書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

変えてみた。

2011年12月06日 23時35分05秒 | 日記
 Canvasの大きさを400×400にして、実際のデータは200×200で動かしてみた。

cellautomaton

 相変わらず広告がスルーされていて気持ち悪いんだけど、一応おいらのブラウザ(東芝Android)では動いている。

 それからクリックしてもらうとわかるけど、残像もつけてみた。結果的にあんまり高速にはなってない。

 なのでもっと荒い奴もこさえてみた。

cellautomaton

 適当なとこで再読み込みしてもらうと違うパタンになる。

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やっとこさ。

2011年12月06日 21時15分29秒 | 日記
 のぁー。やっと動いてくれました。セルオートマトン。

 実はなんてことなくて

<body onload="init();">

って書くとこを

<body onloed="init();">

って書いていた。おいらはすっかりスクリプトの中にバグがあるのかと思い込んでいたので全然見つからなかったのです。もう一生忘れないだろうなonloadの綴り。

cellautomaton

 でも相変わらず広告がパスされているので、もしかするとブラウザが落ちるかも知れないのでご注意。

 全画面だとやっぱり処理が重いので、小さいバージョンも作って見ようと思う。

 もしかすると画面のサイズによっては戻るのに時間がかかるかも。画面の小さいスマートフォンの方が動きはいいかも。かも。
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白黒ノイズ。

2011年12月06日 16時04分42秒 | 日記
 白黒ノイズを表示するようにJavaScriptを書いてみたんだけど、なぜか広告がパスされてしまっている。

 一応動いているんだけど、広告が出ないというのは何かおかしい。

白黒ノイズ

 何だかな。

 あ、もしかするとブラウザが落ちるかも知れないのでご注意。
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こじつけ。

2011年12月06日 15時28分21秒 | 意識論関連
起こったことの全てに意味をこじつける必要性はない。

 ウロコフネタマガイの硫化鉄のウロコに、何らかの目的を求めなくても構わないのである。単に生体にとって体内の過剰な硫化鉄分を体外に排出する機構として体表から析出した結果としてウロコが鉄で出来ているだけなのであれば、それはヒトでいえば単なる皮膚の垢とか髭と同じで、それが生存環境においての「意味」を持つのかどうかとは無関係な体内機構の「結果」に過ぎない。

 文系思考の生物学者達の多くは、生物の「結果」の全てに何らかの「意味」をこじつけておけば科学的証明であると勘違いしているフシがある。

 哲学においても「自分だけが自分なのが不思議。」などという話も。単なる「結果」に対する「結果」的違和感(気分的感覚)を不思議だとか言っているだけであって、科学的、論理的には何も謎は存在しておらず、ちっとも「不思議」ではないのである。他人の考えていることがわからないのは、単に脳神経回路がつながっていないからであって、科学的には何ら不思議など存在していないのである。

 生物学における進化に対する無理矢理な理由付け、こじつけには。科学的な謎とか不可思議が根拠になっておらず、単に従来の生物学における無意味なパラダイムに則って反射的に「不思議」だと言い張っているだけであって。最後には必ず「奇妙だ。」とか、「素晴らしい。」だとかいった主観が結論になってしまっていることがほとんどである。

 こうした無意味な主観でしか分析されないのであれば、そこから本当に科学的「謎」の解明などされる訳もなく。長谷川眞理子のように「将来殺人事件が増えるか減るか。楽しみだわ。」などという、あたかも自分がヒト以上の何者であるかの如き異常なオカルト発言をするようになるのである。NHKの室山も同様であろう。

 同じヒトである以上、殺人事件を他人事のように形容するのは、もはや科学的客観性とは言えず、単なる傍観であって、全く問題意識も探究心も持たない戯言に過ぎないのである。

 科学というのは、科学というものの価値というものは。普遍的に何が危険で何が安全であるかを認識することが可能であるからこそ存在価値があるのであって。単なる気分的満足をしているだけで何も探求しないのであれば普遍性など導き出すことは出来ず、全く意味を持たないのである。

 長谷川眞理子が導き出したという「ユニバーサルカーブ。」の普遍的傾向も、要するに大脳辺縁系の活動と年齢との相関関係を数値化したものに過ぎない。普遍的に「性別によって何歳くらいに殺人を犯す傾向」を導き出しただけでは、それは大多数の殺人を犯さないヒトとの違いには全く言及していないのである。

