2015年11月21日 宮城県
白石城
宮城県白石市益岡町
後三年の役(1083~1087年)で戦功を成した刈田左兵衛尉経元が白石の地を賜り、刈田氏と称してここに築城したのが始まりといわれています。その後白石氏などの支配後、伊達氏の勢力下に入ったものの、天正十九年(1591年)豊臣秀吉は、この地方を没収し、会津若松城とともに蒲生氏郷に与えました。蒲生氏家臣蒲生源左衛門郷成は、白石城を改修し城主となりました。慶長三年(1598年)上杉領となるや上杉氏家臣海甘糟備後守は白石城の再構築を行い居城しました。慶長五年(1600年)関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となって、石川大和昭光が一時城主となりました。その後、伊達氏家臣片倉小十郎によって大改修がなされ、以後明治維新まで二百六十余年間片倉氏の居城となり、城下町として栄えました。
木造建築による完全復元天守として、平成七年三月に白石城が復元されました。白石市観光協会
▲井戸屋形
▲大手二門
▲本丸御殿跡
▲大手二門(天守閣最上部より)
▲本丸御殿跡(天守閣最上部より)
▲本丸井戸
▼鐘堂と鐘
白石城鐘堂は、その脇に物日(祝いの日)に片倉家の白地黒鐘の大馬じるし、三階黒鳥毛などが立てられたと伝えられるが、発掘調査の結果等により、三階櫓(天守)東側のこの突出平場に建っていたと考えられる。 もとの鐘は文正元年(1466)に鋳造されて、伊達郡東昌寺にあった。東昌寺は伊達家四世政依が弘安年中(1278~88)に建立した寺で現在仙台市に移っている。何時の時代にか白石城に入って、非常の際に撞き鳴らされていた。また毎年七月、城回りの土手と堀の清掃の時には、この鐘を鳴らした。朝八時に七つ撞いて仕事を始め、九時に五つ、十時に三つで終わる。侍と城下にいる足軽、その他扶持を受けている者が総出で堀払いをした。長年使用したため、ひびが入ったので、寛文元年(1661)、片倉三代景長が仙台の鋳物師早山彌五助に命じて再鋳した。それが戊辰戦争後、明治三年(1870)白石城払い下げの時、ゆかりを知って伊達郡桑折町の傳来寺で買い求め、その由来を新たに記して使用していた。太平洋戦争中、古鐘であるといって保存させたので供出をまぬがれて傳来寺境内に現存している。 説明板より
cosmophantom