
「いのちのたび博物館」で開催中の「大内文化と北九州」に病院の帰りに重い足を引きずって行ってきました。自宅から車で10分あまりなのですが、めったに出かけることのない博物館です。
湯本温泉へ出かけるときは必ず立ち寄る大寧寺が大内氏終焉の地であることぐらいは知っていましたので気になっていました。あらためて失われた大内文化への認識を新たにさせられたことでした。
室町時代、広大な領国を支配した大内氏は、9世の弘世(1325~1380)が、山口を拠点に、京の街並みを模倣した街づくりをして「西の京」と呼ばれて以来、16代義隆(1507~1551)が大寧寺の変で自刃して滅亡するまで、北山文化、東山文化と大陸文化を融合した独自の文化をはぐくんできました。今にのこる国宝の瑠璃光寺五重塔や、常栄寺雪舟の庭がそのシンボル的存在です。町の通りは、今も“大殿大路、竪小路、築山小路”などと呼称されています。
山口には、応仁の乱で荒廃した京を離れた公家や文化人の多くが大内を頼って来訪していて、一時は京をもしのぐほどの繁栄だったようです。そのは繁栄ぶりは山口に滞在したフランシスコ・ザビエルも書き残しています。
この反映の基盤は、、大内氏が商業地博多、港町門司を支配し、その貿易や、銀山開発の運上益を背景に、貿易で大きな富を蓄積していたことがあるのでしょう。成化の勘合、正徳の勘合を手に入れ、後期には「日本国王之印」の通信符を用いた対外貿易を独占しています。
歴代の当主は文化の伝承、保護にもつとめ、今に大内塗、赤間硯の技が生きています。
特別公開の「倭寇図巻」と「抗倭図巻」、ほか、芦屋釜3点、国宝の雪舟の牧牛図や「日本国王之印」と見事な印箱、精巧な細工の螺鈿の文台や経箱、硯箱。朝鮮国通信符など。その他、県や市指定の文化財が80点余展示されていました。
小さな博物館の冬の特別展は、12日までです。詳しくお知りになりたい方は次のサイトから入ってご覧ください。
http://www.kmnh.jp/

http://www.kmnh.jp/
