯覚するのである。

 実際には個人的に自分の気分を害されたことに対して、極めて主観的価値観に基づいて「お前にはコミュニケーション能力がない。」などと言い張る身勝手な者も少なくはない。「モンスター○○。」と形容される人々というのは、自分の価値観こそがあたかも社会の絶対的価値観であるかのごとく錯覚しているからこそ自信たっぷりに自分の観念を他人に押し付けるのである。

 何せ錯覚を現実であると認識しているので、地下鉄に毒ガスを撒いても自分が悪いとは思ってはおらず、平気で言い逃れや取り繕いを行うことができるのである。オウム真理教の教祖が「弟子の要求に応えただけだ。」と論ずるのも、「弟子の要求。」という環境依存的な要因に無意識的に反応しただけであることを示唆している。

 こうした「体制への迎合性。」というものは、ナチスの絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンが論じた「私は忠誠忠実な一吏官に過ぎない。」という話と同根である。どちらも本質的な自律判断選択というものの欠落が見られる。

 多数他人のご機嫌取りを行うことを「コミュニケーション能力。」というのであれば、アイヒマンやオウム真理教幹部の体制迎合性も「コミュニケーション能力。」ということになるのである。

 他人のご機嫌取りであればイヌやチンパンジーでも行うものである。ゆえにイヌやチンパンジーというのは封建的社会しか作り出すことはできないのである。

 イヌというのは縄張り意識(もちろん無意識である。)が非常に強いため。極めて閉鎖的である。組織の閉鎖性というものは組織内部でのご機嫌取りにばかり意識が働く性質によって、結果的に生物学的社会形成習性の閉鎖性が優先的に働くようになってしまうのである。また、体制内部に腐敗が浸透している場合、こうした閉鎖性は益々増強されることになる。

 たとえ学力成績が高くても、生物学的社会形成習性による本能的行動を自律的に抑制することができるわけではなく。むしろ「学力成績=頭が良い。」という無思考な観念を鵜呑みにして学力に執着している場合には、その無思考性ゆえに自律的判断ができない場合も多い。オウム真理教の幹部達が高い学力を有していながら、簡単にカルト宗教に心酔してしまったのも、生物学的社会形成習性という本能に無意識に流された「結果。」だからである。

 カルト宗教の教祖や幹部達は、自分達の問題点を認識することはできない。できないからこそ暴走したのであり、彼らは自分達がなぜ不毛な暴力を行ったのかを自律的に認識することは原理的にできない。

 彼らにとっては、その場限りの気分的「安心。」という本能を満たすことにしか意識は働いておらず。無意識な本能の「結果。」に対する事後正当化のための屁理屈以外何も意識は働かないのである。なぜならそれこそが彼らの大脳辺縁系の「安心。」を促すからである。

 こうした本能的社会形成習性に由来する「ヒトの暴走。」の危険性というものに対して、脳科学を含む生物学者達の誰も論じようとしないのは。彼らにとって本能的社会形成習性と本質的な人間性を伴った自律的社会性との区別を全くしてこなかったという無思考性、怠惰性の露顕を忌避するがゆえの隠蔽工作によるものである。

 マスコミもまた、脳トレ類における利益を正当化するため、何が何でも脳トレには意味があることにしておかないといられないのである。

 このような状況下において、カルト宗教や通り魔の暴走の原因というものは研究されることは一切ない。どんなに被害者達が議論しようとしても、生物学界においては議論したくない「嫌な話。」でしかないからだ。


 今更何か実験によって「立証。」する必要性は何もない。ヒトという種の生物というのは、その行動選択のほとんどが無意識的な本能や固定観念によって支配されている存在であることは明白である。

 社会心理学の実験のほとんどは、被験者に実験の意図を隠蔽して行われるものであり。これはつまり被験者の無意識的行動選択を抽出するための実験でしかないのである。こうした実験からは意識的「目的。」行動選択に言及することはなく、無意識的な気分による本能的行動「結果。」しか観測することはできない。

 本能的な行動「結果。」だけをどんなにたくさん抽出しても、そこから意識的な「目的」選択とは何かには一切言及できない。

 いわば不毛な実験に税金の無駄遣いを繰り返しているだけなのである。山岸俊男の異常に多い実験というのは、スタンレー:ミルグラムのアイヒマン実験以上の何の成果も導き出してはおらず。徒に胡乱な実験を繰り返すばかりで、その実験を行う論理的根拠とか予測といった基礎が全く存在しない不毛なものである。





試験脳

 ゲーム脳などと同様、試験における成績が高くても本質的知能であることの証明にはならない。

 たとえ脳科学や認知科学における「論理的思考能力。」試験で高い成績を得ることが可能であるとしても、試験以外の成績に直接的つながらない事柄に関して論理的思考ができることを証明してはいないのである。

 一級建築士の試験に合格したからといって本当に建築士としての能力を常に発揮するわけではないのと同様、論理的思考能力試験で高い成績を獲得しても、常に論理的思考能力を発揮できることの証明にはならない。

 どんなに難解な論理的思考ができるとしても、直接成績として評価されないような事柄に対しては、「意欲。」が働くとは限らないし、むしろ多くの場合成績という他人からの評価につられて無意識的に成績に執着してる場合。試験以外には全く興味を示すことはなく、結果として試験が終ればあっさり忘却無能化してしまうのである。

 つまり、試験という一種のゲームの成績に対して無意識的機械手続き的条件反射として「学習。」された特定能力というものは、試験以外には何の役にも立つことはない。

 そもそも脳科学、認知科学における「論理的思考能力試験。」という基準自体、「試験。」という特定環境下においての能力以外を全く想定していないものであり。どんなに試験で高い成績を得ることが可能であるとしても、あらゆる事柄において常に論理的思考能力を発揮することの証明でも何でもないのである。

 巷で流行している「検定ブーム。」というものも、要するに検定という特定環境における「合否。」という成績評価欲しさの無意識的順位欲を満足させているだけの極めて個人的自己満足に過ぎず。試験脳の一種であり、いうなれば「試験で脳がバカになっている。」だけのことである。

