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信徒発見のレリーフ2015~長崎市南山手町

2016-01-21 06:17:11 | その他

2015年12月13日 長崎県

信徒発見のレリーフ2015

長崎市南山手町

信徒発見

この話はとても感動するものです。少々長くなりますが全てを転写いたします。

この大浦天主堂から北に約6 km ほど離れた所に浦上があった。実はそこの農民たちが16世紀のキリシタン時代から7世代250年、信仰を伝えてきたキリシタンの子孫たちであった。厳しい弾圧の時代を通して信仰伝承をなしえた理由の一つは、地下組織を持ったことである。組織をつくったのは中野郷に住む孫右衛門で、17世紀の半ばであった。浦上山里村には馬込、里、中野、本原、家野の五郷があったが、馬込を除く四つの郷が皆キリシタンであったので、組織はこの四つの郷を一つに結んで出来ていた。先ず、浦上村全体の最高指導者を置いて帳方(惣頭ともいう)と呼び、四つの郷に各々一人ずつ水方(触役)を置き、郷は7~9余りの字に分かれていたので字ごとに聞役を置いたのである。帳方は教会の暦(日繰りと呼んだ)を所持し、教理とオラショ(祈り)を伝承する。毎年、毎週の祝日を教会の暦によって決め、その意義と祈るべきオラショを水方に伝えると、水方はそれを聞役に伝え、聞役が一軒一軒の信徒に知らせるというしくみがあった。水方は洗礼を授ける役目を合わせ持っていたところから生まれた名称である。250年という長い禁教と迫害の時代に、一人の司祭もいなく信仰を守り続けたことは、世界教会史の驚異とされるが、その秘密はこのような指導系統を持つ組織をつくり、洗礼が行われてキリシタンが現実に存在し、教理とオラショと教会暦が伝承されて、信仰生活が実践され続けてきたことにある。このように信仰を伝承して来た人々を「潜伏キリシタン」と呼ぶが、彼らの最大の願いは神父の再渡来であった。いつの頃からか「7代たてばローマのパーパから送られたパードレ(神父)がやってくる」という伝承が生まれ、彼らの大きな希望になっていた。しかも、真のパードレであるかを見分ける条件として(1)ローマのパーパから派遣されていること。(2)サンタ・マリアを敬うこと。(3)独身であること。が伝えられていた。この浦上村の農民たちがフランス寺の見物にやって来た。そして見たのである。サンタ・マリアのご像を!「サンタ・マリアがいらっしゃれば、フランス寺の異人さんはパードレさまに違いない」という確信がキリシタンたちの間に生まれた。1865年3月17日の「信徒発見」と呼ばれる出来事がこうして起こったのである。当日のことは、現在パリ外国宣教会本部に保存されているプチジャン神父の手紙に詳しく報告されているが、その一部を引用してみよう。「——- 昨日、12時半ごろ15名ほどの男女うち混ざった一団が、教会の門前に立っていました。ただの好奇心で来た者とは、何やら様子が違っています。私は急いで門をあけ、聖所の方に進んで行きますと見物人も後からついて参りました。私が躓いてほんの一瞬祈ったと思うころ、40歳か50歳位の年ごろの婦人が一人、私の傍らに近づき、胸に手をあてて申しました。 

 『ここにおります私たちは皆、あなた様と同じ心でございます』
〔本当ですか? どこの方です、あなた方は?〕
『私たちは、浦上の者です。浦上の者は皆、私たちと同じ心を持っています』
こう答えてその同じ人がすぐに私に、
『サンタ・マリアのご像はどこ?』と尋ねました。

サンタ・マリア! このめでたい御名を耳にして私は少しも疑いません。今私の前にいる人は、日本の昔のキリシタンの子孫に違いない」 この神父と日本のキリシタンの子孫との出会いを 『信徒発見』 と呼んでいる。 カトリック長崎大司教区より転写

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