 つまり、「殺人事件を犯した者」という限定的事象においての普遍性しか持たず、ヒト全般における普遍性は何ら立証していないのである。こんなものを業績だともてはやして喜んでいるのはバカげた話である。結論として「これからどうなるのかは、さっぱりわからないわ。」と言っているだけだからであり、全く糞の役にも立たない話に過ぎないからだ。

 本当に役に立つ業績というのは、殺人を犯す者と、どのような環境においても殺人を犯さないものとの決定的差異を導き出すようなことであって。性別年齢における傾向性自体は、それだけでは何の役にも立たないのである。

 どうにも下らないことを業績扱いして満足しているだけなら、それは社会にとって税金を無駄遣いする「お荷物」でしかなく。科学としての価値を全く持たないのである。

 ユニバーサルカーブにおいても限定的に「立証」されているように、殺人などの凶悪事件の発生率というものは大脳辺縁系の活動との相関が明確に現れている。それなら今更無意識的本能に意味を求めるような生物学のこじつけ取り繕いに耳を貸す必要性はほとんどない。そのほとんどは結果論に対する主観的感想を述べているだけに過ぎないからである。だから「文系」生物学者なのである。

 結果論の全てに理由や意味をこじつけたところで、ヒトが犯す過ちに対して何ら原因究明にも対策にも結び付くことはない。それこそNHKの室山解説委員のように「人類は絶対に絶滅する。」のであれば、如何なる意識的対策も意味を持たないことになるのである。絶滅する可能性がないとは言わない、あっても構わない、あるならあるでどうすれば回避できるのかを「考え」ること、探求する「意思」が重要なのであって、それがあって初めて科学というものの意味が出てくるのである。「不思議だわ。」とか「奇妙だわ。」とか「わからないわ。」といった結論しか出ていないものを業績扱いしている時点で、現在の生物学の体制は「意思」としての探究心が決定的に欠如しているのである。

end;
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恐怖。

2011年12月05日 00時58分32秒 | 意識論関連
 NHKスペシャルの戦争体験者の証言を見てた。

 「従わない者は銃殺刑。」といった「恐怖。」を用いた脅迫によって、軍隊というものは絶対服従を植え付けてしまう。

 戦争というのは政府が国民に強要するものであって、本当は「お国の為。」ではなくて、「政府の為。」だと政府が思い込んでいるだけのものでしかない。

 「坂の上の雲。」にあるように、昔は戦争の勝ち負けで証券取引価格に影響を及ぼしていた時代だったみたい。

 いわば、国同士の殺し合いの結果を先物買いするような時代だった。

 そこら辺から異常だった。

 以前から思っていたんだけど、証券取引っていうのは誰が何を買っているのかがわかるのであれば、無責任な証券取引をしているトレーダー自体にも格付けとかして。場合によっては取引自体をボイコットするとか、そういう「意思」が反映されるようになっていればいいのではないかと。

 甘いかな。
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改造。

2011年12月05日 00時47分07秒 | 日記
 多摩美のサンプルをアニメーションにしてみた。

 ソースコードから間違いを探す時は、あんまり集中し過ぎず、ふんわりと見ていた方がケアレスミスは発見しやすいかも。

 探しものってバグに限らず集中し過ぎると見えなくなったりする。がんばらない方が効率が良い場合もあるみたい。

 その辺りは経験を積むとみえてくるのかな。数を熟さないとダメな部分は頑張らずにダラダラたくさんやるといいみたい。
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機嫌。

2011年12月04日 12時47分27秒 | 意識論関連
 犯罪者が捕まったっていうニュースが時折あるけど、犯罪者が犯罪を犯した理由として上げることが多いのが、「恐かった」とか「世の中なめていた。」とか、「甘く見ていた。」といった言い訳が出てくることがある。

 これは要するに、行動の原理が感情(大脳辺縁系の反射)と直結していることを意味している。

 アイヒマン実験のような環境下における「ヒト」という種の普遍的行動習性として、権威に服従してしまう傾向性というものがあるのだが。これこそが感情、気分という本能的な生物学的社会形成習性としての服従行動を促してしまうのである。

 オリンパスの会長のご機嫌を損ねないように。大王製紙の御曹司のご機嫌を損ねないように。西武グループの会長のご機嫌を損ねないように。

 多くのヒトは気分的に権力者のご機嫌を損ねないように振る舞う行動習性というものがある。

 ちょっと古いかもだけど「KY」ってやつかな。「空気を読んで。」しまうわけだね。

 そもそも、これにおける「空気。」って何かというと、実際には個人の気分によって「感じる」(むしろ個人においては「実感」を伴って。)大脳辺縁系の反射であって。あくまで主観的な行動習性を促すものに過ぎない。