 教育機関というのは、構造的に試験によって成績順位で生徒を選定する以外の選別方法は存在しないであろう。しかし、問題なのは「生徒の成績=教育者の成績。」という短絡的基準だけで、生徒の本能的順位欲を利用した過度な競争をけしかける学習手法というものは、生徒の意識を狭窄化させるだけであり。生徒の自発的で純粋な疑問への追求意欲を失わせ、実社会においては学校のような「成績。」が存在しないために、成績の代わりに「報酬。」に対する機械反射的な欲望しか働かなくなってしまうことになるのである。

 「天下り。」のような合法的詐欺が横行するのは、彼らの脳が他人からの評価報酬以外に全く意識が働かないように意識狭窄化しているために。限りなく他者から与えられる「エサ。」にしか意識が働かなくなっているためである。従って彼らの意識の狭窄性自体が変わらない限り、どんなに制度改革を行っても「エサ。」にしか興味がない以上、法的逃げ道を探すことには必死になっても、天下り自体を撲滅させることには全く興味「意識。」が働くことはない。

 いわば「天下り脳。」とでも言える状態に陥っているのである。それがどんなに論理的に複雑で巧妙な技法を用いていようとも、その動機となっているのは本能的な利己的欲求だけであり。何ら「合理性を追求。」などしていないのである。





洗脳

 洗脳というと、多くの人は特定の誰かが意図的「目的。」のために他人の行動を制御するものであると思うであろう。だからこそ地下鉄サリン事件の被害者達はオウムの教祖に真相を求めるのである。

 残念ながら、実際の洗脳状態のほとんどは「誰にも目的がない。」という無意識状態によって、本能的に組み込まれた社会形成習性に従って本能的攻撃性を純粋に発露した「結果。」に過ぎない。

 歴史書をひもとけば暴力を用いた覇権争いの話だけが歴史を作ったかのように論じられている。「勝てば官軍。」という「結果。」だけしか文系の歴史家は論じたくないのである。特定の誰かを英雄として祭り上げておけば気分的に満足するのは何故か、そのヒトという種の本能の根源が生物学的社会形成習性という無意識性に由来するということには、彼らは触れたくないのである。

 「過去に何々が起こらければ、歴史は変わっていたかも知れない。」などという「たられば。」論というのは、決して歴史書に掲載されているような特定の事柄に限ったことではなく。あらゆる物事に言えるものなのである。

 カオス理論における「バタフライ効果。」のように、誰にも知られることのない小さな出来事が、結果的に大きな事象の根本原因となっている可能性も充分に有り得る。

 単なる「結果。」だけを論じているのであれば、これからどうすべきであるかといった「目的。」には言及されることはない。何が起きても全ては「結果。」だけが全てであるからだ。

 戦国武将などというのも、要するに軍事政権の覇権争いの話に過ぎず。全ては「結果。」以外の何も論じてはいない。

 武士道精神などというものも、要は暴力性を用いた権力を事後正当化するための「負い目。」から論じられているだけのものであり。根本的には搾取者の文脈でしかない。そもそも武士道というのは主君に対する忠誠忠実性が根底にあり、それを「美しい。」などという主観的観念によって彩ることによって正当化しているに過ぎないのである。

 これらのことに一切言及せずに、特定のカルト宗教団体だけにカルト化の原因を求めても無駄である。ヒトである以上同じ生物学上における本能的社会形成習性に言及しなければ、原因の究明は原理的に不可能なのである。

 カルト化というもの、洗脳状態というものは日常的に存在しうるものであり。ゆえに振り込め詐欺が横行することが可能なのである。被害者でありさえすれば反社会勢力への資金提供が正当化されるわけではないことを認識すべきである。

 バカであること、愚かであることは社会的負荷であり、「罪。」なのである。それは法的な罪ではないかも知れないが、社会的負荷としての罪であることからは逃れられるものではない。

 ところがヒトという種の生物というのは、論理的に何が罪であるかを認識することはなく。むしろ観念的、強迫観念的に罪の意識にさいなまされる傾向というのがある。サバイバーズギルドなどの観念的な罪の意識というものは、あくまで気分的に罪悪感を「感じ。」るだけであって、論理的に個人の責任の範囲とは無関係に感覚的に「感じ。」るという錯覚に過ぎない。ヒトは基本的に生物であるため、実感を伴った感覚的「感じ。」こそが客観的事実であるかのように錯覚しがちである。

 その逆もあり、感覚的に実感を伴わなず。また法手続き的にも触れていない社会的負荷には罪の意識が働くことはないのである。

 人文諸科学の分野において、歴史上の「英雄。」に酔ったり。或は心理的な「心の救い。」などと称して論理整合性の欠落した「哲学書。」に評価を与えたりしているカルト性に言及しないのは。カルトとは何かを追求する「意欲。」「意識。」の欠落という他ない。

 どんなにたくさんの書物を「知って。」いても、それは実質的に社会の問題に生かされることはないのである。





 北大の山岸俊男らが行っている社会心理学実験というものは、被験者に実験の意図を隠蔽したまま行われるものであり。こうした実験からは被験者の無意識的な行動「結果」の多数抽出しかできない。

 それはそれで、たとえばスタンレー:ミルグラムらが行った服従心理実験のように、無意識的なヒトの行動習性を抽出することによって無意識的本能の危険性を導き出すことには意味があるのだが。逆に衆人環視環境における一面的人間性の証明には意味がない。

 それはいわば、チンパンジーの利他行動抽出と同じ一面的な立証にかならず。ミルグラムの服従実験における本能の危険性の反証にもならない。

 一面的立証だけで人間としての社会性全てを証明することは原理的に不可能である。シエラレオネの少年ゲリラを同じ環境下でどのような行動を採ろうとも、少年ゲリラの人間としての社会性証明にはならないからだ。もし可能であるというのであれば、通り魔に同様の行動を採らせれば社会に復帰させても良いという結論になる。そんなバカげた話は現実的ではない。

 山岸らが行っている無意識的な行動習性の抽出からは、人間としての社会性は証明することができないのである。

 つまり、山岸らの実験というのは徒労な血税の無駄遣いでしかなく、全く社会的に役に立たない。一時期バスなどに貼られていた「カラス除け。」も、結局は犯罪抑止にはなっておらず。その場限りの一時的効果しかないことは予め予測できていたことである。

