1990年から2001年まで秋田市長を務めた、石川錬治郎(れんじろう)氏が、2021年10月29日、82歳で亡くなった。※弘前と直接の関係はありませんが、最後のほうでちょっとしたつながりが出てきます。
死因は未発表だが、「急逝」とツイートしている政治関係者がいる。
11月3日付 秋田魁新報 社会面には、死亡記事と「評伝 「草の根」を掲げ多くの支持得る」が掲載された。遺族による死亡広告や、死亡届に基づくおくやみ欄掲載はなかった。東京の病院で亡くなったとの報道もあり、秋田から転出していたのだろうか。5年くらい前だろうか、市内でお見かけしたのが最後だった。公式ホームページは2015年頃、公式ブログは2016年7月21日でそれぞれ更新停止。
石川氏は、秋田県五城目町馬場目生まれ。千葉大学助手を経て、1983年から参院選や市長選に出馬するも落選。前市長の病気辞職後に秋田市長となり計3選。3期目途中(残り1年)で女性への現金授受騒ぎが起きて、妻の介護を理由に辞任。その後、秋田県議会議員を1期務めた(前後に衆院選や県議選で落選)。
といった経歴。
なお、出生地はWikipediaでは「日外アソシエーツ」を出典として「五城目町字杉沢」としているが、大字の「馬場目」が抜けていることになる。
秋田市長としての業績は、秋田公立美術工芸短期大学(現・秋田公立美術大学)の開学、中高一貫校・御所野学院の開校が挙げられよう。Wikipediaでは美短は触れていない。【2022年2月10日追記・市立美術工芸専門学校を短大化した経緯について、秋田魁新報「シリーズ時代を語る・青木隆吉18」より】1986~1989年度に在職していた専門学校長に対して、高田市長から「学校の将来について考えてほしいとの話があり、それが短大構想の始まりだったようです。」とあり前市長時代から内々で話は出ていたようだ。公約にした石川氏が当選し「短大構想は急速に具体化しました。」。
魁では2000年に「国連軍縮秋田会議」を開催したことも挙げていたが、記憶にない。
振り返ってみれば、そのほかにもいろいろある。前任者時代から進んでいた事業だが、秋田市出資の第3セクター企業による、ポートタワーセリオンやクアドーム・ザ・ブーン、太平山スキー場オーパスのオープンも任期中。
秋田新幹線開業は秋田県主体だが、開業と同時の秋田駅舎改築も(高架化も検討されたが、橋上駅舎に収まった)。開業日(関連記事)の秋田駅ホームのテープカットでは、石川氏は上が茶色・下がベージュ色の羽織袴姿で、ミッキーマウスとともに異彩を放っていた。
古紙など資源化物(資源ごみ)の回収品目の充実、救急救命士と高規格救急車の導入は、どちらも全国的に早いほうだった。国が進めたことだが中核市移行は全国第2弾。
以前、「きらめく北の人間都市あきた」という市のキャッチフレーズを取り上げた。1991年度策定の「第7次秋田市総合計画」が初出で、2001年頃まで使われたとしたが、石川市長の在任期間と一致する。
バブル崩壊の直前に就任したわけで、以降、日本経済も秋田市も衰退し続ける中での仕事だったことになる。
上記3セクの経営は悪化した。就任前に街びらきしていた御所野ニュータウンには、イオン秋田ショッピングセンター(現・イオンモール秋田)がオープンし、(イオンだけが原因ではないと思っているが)秋田市中心市街地は衰退した。郊外移転した秋田赤十字病院跡地には、「芸術文化ホール」構想も出たが立ち消え、退任後も長く空き地が続いた。
そして、秋田市の公営企業であった、秋田市ガス局と秋田市交通局(秋田市営バス)を廃止し、民間企業へ移管したのは、石川氏の決断であった。その結果、ガスはともかく、バスの現状は…
全国的な流れもあったし、いろんなしがらみや抜き差しならない事情もあっただろうから、石川氏自身がどうしても民間移管したかったわけではなかったかもしれない。
市長退任後の石川氏は、自転車(※)のほか路線バスで出歩くことが少なくなかったようで、駅前のバス乗り場で何度も見かけ、車内で乗り合わせたこともあった。「あんたが決めた結果がこのありさまだよ」と思ってしまったけれど。※魁には自転車で初登庁する姿が話題になったとあったが、秋田テレビでは市役所正面の広場方向から歩いて初登庁する映像が流れた。その後も自転車通勤(保戸野八丁の市長公舎=現・保育園から)することがあったとは聞いている。