 ヒトっていう生物種は、もともとが合理的存在なんかではないから、行動習性というものに不条理性を伴っているのは仕方ないもの。

 だから、既に存在しているだけの自己には本質的自律選択というものは導き出されることはない。

 たまたま経験的に「恐い」思いをしたことがあって、それが行動に影響しているだけであれば、これは「自律」であるとは厳密には言うことができない。

 アイヒマン実験においても、ナチス政権下を体験したドイツ人の多くが「ひっかからない。」という「傾向性。」自体は自律判断によるものとは言うことができない。

 こうした悲惨な体験を経なければアイヒマン実験のような環境下で「ひっかかって」しまうのであれば、これは世代を超えて教訓として受け継ぐことにはならない。

 世代を超えて教訓として受け継ぐためには、単なる「安心。」という気分的、本能的行動習性に依らない、論理的行動選択、意識的に広い視点を保つという自己感情制御というものが不可欠なのである。

 カルト宗教において、教祖のご機嫌を損ねぬよう振る舞えば、人間としての行動選択は出来なくなる。これはナチス政権下においても、大王製紙社内においても、原発の安全性議論においても普遍的に言える。

 むしろご機嫌取りに終始してしまうからこそカルト化、体制腐敗を招くことになる。

 多数権威に「原発は絶対に安全。」と強弁されたからといって、論理的議論を放棄してしまった結果が原発暴走を許した「ヒト」の悪い習性に由来していることを認識すべきではないか。

 「教訓」というのは論理的に認識して初めて世代を超えて受け継ぐことが可能となる。それができないのは気分という大脳辺縁系が作り出す行動バイアスによって、普遍的に同じ過ちを繰り返すことになってしまう。それを養老孟司は「ヒトとは、そういうものである。」と思考停止に導くのである。

 残念なことに、その方が大衆ウケが良い。

 ヒトという種の性質として、気分感情を優先して思考を放棄させる話の方が多数人気を得易い傾向がある。

 美術芸術に関わる話であれば、それはそもそも大脳辺縁系の反射による好き嫌いの問題に帰結するので、「どうでもいい。」とか言っちゃうと、芸術表現に真摯に取り組んでいる人には嫌な言い回しになっちゃうけど。まあ、普遍性には影響はない話ではあります。

 特に個人の心理に言及しちゃうと、まるで個人攻撃みたいに「見えて。」しまうのかも知れない。おいらの話は雰囲気だけで認識されちゃうと真意が見えなくなってしまう。

 だから本質的社会性云々の話も、雰囲気だけ取り上げて「SQ」だとかいう勝手な基準に話をすり替えられてしまうと意味が吹き飛んでしまうのです。
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逆相。

2011年12月03日 23時14分23秒 | 日記
 ヘッドフォンでテレビの音声を聞いているんだけど。

 テレビ埼玉の音声が逆相っぽい。

 まさか本当に送信接続を間違えているわけはないと思うので、多分録音環境のせいで逆相成分が大量に混じってしまっているんだと思う。

 逆相成分が多いと聞き取りづらいので、録音環境が悪いなら、いっそモノラルで送信した方が良いと思う。
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AndroidPCのブラウザ。

2011年12月03日 14時02分25秒 | 日記
 東芝AndroidPCを使てJavaScriptの使い方を調べているんだけど。

 まず、普通のブラウザでできるらしい「右クリックでHTMソースコードを読み出す。」ってのができない。だから参考にできるコードが限られちゃう。

 で、もうひとつ。普通のブラウザだと、JavaScriptの例外エラーが表示されるので、間違いがあると原因がわかるらしいのだけど。

 それも出ない。ブラウザが落ちてくれれば書き間違いではなくて、アルゴリズムとか容量の問題なんだろうとは予測できるけど。

 Androidのブラウザっていうのは一般的PCブラウザとは用途からして違うみたい。ややこしいわー。UbantuPCにしとけばよかたかも。迷ったんだよなー、買うとき。

 失敗。Ubantuなら一応Android開発もできるらしいし。

 今createImageData()とかgetImageData()とかでピクセル操作をしようとしているんだけど、動かない。セルオートマトンとか写真のミニチュア効果とか、迷路とか作りたいんだけど、初歩的なとこで足止め食らっている。

 あ、そだ、以前載せた多摩美の全画面サンプルに、重力影響を加えてみたんだけど、何故か反発するときにエネルギー損失が発生する。しかも途中でいきなり画面から玉が消えたりもする。壊れはしないと思うけど、不安だったら見ない方がいいかな。