 本当に社会にとって有用な研究を行うのであれば、むしろアイヒマン実験のようにヒトの無意識的な行動習性を抽出することによって無意識的習性の危険性を広く知らしめることである。山岸は自分が今まで行ってきたことを事後正当化しているだけであり、その動機こそがヒトという種の「心理。」的な拘束によるものであることを、山岸自身が認識していないのである。こんなバカに社会心理学的権威性を与えておいても、実質的な社会的貢献になる結果は導き出されることがないのは明白である。



 ヒトは他者との比較による優越を快楽であると「感じ。」る習性がある。

 競争「原理。」というのは、こうした本能習性によって作り出されるものである。

 個人的に好きな行為において他者との比較競争を「楽しめる。」のであれば、競走は互いを高める有益なものにもなりうるが。過度に強迫観念的な恐怖心を用いて煽られた競争というものの場合、心理的狭窄性を促すことになるため、アインシュタインが懸念した「後に重大な影響を及ぼす。」ことにつながるのである。

 本能的な競争心を煽られるということは、そこに本質的自発性は存在せず。環境から与えられた他者との競争への強迫観念的な恐怖心だけに意識が集中させられ、それが意識の狭窄性につながるのである。

 これは洗脳の一種である。

 教育者はこう述べるであろう、「企業や親が望むからだ。」と。すなはち、教育者自身には社会における教育の公益的役割としての本質的人間としての社会性など最初から頭にないから、こうした環境依存的な言い逃れをすることになるのである。

 教育者が教育の目的を企業や生徒の親に依存しており、全く自律的に教育者としての社会的目的意識がないということである。ただ漫然と多数の企業や生徒の親からの要望に応えるだけで、教育というものの目指すべき理念や社会的目的といったものを、教育者自身が全く「考え。」ていないとういことである。

 そもそも「多数の企業。」や「生徒の親。」というのは、あくまで企業の利益や個人的な利益といった利己的な動機にしか意識は働いておらず。ゆえにただ漫然と過度な学力競争を要求するのであり。結局誰にも教育というものの社会的役割を意識しないまま「暴走。」した結果として学力が高いだけの通り魔やカルト宗教の幹部を大量生産し続けているのである。

 単に個人的利益だけを追求するのであれば、天下り役人は「純粋。」に利益を追求しているに過ぎず。その「純粋。」さというのは機械手続き的条件反射行動として、機械的に「純粋。」であるということである。こうした「純粋。」さというのは、アドルフ:アイヒマンの「純粋。」さや、人類の救済と称して命懸けでテロを行ったカルト宗教幹部の「純粋。」さと同じものである。

 機械であれば、予め組み込まれた機構原理以外の行動選択を行うことはない。それなら自動運転の列車が人を轢き殺したとしても「罪。」には問われないことは自明であろう。カルト宗教が暴走しようとも、教育機関が社会的な役割とは何かを自律的に追求しなかろうが、それらが全て自分達には責任が存在しないというのであれば、それはもはや「人間の教育。」ですら最初からないということである。

 糞の役にも立たない検察官や、耐震建築強度を偽装する一級建築士をどんなに大量に「生産。」しても。それが「生産。」時点での教育者の評価成績になるとしても。現実的に社会的公益性に貢献しないばかりか、むしろ社会を崩壊に向かわせているだけである。

 つまり、誰しもが他人からの成績評価にばかり意識しか働いておらず。社会全体のありようとしての理想理念といったものが欠落したまま機械的に高い学力の生徒を大量生産しているだけなのである。

 他人や環境から与えられる評価報酬といった「エサ。」による快楽というのは、その快楽の起点が自己の内部には存在しておらず。常に社会環境から与え続けられなければ充足できないものであるため。その欲望には際限がない。

 権力欲に溺れる独裁者というのは、オウム真理教の教祖と同じで。当人的にはただ「純粋。」に周囲の人間の要望に応えただけに過ぎず、目的意識も何もなく。ただ機械反射的に破滅への道を「純粋。」に邁進することに陥るのである。

 こうした「純粋。」さというものは、その動機自体が大脳辺縁系が促す欲望という機械的「純粋。」さに由来しているため。そこに抑制ブレーキを効かせるための論理的自律判断が働くことは一切ない。ケダモノは暴走する以外に自律的に自己抑制などしないのである。

 厄介なことに、彼らは自分のことを「純粋。」であると認識「実感。」しているため。全く問題意識は働くことがない。

 天下り役人の傲慢さというものが通り魔のそれと類似するのは。心理的に同じ意識狭窄性に由来するものであるからだ。

 自律的に公益倫理判断を行わないということは、すなはち多数他人が作り出す価値観というものに「従順。」なだけであり。自分の行動責任を自律的に担保するという「素直さ。」の欠落を意味する。

 他人との比較に意識を奪われた状態の者というのは、自己内部における自発的価値観を失っている状態である。他人との比較しか認識できない状態であれば、それをどんなに追求しようとも自己内部の自発的価値観が満たされることは一切ないため。欲望に際限が失われることになる。

 本質的に自発的行動に価値の重きを置く人の場合。環境に行動が左右されることは少ない。そもそも本質的自己としての自発的価値観を自己自身で充足できるため、他人に対しての過剰な評価報酬の要求をすることはないのである。

 バカな奴はそれを「自慰的。」などと言い出すが。それなら多数他人に欲求を満たしてもらうことしか考えられない者を何と形容すべきであろう。「他慰的。」というのなら、それはもはや全裸コートで徘徊するド変態でしかなかろう。事ほど左様に自律判断のできないバカというのは自分の姿を省みる精神的余裕というものが全く存在しないのである。

 その場限りの「取り繕い。」や「言い逃れ。」によって多数の大衆凡民をごまかすことができたとしても、それは多数の凡民に対しての優越感を得るだけであり。それは「イヌの優越。」に過ぎない。

 イヌというのは他者との関係性、つまり本能的社会形成習性に則った反射的欲求でしか大脳辺縁系を満たすことはできない。イヌは自分の脳を自分で満たすことができず、あくまで他者との関係性によってのみ充足を得ることしかできないのである。従ってイヌの行動というものは徹頭徹尾環境依存であり、自分の運命を自分自身では一切選択することはできない。

