簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
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食べたまま、書いてます。

白い町  (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-07-13 | Weblog


 旧東海道は古い道標の立つ三叉路で、その先を国道に遮られている。
地図で確認すると左に曲がれば真っ直ぐに七里の渡し跡に向かう道があ
るようだが、片側5車線もある国道247号線を斜めに横切ることになる。
ここは無難に右に回り国道に出て、神宮南歩道橋を渡り向こうに越える。



 橋の上からは右手に、二町余り先の熱田神宮の濃い緑の森が望まれる。
尾張名古屋の城下町は、「ここから北に五十町なり」と言われている。
当時も町並みは、神宮前を経て熱田台地(名古屋台地)の北端に築かれた
名古屋城下まで続いていたと言う。



 名古屋は先の大戦で戦災を受け、市域の1/4が焦土と化し跡形もな
く燃えて消滅してしまった。
当時人口は60万人足らずであったが、将来の200万人を目標に据え、いち
早く先進的な都市計画で復興を図ることになる。
その基盤となったのが防災目的の100m道路で有り、全市を四つの用途地
域に整然と区分する計画であった。



 計画が進むにつれ、整然と区画整理された町並を見て、人々はここを
緑の乏しい「白い町」と蔑んだ。
広々とした都市計画道路が町中を貫くと、滑走路でも造っているのか、
と揶揄し、当初は批判の声も多かったと言う。



 しかし今日ではこうした幹線道路は、防災のみならず公園としての機
能も合わせ持つパークウェイと成っている。

 又この計画では市内に点在した279寺の19万基の墓を一カ所に集めた。
平和公園と名付けお墓のある公園を作り上げ、今では墓苑などと呼ばれ、
市民の憩いの場、桜の名所となっている。



 この戦後の都市計画は数少ない成功例として、今日では大いに評価され
ている。とかく東京・大阪に後れを取り、第三の都市などと自虐的な名古
屋人も多いようだが、もっと誇りを持てば良いと思う。(続)



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コメント
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