咲酒と書いて、エグシと読みます。笑酒とも書くようです。
冬の夜は何時もより少し熱めの燗をしたお酒を好みます。お酒の話題を持ち出したのは、梨園の御曹司、市川海老蔵さんが度を過ごして騒ぎをおこし、芸能記事の恰好の餌食となり、過激に取り上げられていますので。
酔っ払い同士の、酔った挙句の殴り合いも、当事者だけの間で単発の殴り合いなら、人の顰蹙を買っても、酔いが冷めての互いの謝罪で済むのかもしれませんが、一方が伝統芸能、歌舞伎の将来を担う一人と嘱望される役者で、看板の顔に手術を要する大怪我ともなると波紋は拡がる一方のようです。
酒を好む身には、いささか身にこたえる話題です。本来、お酒とは、古事記にも「事無酒、恵具志(コトナグシ、エグシ)に我酔いにけり。」とあるように、災厄や、病を払い、笑みがこぼれ、楽しくなる奇しき霊力があるものだったはずで、神前にも供える聖なるものです。
「百薬の長」、「愁いを払う玉箒」と讃えられる酒も、大伴旅人になると、方向が変わってきます。人間でなく酒壺になりたいとか、飲酒の罪の報いがあるならそれでもよい、鳥でも虫にでもなろうと開き直っています。酒癖は人様々ですが、どうやら酔い泣きの泣き上戸だったようです。
兼好法師も「百薬の長とは言へど、万の病は酒よりこそ起れ」と戒めています。お酒は楽しく飲むものであり、酒に飲まれて「事有ぐし」になるのでは本末転倒です。
芸道熱心で順風満帆と見えた海老蔵さんにも泣き所があったようです。これを契機に一回り大きく人間的にも成長して、芸の幅を広げ、苦味も加えてほしいものと期待しています。団十郎さんの苦衷察するに余りあります。
来春のお家芸の「にらみ」は、誰が、どちらへ向って「にらみ」を効かせることになるのでしょう。
冬の夜は何時もより少し熱めの燗をしたお酒を好みます。お酒の話題を持ち出したのは、梨園の御曹司、市川海老蔵さんが度を過ごして騒ぎをおこし、芸能記事の恰好の餌食となり、過激に取り上げられていますので。
酔っ払い同士の、酔った挙句の殴り合いも、当事者だけの間で単発の殴り合いなら、人の顰蹙を買っても、酔いが冷めての互いの謝罪で済むのかもしれませんが、一方が伝統芸能、歌舞伎の将来を担う一人と嘱望される役者で、看板の顔に手術を要する大怪我ともなると波紋は拡がる一方のようです。
酒を好む身には、いささか身にこたえる話題です。本来、お酒とは、古事記にも「事無酒、恵具志(コトナグシ、エグシ)に我酔いにけり。」とあるように、災厄や、病を払い、笑みがこぼれ、楽しくなる奇しき霊力があるものだったはずで、神前にも供える聖なるものです。
「百薬の長」、「愁いを払う玉箒」と讃えられる酒も、大伴旅人になると、方向が変わってきます。人間でなく酒壺になりたいとか、飲酒の罪の報いがあるならそれでもよい、鳥でも虫にでもなろうと開き直っています。酒癖は人様々ですが、どうやら酔い泣きの泣き上戸だったようです。
兼好法師も「百薬の長とは言へど、万の病は酒よりこそ起れ」と戒めています。お酒は楽しく飲むものであり、酒に飲まれて「事有ぐし」になるのでは本末転倒です。
芸道熱心で順風満帆と見えた海老蔵さんにも泣き所があったようです。これを契機に一回り大きく人間的にも成長して、芸の幅を広げ、苦味も加えてほしいものと期待しています。団十郎さんの苦衷察するに余りあります。
来春のお家芸の「にらみ」は、誰が、どちらへ向って「にらみ」を効かせることになるのでしょう。
久々に酒を讃むる歌十三首を開きました。言いようもない、しょうのないほど貴いものはお酒らしいと。奈良漬けで酔ってしまうので酒壺になりたいとは、びっくりです。アルコール消毒でも皮膚が赤くなります。しばらく消えません。
「冬の夜は何時もより少し熱めの燗をしたお酒を好みます」 ああ なんと下戸で大損したことでしょう。
笑い上戸に泣き上戸は許してみても、怒り上戸は困りものです。子供の頃は青筋を立てて椅子を投げる光景などよく見られておびえていました。
お酒は好きになりたいですが、こういう人は好きになれません。
婚家も昔は酒を商っていましたので、舅はじめ親戚一同桁外れでした。法要や祝い事では夜を徹してということもあったようです。説教好きや、歌を聞かせたがる人、愚痴をこぼす人、様々でしたが、幸い乱暴を働く人は見かけませんでした。
酒を好まない人から見れば、いかにも愚かしく、顔を背けたくなる醜態も、酔いが冷めれば元の実直に戻る不思議は到底理解できないことでしょう。
つい気が大きくなって、安請け合いや、余計なお節介をしたりで、どれほど後悔の自己嫌悪で臍を噛む思いを繰り返したことでしょう。今はみな周りも年老いて程々になっています。
酒量は嗜む程度を最高とします。手術後は、直ぐお酒が回る人が相手なので、めっきり酒量も落ちて理想的になっています。