 よく訓練されたイヌを、一般的には「頭が良い。」などと形容するが。訓練という環境の結果として機械手続き的条件反射行動として従順なだけのイヌを、自分達にとって「都合が良い。」ことを「頭が良い。」と錯覚しているだけであって、イヌは訓練を受けずに甘やかされて育てば簡単に飼い主の手を噛むようにも、野犬の群れに育てば単なる野犬にもなる。その違いは自律的には選択不能であり、あくまで環境という非自律的要因任せの運命論的「結果。」でしかないのである。


 ヒトという種の生物は、その本能的な社会形成習性によって他者との関係性に執着する行動習性というものが組み込まれている。進化的にはそれが「生存。」に適したからであるが、ただ「生存。」に適したというだけであるならば、暴力的であろうがバカであろうが構わない。

 シエラレオネという環境下においては、より残虐であることこそが「生存。」につながるような条件場面もある。それをただ短絡的に「生存。」という結果だけを絶対基準にしてしまえば公益倫理も持続可能性も無視してしまうことになるのである。それは人間としての基準ではなく、もはやゴキブリの基準にしかならない。単なる生存価だけを論ずるのであればゴキブリで充分であるからだ。

 ヒトは他人との比較において、自分だけが愚かでなければ「安心。」して愚かでいることに問題意識が働かなくなる習性がある。多くの他者が環境依存的価値観に流されている場合、自分だけがそれを求めないことに恐怖心を抱き、強迫観念的に同じ価値観を共有していなければ「不安。」に陥る傾向性がある。

 いうなれば、バカの集団に「染まって。」しまえば、バカでいる方が「楽。」なのである。

 昨今の科学離れの原因というのは、科学的思考の基礎となるべき論理的思考の素となる自発的な謎への素朴な疑問が失われてしまっていることが根底にある。

 誰も考えたりしないことを考えることを忌避したり。或は直接他者からの評価報酬に結びつかないような疑問に対して自発的に思索を巡らすことを無駄であるとする価値観一色に染まってしまっているからである。

 養老孟司がやたらと論じていた「スルメ見て、イカがわかるか。」という話も。要するに養老自身が自発的に解剖学に対して純粋に取り組んでいないからこそ「悔しい。」などという感情が出てくるのであり。純粋に自発的研究として解剖を行っていれば、「別にイカをわかろうとしているわけではなくて、スルメに興味があっただけです。」で済む話なのである。

 それを、わざわざ「悔しい。」と思わなければならないのは、行為自体の不純さと、他人との比較価値観による敗北感情が「悔しい。」と感じさせるのである。

 無論、この場合における「純粋。」さというのは、前述の多数他者環境下における自発性を伴わない機械的「純粋。」さとは全く正反対のものである。

 科学的思考における最も根底にある「動機。」とは、自発的な疑問に基づく自発的論理思考にある。

 周囲の環境に流された「結果。」としての行動というのは、当人にどんなに強い欲求が存在しているとしても、それは本質的には「自発的。」欲求ではない。

 それはパチンコやクソゲー、或はギャンブルにハマることと同じである。多くのヒトがハマるとしても、それは人間としての生き甲斐に結び付くような、個人において普遍的な価値観にはならない。

 ネコの前にネコジャラシを振れば、ネコは機械反射的にネコジャラシにじゃれるものである。しかし、これはネコ自身が選択して行っているとは言えず、あくまでじゃれる対象があるという「環境。」に依存した行動「結果。」でしかない。

 個人的であっても普遍的価値観であれば、それは他者からの評価報酬には左右されることもなく常に自発的に続けられるものであり。また、普遍的に続けられる持続可能性にも意識が働き、さらに自発的思考によって公益倫理的自律選択判断もできるようにもなりうるのである。

 しかし、自発的な価値観を持たない場合、自律的に公益倫理判断ができるようには原理的にならない。自律というものは自発の中にあり、他にはないからである。

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そのた。

2011年12月17日 21時05分56秒 | 日記
 HTML5 Canvas で雪を降らせたけど、その後バリエーションがなくなたので変なの載せてみる。

イルミネーション
http://space.geocities.jp/srand4000/colorflip.html

 以前、スマートフォンを使て集団でイルミネーション制御したら面白いなとか思ったことがあるんだけど、どうもかなり難しいらしいので、単純にレンイボーカラーを表示するWebアプリをこさえてみた。みんなでこれを表示して、ディスプレイの明るさを最大にすればキラキラと即席イルミネーションになるかなーって思う。別にシンクロとかは一切しないので、すぐに飽きそうだけどね。

 あ、画面を直接見ていてはいけません、気持ち悪くなっても責任持てないです。あくまでイルミネーション用ですので。

 でもちょっと騒がしい感じもするので、なめらかバージョンもこさえてみた。

http://space.geocities.jp/srand4000/colorflip02.html

 実は一度変な動作に陥って原因がしばらくわからなかったんだけど、名前が未定義な変数に代入していても、おいらのブラウザだと動いてしまうのでありました。名前が未定義な変数に代入された部分の代入式が無視されていたのです。ちょっとビックリ。

にわか雨
http://space.geocities.jp/srand4000/rein01.html

 相変わらず眠気を誘うインスタレーションが好きなのです。真夏のコンクリートとかに雨滴が乾いてゆく感じ。地面の写真とか入れれば良いかな。実は撮影しに行ったんだけど、落ち葉が凄くて断念。
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失礼。

2011年12月16日 00時33分35秒 | 意識論関連
 何に対して「失礼。」と感じるか。それはあくまで個人的な価値観に依存するものであって、感じさせている者の意図とは異なる場合も有り得る。

 意図的に相手を誹謗中傷することで「失礼。」と感じるか、その意図がないにも関わらず、言われた方が気分的に嫌な気分的に陥って「失礼。」と感じるか。それな感じている当人にとって、その「感じ。」方自体に違いはないであろう。

 どう「感じ。」るかどうかと、言っている方の意図とは必ずしも一致するものではない。ましてや個人的好き嫌いでしかない芸術に関わる話であればなをのことであろう。

 とかくヒトという種の生物は感覚的「感じ。」こそが世界の全てであると錯覚しがちである。だから「恐い。」と感じない危険行為が減らないし、振り込め詐欺も減らない。

 こうした現象というのは、大脳辺縁系の反射である「感情。」だけで物事を判断してしまう無意識性が根本原因であり。こうした無意識性の愚かさの注意喚起として意識に関する話をしているのである。