多摩美のサンプル改造

一応消えた後に自動復帰するようにはしてみた。
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掌紋。

2011年12月01日 22時55分32秒 | 日記
 掌紋の判別の誤りというものはどうしても人が行う以上不可避であろう。それを捜査員の不祥事みたいに言うのはちょっとおかしい。

 右手左手に限らず、あらゆる可能性についても検索するシステムを構築しても良いと思う。

 とりあえず登録されたデータに基づいて検索した後、登録されていないあらゆる可能性に基づいて検索し直しても良いと思う。警察のデータベースなんて夜中は誰も使っていないんだろうから、こういう時間帯に自動検索させておけば良いと思う。

 あんまり努力辛抱根性といった精神論ばかり追求しても実質的効果を上げることは難しい。間違えない捜査員など理論的に有り得ないからだ。

 どうも警察というのはコンピューターの扱い方を間違えているフシがある。

 おいらが自転車盗まれた時に交番に訴えたら、「防犯登録番号を教えて下さい。」だとか言われた。登録者と住所から逆引きすれば、登録番号など簡単に検索可能なはずなのに。「出来ません。」の一点張りである。果たして自分が乗っている自転車の防犯登録番号を覚えている、或はメモっている人がどれだけいるだろうか。

 自転車の防犯登録をしている人は登録番号をどこかにメモっておいた方がいいだろうね。
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SQ。

2011年12月01日 18時35分19秒 | 意識論関連
 最近SocialQuotientなるものが「流行」しているとのこと。

 やれ「IQだEQだ、いや、時代はSQだ。」などと「xQ」指数といった「成績評価」基準で安易に自己の価値を分析できることになっていると大衆の気分を高揚させることが可能であるらしい。

 IQからしてそうなのだが、あらゆる「なんとかQ」指数の類には科学的根拠があるわけではなく、それこそEQなど占いに使われる始末である。

 結局は成績評価を短絡的に与えられることに対して、無思考な大衆の大脳辺縁系が快楽を感じるらしいことから、金儲けに利用されているだけである。

 そもそもSocial(社会性)の定義自体、生物学的社会形成習性と、人間としての社会性の明確な分別も周知されていない時点で「社会性」の定義自体があやふやなまま一体何を基準にして人格にランク付けをするというのであろう。

 そもそも人格というものは個人の気分的な好き嫌いや、気分的傾向性から抽出できるようなものではない。

 気分的にどんなに他人を大切にしている「つもり。」になっていても、「人類の救済。」と称して地下鉄に毒ガスを撒いていたのでは意味が全くわからない。当人の気分的意識である無意識性をどんなに枚挙しても、本質的人格性を測ることなどできないのである。

 どんなに気分的にやさぐれていようとも、攻撃的であっても、多数大衆に迎合していなくても。公益倫理的自律判断を左右されないことが重要なのである。従ってSQなどというものに価値はない。

 それとも気分的に大衆迎合しておけば人格であると勘違いしておけば大衆の大脳辺縁系は満足なのであろうか。だとすれば、こうした短絡的気分こそが人間性であるという短絡的アプリオリな「感覚」こそが錯覚であり。バカの原因なのである。原発推進派が自信満々に公共益だと言い張るのも、彼らの脳がバカになっているからである。

 自分の愚かさを認識しなければ気分的には満足であろう。当然バカの上塗りにしかならない。バカの真似をして安心か、少しは自分の大脳新皮質で「考え」てみてはいかがであろう。

 出版業界マスコミは金になりさえすればどんな嘘でも平気でつくものである。ゆめゆめ鵜呑みにしてはならない。SQでどんなに高い点数を採っても、それが具体的に公共の利益には全くならず、単に点数に酔いしれ、その場限りの気分的満足を促すだけである。

 少なくともこれを読んでいる方々はこうしたバカげた流行を鵜呑みにしてはいないことを望む。
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気分の問題。

2011年12月01日 00時01分17秒 | 意識論関連
 アランだのニーチェといった、論理整合性の欠けた話の方が多数の大衆にとっては「人気。」があるらしい。

 アランの言っていることには論理整合性どころか、そもそも論理的根拠がない。

 「幸福は義務。」であることの根拠が全く示されておらず、大衆の気分を高揚させるだけの人気取りに過ぎない。

 大衆の人気取りに大衆からの人気があるのは必然であろう。

 哲学というものは、論理的根拠もなく勝手に何かを決め付けることではなく。あらゆる疑問に対して真摯に向き合う「考え。」をやめないことを言う。

 単なる「ポリシー」のことを「フィロソフィ」とは言わない。
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