2015年11月21日 宮城県
多賀城跡 100名城
宮城県多賀城市市川
多賀城は神亀元年(じんきがんねん)(724)に大野東人(おおの あずまひと)によって創建され、陸奥国府(むつこくふ)と鎮守府(ちんじゅふ)が置かれました。約900メートル四方という広大な城内の中央には、重要な政務や儀式を行う政庁がありました。発掘調査成果をもとに環境整備が行われており、平城宮跡(奈良県)、太宰府跡(福岡県)とともに日本三大史跡に数えられています。 多賀城市観光協会
▼外郭南門跡
南門は多賀城政庁から約380m南に立地していました。発掘調査の結果、門は高さ13.5mの重層門であったと推定されます。この門と築地塀は、780年の伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱で焼失しています。多賀城市観光協会
▲外郭南門跡と示された碑
▲南門跡
▲築地跡
▼多賀城碑 重要文化財
那須国造碑(栃木県)、多胡碑(群馬県)とともに日本三古碑の一つに数えられる奈良時代の古碑。
多賀城南門近く、覆屋に守られて立っています。高さ196センチ、幅92センチの碑面には、平城京や各国境からの距離、多賀城の創建や修造について141文字でつづられています。歌枕の「壷碑」とも呼ばれ、江戸時代には松尾芭蕉が訪れ、対面した感激を『奥の細道』に記しています。多賀城市観光協会
多賀城碑は、多賀城南門近くにある小さな堂の中に立っています。この碑は、高さ196cm、最大幅92cmの砂岩で、碑面をほぼ真西に向け立てられています。碑面には141字の文字が彫り込まれています。中央上部に「西」の一字があり、その下には140字が11行に配されています。碑文は、前半には京(=奈良の平城京)、蝦夷国(えみしのくに)(=東北地方北半)、常陸国(ひたちのくに)(=茨城県)、下野国(しもつけのくに)(=栃木県)、靺鞨国(まつかつのくに)(=中国東北部)から多賀城までの距離が記されています。後半には、多賀城が神亀元年(724)大野朝臣東人(おおののあそんあずまひと)によって設置されたこと、天平宝字(てんぴょうほうじ)6年(762)藤原恵美朝臣朝狩(ふじわらのえみのあそんあさかり)によって改修されたことが記されています。最後に天平宝字6年12月1日と碑の建立年月日が刻まれています。この碑は「壺碑(つぼのいしぶみ)」とも呼ばれ、江戸時代初めの発見当初から歌枕「壺碑」と結びついて広く世に知られていました。松尾芭蕉も旅の途中にこの碑を訪れ、深い感動をもって対面した様子が「おくのほそ道」に記されています。多賀城碑は、群馬県の多胡碑(たごひ)、栃木県の那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)とともに日本三古碑のひとつに数えられており、平成10年6月30日に国の重要文化財(古文書)に指定されました。多賀城市の文化財より
▼政庁跡
政庁跡へ続く階段
▲東南建物跡
▲東翼廊跡
▲南門跡
▲西翼廊跡
▲西南建物跡
▲正面が正殿跡
石敷広場跡
▲正殿跡
▲正殿跡へ続く道と階段
▼館前遺跡
国府多賀城駅前の小高い丘に立地しています。発掘調査の結果、国司の館跡とみられる四面庇付建物跡を主屋とする建物群6棟が発見され、1980年に特別史跡に追加指定を受けました。多賀城市観光協会
▼国府多賀城駅:JR東北本線
多賀城跡へはこの駅から徒歩で
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