 一般の「普通の人。」の多くはこうした本質的意識の重要性を感覚的には「感じ。」てはいないであろう。

 占い師の細木数子は、多数の人から人気を得ていたが。実際には糞の役にも立たないペテン師に過ぎない。言い回しだけ「失礼。」と「感じ。」させなければ多くの大衆凡人からの人気を得ることも可能なのである。


 心理学上での「ヒステリー。」とは、心理的拘束のことを言う。特定の価値観に対して反射的に拒絶したり固執したりする行動習性というものは、脳内物質ドーパミンが作り出す「常習性。」によって無意識下に刷り込まれた価値観に由来するものである。

 ヒトは、自分が既に行ってしまったこと、或は長く信じ込んでいたものなどを、事後正当化することによって気分的に満足安心する習性がある。これが本質的な「思考。」を阻害し、感情という無意識性の反射的行動を促すことに陥る原因である。虐待の連鎖も、カルト宗教の信者がやめられないのも、原因だけを論ずればこうした「簡単。」なものに過ぎない。だが、当人にとってはその呪縛から逃れるのは容易ではない。

 単に「簡単。」で表面的な話だけしていれば、多くの大衆の脳を酔わせることは「簡単。」であろう。しかし、そうした「簡単。」な話によって、多くのヒトは騙され、社会の崩壊につながるような結果に無意識的に陥ることになりかねない危険性を認識できなくなるのである。多数のご機嫌をとって、話を丸めておけば気分的には「安心。」なのかも知れないし、それを「コミュニケーション能力。」だと「思う。」のかも知れない、そういった「気分。」的なご機嫌取りというのは生物学的社会形成に過ぎない。それは別に「人間としての公益倫理的自律判断による本質的社会性。」とは無関係であり、気分の問題に過ぎない。

 これは実は「体制。」といったもの全般に言えることであり、体制、団体といったものの閉鎖性に関わる話でもある。

 従って単なるご機嫌取りだけのイエスマンだけでは体制の閉鎖性や腐敗といったものを排除することはできないのである。場合によっては嫌な話にも耳を傾ける論理的思考という「心の広さ。」も必要なのである。

 個人的気分という、いわば身勝手な観念だけで「失礼」かどうかを論じられても、そんなことは私の知ったことではない。それこそ養老孟司のように、わけの解らない話で撹乱しておけば、その話が本当に「失礼。」であるかどうかすら、多くのヒトには認識できなくなるのである。そんなバカみたいな話は要らない。

 この国では体制としては民主主義の制度を採用しているが、民衆自体がバカであるからバカ主義にしかならない。この話を読んであなたのご機嫌が悪かろうがどうなろうが、そんなことは社会の安全性とか持続可能性とは無関係な話である。

 かつてのドイツでは、民族主義という気分的「安心。」の追求によって社会の崩壊を招いた。アイヒマン実験の被験者の多くのように、多数という無意識的「流れ。」によって社会の崩壊を導いた。

 ご機嫌を取って欲しいのであれば、閉鎖的で非公開なサイトの中だけで満足しておけば良いであろう。そうすれば意図的誹謗中傷もされずに済む。仲間内での観念を共有して気分的満足をするのは勝手だが、それをあたかも社会全体における普遍性を持った価値観であるかのように言うことこそが、むしろ傲慢で「失礼。」な話ではなかろうか。

 それこそ京都大学や東京大学の生物学のように、「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性を立証できるかも知れない。」などという論理的に不可能な研究に税金を無駄遣いしていても、誰も指摘できなければそれは「失礼。」であるとすら認識していない。



 私が「ムカついて。」いるのも私の個人的な気分の問題に過ぎません。その「結果。」として言い回しが攻撃的「風味。」であっても、そんなことは気にする必要はありません。むしろ、プリミティブであっても反論をすることは必要なことです。より普遍的な価値観というものは反証主義によって磨かれなければならないからです。ただ、あまりに単純過ぎると反証にすらなりませんが。

 よく、プリミティブな意見に対して反射的に「あほばかしね。」の一言で説明すら放棄する人は結構いるが、それこそが本当に「失礼。」だと思います。できるできないに関わらず、やはり説明はきちんと「しようとする。」ことは必要でしょう。私ができているかどうかはわかりませんけど、その意欲はあるつもりです。

 多分、「あほばかしね。」とか書いて無視しておけば、面倒臭くないので気分的には楽でしょう。多くのヒトがそういう対応をするのは、そのヒトの大脳辺縁系が楽なので、反射的無意識にそういう対応になってしまうことが「多い。」わけです。

 それこそ相手が誰なのかすらわからない状態で懇切丁寧に、噛んで含めるような説明をするのは非常に面倒臭いことではあります。重要なのは論理的に理解することであり、論理的に「考える。」ことを自律的にできるようになることです。心理的拘束に触れる話というのは、得てして気分を損ねる場合が少なくありません。嫌な相手が正しいことを言うこともあれば、好きな相手が間違っていることも、世の中にはあるわけです。

 ですから個人的な「気分。」を普遍的価値観であるかのように錯覚すべきではないのです。だから「既に存在しているだけの自己。」というものは本質的には自己ではないと論じているのです。

 面倒臭いですか、難しいですか。でも、それから逃げてきたからヒトという種の生物の習性が引き起こす問題が解決しないんです。これは「ヒト。」という種の生物であり、かつ人間社会で生活する以上不可避な「本質的人間性。」に関わる話です。ヒトという種の生物の大脳辺縁系というのは感情が優先するようにできているからです。

 芸術というものも、「時に。」は必要なものだと思います。震災の後にバカ番組が復帰したことで被災者の気分を和らげる効果もあったそうです。バカ番組にもバカ番組なりの価値は存在するわけです、重要なのはバカげた話と、そうでない話を区別する認識力と思考力であり。それを支えるのが本質的意識であり。それは感情や気分といった個人的価値観とは切り離して考えなければならないのです。

 要するに「分別」が大切なのです。ですからおいらのことを嫌うのは勝手ですが、言っている内容自体を「理解したくない。」という個人的気分による価値観で無意識的判断をされては話にならないのです。

