雀の手箱

折々の記録と墨彩画

今日は八月八日 八幡大空襲の日

2013年08月08日 | できごと

 小伊藤山公園に建つ慰霊塔

 今日は八月八日。遠い日のできごとという気はしないのですが、もう68年が経過しています。半世紀以上も前の出来事が鮮烈な記憶となっていて、毎年広島原爆忌の八月が来ると蘇ります。
 終戦の日の1週間前、八月八日の八幡大空襲の記憶です。

 私の生まれ育った枝光は八幡製鉄所の裏門の近くの高台でした。昭和16年に強制疎開に指定され、持ち家の借家18軒ともども立ち退きとなり、母の実家のある町に家を建てて移っていました。

  19年に学徒動員された小倉造兵廠では、同級生全員が寮で寝起きして、12時間交代で、夜勤もしていました。風船爆弾のための原紙和紙をノリ張りする仕事もなくなり、昭和20年の八月は、別れ別れに安川電機や、三菱化成の工場、日炭高松炭鉱などでいろいろな作業に従事していました。
 6日は、広島に大型特殊爆弾が投下されたという話でもちきりでした。そして悪夢の8日がやってきました。

 よく晴れた朝から警報が出ていました。9時過ぎから聞きなれたB29の爆音がしきりに聞こえて、焼夷弾の落下する金属音と共に、八幡の空に黒煙が次々に上っていました。夜になっても、空は真っ赤に染まっていたと記憶します。

 図書館の資料の記録によると、160機の爆撃機をともなった245機のB29の、2時間余にわたる焼夷弾投下で、死傷者2952人   焼失家屋14380戸 とありました。

  小学6年生だった私は、女学校の受験を控えていて、疎開した家族と別れて一人伯父の家から卒業までを電車で通学していました。(電車の運転手は女性のときもありました。)伯父の工場は八幡駅近くで、伯父が別府に移った後の一時期、出征した留守を守るお嫁さんのもとから通っていました。

 次の日の午後、被災した級友もいて自宅待機になって家にいた私は、安否を確かめに出かける父に叱りつけられながらも、どうしてもと同行をせがみ、二人で10キロあまりの距離を歩いて行きました。

 鉄道と西鉄の線路を目当てに、一面の焼け野が原と化した中を黙々と歩いて行きました。桃園町あたりからは、まだ余煙が燻ぶっていて熱気で足元が炙られるようだったのを覚えています。覚悟していたとはいえ、目の前は見境もなく炭化した瓦礫の山でした。工場の焼け跡に、見覚えのある防火水槽を見つけ、近寄ると角の方に女性が倒れかかっていました。父は私をさがらせて、前に回り、見知らぬ人だったと言って合掌しました。

 落ち着いてよく見るとそこここに、黒焦げの人が横たわっていました。わたしたち同様に親族や知り合いを探す人も何人かいて、一様に呆然とした表情でさまよっていました。幸い避難していて従業員もみな無事なのが数日して判明しました。

 この日一番の悲劇は、小伊藤山の防空壕でした。(今の八幡市民会館のあたり)学徒動員の教師、生徒を含む約300人の市民が入っていた壕の入り口が直撃でつぶれ、全員が蒸し焼き状態で亡くなったといわれています。そのあとは公園となっていて、慰霊碑が建てられ、毎年この日に僧侶によって慰霊祭が営まれています。この日の爆撃の犠牲者の火葬が八王子の火葬場では処理しきれず、傍の畑で1週間近く毎日野焼きされたと聞いています。級友にも、家や家族を失った人がいました。

 小倉造兵廠でも機銃掃射に追われて逃げ込んだ防空壕でしたが、幸い私たちは難を逃れ生き延びました。ここでは直撃弾で80人の学徒が犠牲になったと聞いています。
 よく知られているように、9日の長崎への原爆投下は、第一目標の小倉上空が、雲と、前日の八幡空襲の余煙で視界不良のため、第二目標の長崎に向かったといわれています。

 いままで、人の死に直面したときに、妙に冷静でいられる自分に、若い日のこの記憶が原点にあるのを自覚して時に悲しくなる時があります。

写真は「北九州思い出写真館」よりお借りしました。