2015年12月14日 熊本県
熊本城2015①(熊本市)100名城
熊本県熊本市中央区
熊本県熊本市にあった平山城(ひらやまじろ)。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。京町台地の尖端にあたる、茶臼山丘陵全体にわたり築かれた。安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて、加藤清正が中世の千葉城、隈本城の城域をも取り込み、現在のような姿に築城した。細川氏の居城となった後も増改築が行われ、明治時代の初めまでは大半の建物が現存したが、1877年(明治10)の西南戦争に際し、天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失した。現在は、宇土櫓(うどやぐら)をはじめとする11棟の櫓、長塀、不開門が国の重要文化財に、城跡は特別史跡に指定されている。また、「武者返し」の手法を駆使した石垣の遺構も多い。外観復元された大・小天守のほか、本丸御殿大広間なども復元され公開されている。
※ 前回2014年8月5日に登城。今回は前回、回れなかった所(櫓など)を巡りました。二の丸駐車場から西大手門を抜け天守閣へ 熊本城2014 熊本城2015その2
▼ 二の丸駐車場付近から
▲ 戌亥櫓?
▲ 左から宇土櫓 小天守閣 天守閣 ?
▼未申櫓?
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▲▼西大手門
▲戌亥櫓?
▲宇土櫓、天守閣が見える
西大手門(右)と南大手門(左)
▲西大手門と遠くに見える未申櫓?
▲宇土櫓
▲天守閣が見えてきた
▲▼宇土櫓
▲▼宇土櫓
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▼天守閣
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▼ 不開門(あかずのもん) 重要文化財
古くから丑寅(東北)の方角は鬼門と呼ばれ、不浄の気の出入りするところと考えられてきた。 築城にあたっても、この方角は塞いでも開け放ってもいけないとされ、門は造るが通常は閉鎖されていた。そこから不開門と呼ばれ、死人や不浄物の搬出時にだけ用いられたという。この門の形式は、両側の石垣の上に櫓を渡し架けて、その下が門となった櫓門で、要衝に配置されていた。復元された「西大手門」「南大手門」も同じ形式である。往時の熊本城では十八箇所に櫓門が造られていたが、江戸時代そのままに現存するのは、この「不開門」のみとなっている。昭和8年(1933年)に国宝となり、戦後は文化財保護法の施行により重要文化財に指定されている。 説明板より
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▲東十八間櫓? 重要文化財
▲櫓群・石垣コースへ:天守閣を中心に右まりとなるコースへ
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櫓群(源之進櫓、四間櫓、十四間櫓、田子櫓、七間櫓) 重要文化財
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▲飯田丸五階櫓
▲二様の石垣:熊本城の見事な石垣の中、ここでは加藤と細川時代の異なった様式の石垣が見られます。右側の石垣の方が古い石積みの方法で、隅に同じ大きさの石を積み上げる「穴太積(あのうづみ)」と呼ばれているもの。左側の石垣は「算木積(さんぎづみ)」と呼ばれるもので、長方形の角石を左右交互に積んでおり、勾配が急なことが特徴です。 満遊くまもと
▼飯田丸五階櫓
▲数奇屋丸?
▲数奇屋丸
主に接客用として茶会、歌会、能などを楽しんだ建物です。しかし、南面には狭間(さま:鉄砲や矢を放つ小型の窓)や石落としを備え、また西隅には宇土櫓(うとやぐら)と同規模の数寄屋丸五階櫓(すきやまるごかいやぐら)が建ち、実戦に十分耐えうる構造を持っていました。明治になると城内に鎮台(ちんだい:陸軍司令部)が置かれ、次々に建物が撤去されましたが、古写真などの資料により、数寄屋丸一帯は城内でも早い時期に建物が撤去されたことが分かります。現在の建物は平成元年(1989年)に市制100周年を記念して復元されたものです。
関連記事: 熊本城 2015②天守閣と宇土櫓と飯田丸五階櫓 熊本城2014
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