 本来芸術に関わる人であっても、公益倫理的自律というものの理解はしておいて欲しいものではあります。「社会環境が人を悪人にする。」というような無意識性の正当化を芸術作品においてするべきではないと思うからです。特に芸術作品というものはヒトの感情に訴え、「実感。」を伴った気分的誘導を伴います。マスコミと同じで洗脳プロパガンダに利用されかねないものでもあるからです。それを単に「メディアリテラシー。」だとか言い張り、視聴者の判断力だけに依存するというのは傲慢でもあるからです。

 洗脳プロパガンダというものは、必ずしも行っている人自身に、その「意識。」があるとは限りません。むしろない場合の方が圧倒的に多いからこそ「暴走。」を招くことになるのです。あれば暴走させずに自分に都合の良いように制御しますからね。養老孟司の手口がそうでしょう。糞の役にも立たないのに人気だけは維持できるわけです。養老はバカでもわかるような簡単な不祥事は起こしていませんが、論理整合性のない支離滅裂な話を、あたかも科学的な見識であるかのように錯覚させて大衆人気を得ることを、単に多くのヒトがその不遜さを多くのヒトが認識していないだけに過ぎない。

 オウム真理教の教祖とか、あれは完全に目的意識も何にもなかったからこそ異常暴走に至ったわけです。ナチス政権も同じです。当人に問題意識がないからこそ危険なんです。それを「難しいから、わかんな~い。」で済まされては困るわけです。私が個人的に困るのではありません、社会全体が困った結末に陥るんです。

 「個人的にあたしが嫌な気分だから、お前は失礼だ。」というのは、あなたの個人的な好き嫌い「主観。」でしかありません、ご自分の言うことが本当に「客観的。」であるかどうかも検証せずに、他人の個人的好き嫌いを「主観的だ。」などと言い出すのは戯言寝言の類でしかありません。芸術に関わる話というのは、最終的に全て個人的好き嫌いに帰結することものであり、論争しても何ら建設的「結論。」が導き出されないことはわかっています。「カレーが好き。」か、「コーンスープが好き。」かをどんなに論争しても何にもならないからです。

 芸術というのはそうした主観的で個人的な好き嫌いの話でしかなく、それによって社会的に成功するかどうかと、人間としての価値とは無関係です。たとえクソゲーで社会的に成功して金儲けをしても、それが人間としての価値、人間としての社会性を証明するわけではないからです。


end;
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もったいない。

2011年12月14日 23時06分12秒 | 日記
 原発避難地域の農家さん達が、東雲の高層公務員住宅に避難しているらしいです。

 でも、やることがなくて認知症に陥ったりしている方もいるらしい。農家から土を奪ったら何にもできないのは当たり前です。プログラマからPC奪って何ができますか。

 筋金入りの農業のプロが東京都心にいるんだから、湾岸で生殺しにしておくのはもったいない。農業実習指導員として欲しい企業団体ってないのかな。
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雪を降らせてみました。

2011年12月13日 16時51分44秒 | 日記
http://space.geocities.jp/srand4000/snow01.html

 どうしても動かなくて困っていたんですが、驚いたことにおいらのブラウザだとデフォルトでglobalCompositeOperationの値が"source-over゛になっていないらしくて、明示的に書き込んだら急に動いた。ううむ、ややこしい。

http://space.geocities.jp/srand4000/snow02.html

 んで、画面を小さくして微調整。おいらのマシンだと画面の横幅が1024もあるので動きが鈍い。小さい画面なら高速で動くので大量の雪でも滑らかに動いてくれる。

 立体感も出るね。

 立体感ってことで上から下を覗いたような感じのもこさえてみた。↓

http://space.geocities.jp/srand4000/snow03.html

 最初に若干塊になって落ちるんだけど、微妙だな。もう少し工夫した方がいいかな。欲しい人がいたら改造するけど。 とりあえず塊感は取ってみた。多少違和感もあるけど、実用的には充分かな。↑


 あと上を見上げたのもこさえてみた。↓

http://space.geocities.jp/srand4000/snow04.html

 実は1/307200の確率で動作がおかしくなるはずなんだけど、まあ大丈夫。別にブラウザが落ちたりするバグではないので。気になるようなら修正するけど。

 宇宙空間を飛んでる風にも見える。色をつけても面白いかな。

http://space.geocities.jp/srand4000/snow05.html

 物凄く寒いところの雪の粒というのは、結晶の形が明確なためにプリズムのように七色に輝くんだそうです。

 そういえば日テレの「目が点。」の受け売りなんだけど、女性の視細胞は男と違うらしいので、見ているもの自体が全く違うんだそうです。

 あ、それからarc()関数の前にbeginPath()関数をつけておかないと、場合によってとんでもない動作になることがありますね。複数の円がつながって塗り潰されてしまうみたいです。

 これはこれで抽象絵画みたくてかわいいんだけど、意図した動作とは違うので。

 この挙動をみる限り、どうもパスが交差すると塗り潰しが適用されなくなるみたい。何かに使えそう。でもブラウザによって違うのかも知れないしな。


http://space.geocities.jp/srand4000/snow05b.html

 あんまりややこしい動作を書き込むと重くなっちゃうし。バナーくらいには使えるかな。

 あれこれいじってみたんだけど、どうもパーティクル自体の大きさが動作速度に最も影響するみたい。アルゴリズム自体はもっと複雑なものでもパーティクルが小さければサクサク動いているサンプルはいっぱいある。

http://space.geocities.jp/srand4000/snow06.html

 これ↑は重い。パーティクルは大きいんだけど、濃度が薄いので地味。濃度が薄いとディザリングがかかるみたいで、ブラウザにも依るんだろうけど計算量が地味に増えるみたい。

 背景に画像をはめ込むには

var image=new Image();
image.src='gazou.png';

image.onload=function(){
setInterval(main,33);

}

//-------------
context.drowImage(image,x,y);