良くも悪くも、今の秋田市があるのは、多かれ少なかれ石川氏の力があったことになる。自分が子どもから大人になる時期の市長だった人の記憶を留めておくことにしたい。
【2023年10月22日追記】秋田市の人口が30万人を突破したのが1989年。2002年まで増加を続けた。その後、2005年に河辺雄和両町と合併したものの、減少が続き、2023年には30万人を切ることになる。石川氏在任中は、人口としては増え続けていた時代。
石川氏の訃報を受けても、ネットでもマスコミでも、市長時代の業績に関する言及はかなり少ないと思った。仮にも県庁所在地の20年前の市長なのに、もうすっかり過去の人なんだろうか。
秋田市長は石川氏の前が高田景次氏(1973~1990年。2003年没)、後が現秋田県知事の佐竹氏(2001~2009年)、その後が現職の穂積氏。
秋田市長経験者で存命なのは、佐竹氏だけになった。でも、佐竹氏=秋田県知事が定着してしまったから、佐竹氏が秋田市長だったことも、すっかり忘れられていることでしょう(実際、“腰掛け”市長だったと思う)。
【10日追記】11月10日付 秋田魁新報 文化面に歌人の佐佐木幸綱氏による「石川錬治郎さんを悼む/ほろ酔いの身を翻し」が掲載。2人は早稲田大学で同級生だったとのこと。1998年に秋田市で「日本文化デザイン会議・秋田会議」が開かれ、その後石川氏が「日本ほろよい学会」を立ち上げ(よく知らないけど会議も学会も名前は聞き覚えある)、佐佐木氏も関わって親交が深まったといった内容。
以下、石川氏に関する個人的エピソード2題。
我が家では、石川氏がしゃべる姿をテレビで見聞きする時、話題になることがあった。
この人、かなりなまる。
なまると言うのは、イントネーションではなく、言葉に濁点が付くような。「わだずが、あきたすちょうのいすかわです」みたいな。秋田の人でそう話す人はいなくはないが、石川氏はかなりきついほうだった。
ずっと秋田にいる・いた人なら、まあそれも当然。でも、東京の大学を出て、千葉で大学の先生をしていた人。
大学の講義でしゃべることもあったろうに、なまりが抜けることがなかったのか、それが学生にどう思われていたか…
ところで、菅前首相は、秋田弁風(純粋な秋田弁ともまた違うようにも感じる。少なくとも秋田の人がみんなああいう話しかたではない)のイントネーションが抜けない。
このかたも、高校卒業後秋田を離れ、ずっとあちらにいたのに抜けず、そのしゃべりで何度も選挙を勝ち抜いて、内閣総理大臣にまでなった。首相就任時の東京での街頭インタビューでは「なまりが素朴で親しみが持てる」などと好意的な声があったのにも驚いた。それならば、もっと心をこめて、真に“丁寧な説明“をしてくれれば、もっと好感度が上がったのでは?
東北の人は、自分のなまりや方言をコンプレックスに感じることが多いもの。そして秋田県人は「いいふりこき(見栄っ張り)」で方言を隠したつもりで、うっかり使ってしまうこともある。
だけど、このおふたかたの話しぶりには、それらが感じられない。堂々となまっている。見習うべきかもしれない。
石川氏の大学教員時代の専門分野は、公式プロフィールでも「千葉大学園芸学部」までであまりはっきり示されないことが多かった。魁の評伝などにある通り「農業経済学」が専門。
千葉大の園芸学部は、他大学の農学部と同義。
農学系と言えば、生物や化学的分野が連想されるが、それ以外にも幅広い。土木や機械の農業工学、そして農業経済学というのもある。農学系唯一の社会科学系(文系なんだろうけど、入試は理系科目だったりする大学も)。
2000年頃の弘前大学農学生命科学部では、農業経済学分野に5名の教官が配置されていた。農政、経営、流通、協同組合、農村社会学などを研究していた。概論的な授業を受けたことがあるが、個性的で話が上手な先生が多く、おもしろかった。そのおひとりが「ペルーのフジモリ大統領(当時)も農業経済学者(今調べたら、農業工学の数学が専門のような情報も)。農業経済を学んで政治家になる人も多い」と話していた。石川氏もそのひとりであり、フジモリ氏とほぼ同年代、市長・大統領就任期間もだいたい重なる。