みたいな感じに書くみたい。一般的にCanvasアニメの場合はHTML<BODY>タグの中のOnLoadとかで初期化関数を呼んで、その中でsetInterval()の第一引数にアニメ動作を書き込むんだけど、画像を読み込む場合には別に

image.onload=function(){setInterval(main,33)}

みたいに書くのが商用ページでの作法らしいです。

http://space.geocities.jp/srand4000/snow02bgpict.html

 このサンプル↑はそういうのやってないので、再読み込みが必要かもです。

 んで、こっち↓の方は再読み込みが要らない(らしい)バージョンです。

http://space.geocities.jp/srand4000/snow02bgpit2.html

 おいらの東芝Androidブラウザだと再読み込み云々とか要らないのでよくわからない。ブラウザに依るんだと思う。




外見上のホームページはこちら
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自由市場。

2011年12月12日 16時45分22秒 | 意識論関連
 証券市場での取引は「自由。」でなければならないという話がある。

 おいらはこれにどうしても違和感を感じる。いかなる取引であっても「自由。」であることが本当に「自由。」だと言えるのだろうか。社会の安定を脅かすような極めて利己的な取引であっても「自由。」でなくてはならないというのは、何か不自由さを感じるのである。

 「社会の安定を脅かすような相手との取引はしない。」という「自由。」はどうしてないのだろうか。

 動物的な欲望に基づいた利己的利益追求だけが資本主義を支配している状態というのは、人間社会のシステムとして不健全だとは言えないだろうか。なぜ資本主義だけが特権的に動物的利己主義を野放しにしておかなければならないのであろうか。

 もしかすると生物学的社会形成習性というものと、本質的人間としての社会性というものの区別が不明確な状態を放置していることが、資本主義の動物的「正義。」の言い逃れを許しているのではないか。

 生物学的には個々の個体は社会全体のこと、公益倫理的なことは考えなくても「概ねうまくゆく。」という「結果。」的な安定性を。あたかも絶対的安定性証明であるかのごとくすりかえているように思えるのである。

 生物が作り出す生態系の安定性というものは、決して絶対的安定性証明があるわけではない。イナゴの大量発生のような「暴走。」を孕んでいる可能性が必ずある。事実証券市場では過去に何度もこうした「暴走。」はあった。

 にも関わらず、なぜ資本主義は生物学的な「結果。」論を、あたかも絶対的に信奉し続けていなければならないのであろうか。

 金融工学などにおいても、こうした「結果。」的な傾向性を絶対永遠であるかのように扱ったことこそが、起こりうる「暴走。」への対処を失わせた原因である。


 ロシアンルーレットというのがある。6連発の回転式拳銃に一発だけ弾を装填して互いに自分の頭に向けて引き金を引くという決闘の形式である。

 6連発の拳銃なら誰でも危険性は認識できるが、20億連発の拳銃で同じことを皆でやっていると危険性が麻痺する。そこにあるのは論理的安全性ではなく、気分的な「安心」感だけであることを、多くの人は意識から失うのである。

 厄介なのは高学歴な者であっても、気分的安心感というものへの「実感。」こそが現実であると簡単に錯覚してしまうことである。

 だから高学歴なバカは要らないと言っているのである。糞の役にも立たないからだ。


end;
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肩書。

2011年12月12日 12時57分37秒 | 意識論関連
 大臣とか、検察官とか。そういった肩書自体が人間の価値になるわけではない。

 一級建築士という肩書自体が人間性を何ら保障しないのと同様に、単に司法試験に合格して検察官でありさえすれば「偉い。」わけでも何でもないのである。

 とかく少数の人しか合格できないような難関を突破すると。あたかもそれ自体に価値があるかのような錯覚に陥るバカが少なからずいるが、どんなに少数しか合格できないような難関試験に合格しても、それはその仕事を行うための基礎でしかないのである。

 司法に携わる者にとって、法手続きこそが「具体的。」であると錯覚するようであるが。現実には法手続きこそが抽象であり、「現実。」の事案においてどのような法律的適用が相当するのかを考えるのが、司法試験を合格した者の仕事のはずである。

 法律上における解釈を行うのは司法に携わる者におけるContextに基づくものであり。「現実」の事案に対して法律上の解釈に翻訳できないようなバカであれば、「社会的。」には糞の役にも立たないということなのである。

 いうなれば、プログラマに対して「これこれ、こうしたプログラムを作って欲しい。」と要望されたにも関わらず。「具体的にどのような関数を用いて実現するのかが書かれていない。」などと言い出すプログラマなんぞ糞の役にも立たないのは明白である。

 ところが司法においては、こうしたバカげた「常識。」が通用するらしいのである。

 福島の農家が検察に起訴状を書いたそうであるが、それに対して検察からは「具体的でない。」などと称して突き返してきたという。肩書は検察官かも知れないが、こんなバカは社会において無用の長物、税金の無駄遣い以外の何ものでもない。

 どのような法律が適用可能であるのかを考えるのが司法試験を合格した者の仕事でありながら、「具体的にどの法律に触れているのかが書かれていない。」などというのは甘ったれにも程がある。こんな糞検察官こそ「マツリ。」上げるべきなのである。公務員なら情報開示は義務である。

 そもそも現在の司法において、懲役服役後の再犯に対して全く責任を取らない無責任性を放置しておきながら、それを「法律上規定されていない。」などと称して何ら改善しないこと自体、司法としての社会的役割を全く果たしていないのである。

 法律家にとって、法律だけが「正義。」になっているのは法律家の身勝手な思い込みでしかないのである。それは生物学者が従来の生物学の文法に則って無意味な観念を振り回していることや。通り魔の類が仲間内での「正義。」を振り回すのと同じことであり。そんなものを当人が「具体的。」だとか言い張るのは、現実には当人の感覚的「錯覚。」に過ぎない。

 ヒトは感覚的「実感。」こそが「現実。」の全てであると錯覚しがちである。大衆凡民においてそれこそが「常識。」なのかも知れない、だから養老孟司の権威性がなくならないのであろう。

 感覚的「実感。」というものは個人的には現実ではあるが、客観的には現実ではない。こうしたプリミティブな区別自体ができないことを利用して、養老は大衆の脳を撹乱しているのである。これがペテンや占い、スピリチュアルなんとかの類へと大衆の意識を引き込み、振り込め詐欺の蔓延を許していることを認識すべきである。「SQ」の類で自分のランク付けをして「社会性。」云々を論じていること自体が、そもそも人間としての社会性の欠如の左証である。こんなものは出版業界が仕掛けた金儲けイベントの一つでしかないのである。それを誰も認識しないというのは一体どういうことであろう。