石川氏のさらに細かい専攻が、農業経済の中のどの分野だったのかは分からないが、どんな講義だっただろう。
ところで、その頃の弘前大学の教育学部(学校教育 発達心理学分野)には、石川教授という教官がいらして、共通教育(旧・一般教養)の授業を受けたことがあった。
その石川先生は、なんと石川錬治郎氏の親戚らしい。
といっても、確証は1つもない。
石川教授は、なまってはいなかったと思うし、お顔が似ているわけではなさそうだったし、秋田出身だとか話した記憶もない。
ただ、情報源は学生間の噂話レベルではなく(弘前で秋田市長が誰かなどどうでもいい話)、信頼の置ける人から直接伺った話(「親戚らしい」の形だけど)だから、僕は信じている。
石川教授は、1998年度(1999年3月)で停年退官(定年退職)。錬治郎氏より6歳ほど年上。
「学園だより 第123号」に退職に当たっての文章を寄せている。それから分かったのは、1959年に仙台から弘前へ来て、以後40年間在職したことくらい。
さらにもう少し関連。
1999年4月、弘前大学教育学部に新しい教官(当時の職名・助教授)が着任した。発達心理学ではなく、教育心理学という分野所属のようだったが、石川教授の後任なのだと思う。
その助教授の前任校は、秋田公立美術工芸短期大学。
石川市長の親戚の後任者が、石川市長が開学させた大学から赴任したとは、なかなか奇遇ではないだろうか。
死因は未発表だが、「急逝」とツイートしている政治関係者がいる。
11月3日付 秋田魁新報 社会面には、死亡記事と「評伝 「草の根」を掲げ多くの支持得る」が掲載された。遺族による死亡広告や、死亡届に基づくおくやみ欄掲載はなかった。東京の病院で亡くなったとの報道もあり、秋田から転出していたのだろうか。5年くらい前だろうか、市内でお見かけしたのが最後だった。公式ホームページは2015年頃、公式ブログは2016年7月21日でそれぞれ更新停止。
石川氏は、秋田県五城目町馬場目生まれ。千葉大学助手を経て、1983年から参院選や市長選に出馬するも落選。前市長の病気辞職後に秋田市長となり計3選。3期目途中(残り1年)で女性への現金授受騒ぎが起きて、妻の介護を理由に辞任。その後、秋田県議会議員を1期務めた(前後に衆院選や県議選で落選)。
といった経歴。
なお、出生地はWikipediaでは「日外アソシエーツ」を出典として「五城目町字杉沢」としているが、大字の「馬場目」が抜けていることになる。
秋田市長としての業績は、秋田公立美術工芸短期大学(現・秋田公立美術大学)の開学、中高一貫校・御所野学院の開校が挙げられよう。Wikipediaでは美短は触れていない。【2022年2月10日追記・市立美術工芸専門学校を短大化した経緯について、秋田魁新報「シリーズ時代を語る・青木隆吉18」より】1986~1989年度に在職していた専門学校長に対して、高田市長から「学校の将来について考えてほしいとの話があり、それが短大構想の始まりだったようです。」とあり前市長時代から内々で話は出ていたようだ。公約にした石川氏が当選し「短大構想は急速に具体化しました。」。
魁では2000年に「国連軍縮秋田会議」を開催したことも挙げていたが、記憶にない。
振り返ってみれば、そのほかにもいろいろある。前任者時代から進んでいた事業だが、秋田市出資の第3セクター企業による、ポートタワーセリオンやクアドーム・ザ・ブーン、太平山スキー場オーパスのオープンも任期中。
秋田新幹線開業は秋田県主体だが、開業と同時の秋田駅舎改築も(高架化も検討されたが、橋上駅舎に収まった)。開業日(関連記事)の秋田駅ホームのテープカットでは、石川氏は上が茶色・下がベージュ色の羽織袴姿で、ミッキーマウスとともに異彩を放っていた。
古紙など資源化物(資源ごみ)の回収品目の充実、救急救命士と高規格救急車の導入は、どちらも全国的に早いほうだった。国が進めたことだが中核市移行は全国第2弾。
以前、「きらめく北の人間都市あきた」という市のキャッチフレーズを取り上げた。1991年度策定の「第7次秋田市総合計画」が初出で、2001年頃まで使われたとしたが、石川市長の在任期間と一致する。