 司法については、国政選挙のときに最高裁判官の選挙が伴うことがあるが、マスコミは「具体的。」にどの判事がどういった判断を下したのかといった情報を全く公表しない。情報が周知されていない状態で、一体何を選挙しろというのであろう。マスコミは大衆のウケ狙いに終始していて、ウケの悪そうなことを見事に一切行わないのは手抜きという他ない、やる気のない奴がマスコミに従事しているから、こうした手抜きが平然と行われるのである。問題意識がないのであればとっとと辞めちまえ。


end;
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イモリの足の裏。

2011年12月12日 01時21分51秒 | 日記
 ファンデルワールス力(最後のは漢字の「ちから」って字ね。)っていうのを利用してガラスの表面に張り付くことができるんだそうです。

 人肌プリンゲルのペトペトもこれなのかな。

 「ペトペトさん。」を人肌プリンゲルでフィギュアにしたらどうかな。

 あ、人肌プリンゲルでラジコンカーのタイヤ作ったらどうなんでしょう。ペトペトコンパウンド。スピードが出なさそう。
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放射線。

2011年12月10日 23時41分43秒 | 日記
 福島の原発事故避難地域から避難してきた人に対して、「放射能を持ち込むな。」とか言ってるバカがいるらしい。

 放射能を死ぬほど浴びた人のそばに何時間いても被爆なんかしないです。

 放射線というのは刃物みたいなもので、体中刃物で傷付けられた人のそばにいても自分の体に何の影響もないのと同じです。

 たとえ内部被曝をしている人であっても、当人以外に影響はほとんどないです。

 まったく、日本に住んでいながらなんでこうした無知がなくならないんだろう。こんなバカみたいな奴がいるから原発が暴走したり振り込め詐欺が蔓延したりするんだ。

 もうウンザリだ。バカは大嫌いだ。
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京急タモリ線。

2011年12月10日 13時26分18秒 | 日記
京急金沢検車区で線路敷設企画。京急タモリ線。

PC枕木一個166kg

パイスケ プラッチックのザル

ヒモケン ヒモ付きスコップ

砕石 バラスト、砂利でいいです。(いいのか。)

トロ(トロッコ)で運びます。

ガーデン クマデみたいの

氷屋ハッカーでPC枕木を3人で運ぶ 腰やられそう。グキッ

下手すると足挟む。

山越機とレールハッカー 文字違うかも。

50㎜浦賀方向

眠った、目をつぶった、線路の隙間がなくなったの意。


後編

パンドールクリップ 或はEクリップ

レールに枕木を締結 またPC枕木を持ち上げる。

バラストをパイスケで運び充填 全然足らない。

タンパーでバラストを締める

ポイントを手動で切替。

○京急豆知識

カミナリ枕木 ポイント切替部分に特注変形枕木を採用、八ッ山橋の手前だとか。

ノーズ可動分岐 生麦駅のみ。

三線軌道 三線軌条とも言うらしい。


最後にタモリ線のキロポストを設置、開通。番組終了後に撤去されるらしい。タモさんのお土産かな。

 鐵道線路の敷設って大変なのね。まるでピラミッド作ってるみたい。保線員の皆さんご苦労様です。
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不毛な競争。

2011年12月08日 23時56分53秒 | 意識論関連
 凶悪犯罪によって社会的注目を集めることを目的にしている時点で、その犯罪の動機は主体的なものではない。

 あくまで「社会的注目。」という「他人からの評価。」が根本動機であり、ましてや残虐なビデオゲームに影響されるなどというのは環境依存性の証明であり、本質的自律の欠如が見られる。

 「社会的注目。」さえ得られれば良いとする価値基準自体は極めて身勝手なものであるが、こうした価値基準は自発的、自律的に選択した価値観ではなく、あくまで成育環境において「刷り込み」学習された無意識的価値観に過ぎない。

 本来個人的価値観というものは常に身勝手なものである。身勝手であるが故に個人的価値観なのであり、問題なのはこうした個人的価値観と公益的価値観との区別がつかない原因こそが自律の欠如である。

 自律を行うとは、つまり自分の行動を論理的に「考え。」て選択することであって。目先の仲間内での競争的価値観に染まってしまうというのは、そこには論理的「考え。」に基づく選択はなく。あくまで「仲間内。」という環境に左右された価値観に過ぎない。

 子供の集団の中における競争的価値観というものは、基本的に生物学的社会形成習性による「シンボル。」としての優位性の競争であり、これは普遍的に凶悪性による強迫的順位欲を満足させるものであり。その価値観の多くは動物的狂暴性を伴うことが圧倒的に多い。シエラレオネの少年ゲリラの凶悪性も、それが子供だけの集団であるからこそ狂暴性がエスカレートするのであり。狂暴性の競争によって集団での順位や地位を保とうとしてしまうシーケンシャルな生物学的社会形成習性の結末である。

 ヒトは恐怖や暴力、或は権威に対して屈服服従してしまう習性がある。面倒臭い相手には反論しない方が気分が良いからである。勿論これは目先の気分に促される価値観であって、決して普遍的価値観として意識的に「選択」されたものではなく、あくまで目先の気分が促す行動「習性。」なのである。

 本能的に恐怖や暴力性に対して服従してしまうという「意思の弱さ」こそが、暴力や権力というものへの異常な執着を作り出すのである。

 自己自身が暴力や権力に服従してしまうからこそ、暴力や権力を用いて優位性を獲得しようとするのである。

 イヌは平等が嫌いなのである。

 イヌにとって服従は阿片である。

 イヌの価値観には平等などというものは存在しない。服従こそが正義であり、服従対象を喪失すれば暴力性によって他人に優位性を誇示しなければいられなくなるのである。

 これが生物学的社会形成習性というものの最も純粋な発露であり。これに人間としての社会性を求めるのは不毛という以外の何者でもない。

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カラーノイズ。

2011年12月07日 14時26分39秒 | 日記
 カラーノイズを画面いっぱいに表示してみた。

カラーノイズ

 画面サイズにもよるんだけど、JavaScriptだと結構時間がかかるので気長に待ってね
 JavaScriptのrandom関数を使てるんやけど、何か規則的パタンが出てくるね。擬似乱数なので仕方ないけど、再読み込みを繰り返すとなんとかなるのかな。

 相変わらず広告がパスされているので気持ち悪い。ブラウザが落ちても責任持てないです。まさかシステムごと落ちることはないと思うけど。

 やっぱり動きがないとつまらないね。
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