バブル崩壊の直前に就任したわけで、以降、日本経済も秋田市も衰退し続ける中での仕事だったことになる。
上記3セクの経営は悪化した。就任前に街びらきしていた御所野ニュータウンには、イオン秋田ショッピングセンター(現・イオンモール秋田)がオープンし、(イオンだけが原因ではないと思っているが)秋田市中心市街地は衰退した。郊外移転した秋田赤十字病院跡地には、「芸術文化ホール」構想も出たが立ち消え、退任後も長く空き地が続いた。
そして、秋田市の公営企業であった、秋田市ガス局と秋田市交通局(秋田市営バス)を廃止し、民間企業へ移管したのは、石川氏の決断であった。その結果、ガスはともかく、バスの現状は…
全国的な流れもあったし、いろんなしがらみや抜き差しならない事情もあっただろうから、石川氏自身がどうしても民間移管したかったわけではなかったかもしれない。
市長退任後の石川氏は、自転車(※)のほか路線バスで出歩くことが少なくなかったようで、駅前のバス乗り場で何度も見かけ、車内で乗り合わせたこともあった。「あんたが決めた結果がこのありさまだよ」と思ってしまったけれど。※魁には自転車で初登庁する姿が話題になったとあったが、秋田テレビでは市役所正面の広場方向から歩いて初登庁する映像が流れた。その後も自転車通勤(保戸野八丁の市長公舎=現・保育園から)することがあったとは聞いている。
良くも悪くも、今の秋田市があるのは、多かれ少なかれ石川氏の力があったことになる。自分が子どもから大人になる時期の市長だった人の記憶を留めておくことにしたい。
【2023年10月22日追記】秋田市の人口が30万人を突破したのが1989年。2002年まで増加を続けた。その後、2005年に河辺雄和両町と合併したものの、減少が続き、2023年には30万人を切ることになる。石川氏在任中は、人口としては増え続けていた時代。
石川氏の訃報を受けても、ネットでもマスコミでも、市長時代の業績に関する言及はかなり少ないと思った。仮にも県庁所在地の20年前の市長なのに、もうすっかり過去の人なんだろうか。
秋田市長は石川氏の前が高田景次氏(1973~1990年。2003年没)、後が現秋田県知事の佐竹氏(2001~2009年)、その後が現職の穂積氏。
秋田市長経験者で存命なのは、佐竹氏だけになった。でも、佐竹氏=秋田県知事が定着してしまったから、佐竹氏が秋田市長だったことも、すっかり忘れられていることでしょう(実際、“腰掛け”市長だったと思う)。
【10日追記】11月10日付 秋田魁新報 文化面に歌人の佐佐木幸綱氏による「石川錬治郎さんを悼む/ほろ酔いの身を翻し」が掲載。2人は早稲田大学で同級生だったとのこと。1998年に秋田市で「日本文化デザイン会議・秋田会議」が開かれ、その後石川氏が「日本ほろよい学会」を立ち上げ(よく知らないけど会議も学会も名前は聞き覚えある)、佐佐木氏も関わって親交が深まったといった内容。
以下、石川氏に関する個人的エピソード2題。
我が家では、石川氏がしゃべる姿をテレビで見聞きする時、話題になることがあった。
この人、かなりなまる。
なまると言うのは、イントネーションではなく、言葉に濁点が付くような。「わだずが、あきたすちょうのいすかわです」みたいな。秋田の人でそう話す人はいなくはないが、石川氏はかなりきついほうだった。
ずっと秋田にいる・いた人なら、まあそれも当然。でも、東京の大学を出て、千葉で大学の先生をしていた人。
大学の講義でしゃべることもあったろうに、なまりが抜けることがなかったのか、それが学生にどう思われていたか…
ところで、菅前首相は、秋田弁風(純粋な秋田弁ともまた違うようにも感じる。少なくとも秋田の人がみんなああいう話しかたではない)のイントネーションが抜けない。
このかたも、高校卒業後秋田を離れ、ずっとあちらにいたのに抜けず、そのしゃべりで何度も選挙を勝ち抜いて、内閣総理大臣にまでなった。首相就任時の東京での街頭インタビューでは「なまりが素朴で親しみが持てる」などと好意的な声があったのにも驚いた。それならば、もっと心をこめて、真に“丁寧な説明“をしてくれれば、もっと好感度が上がったのでは?
東北の人は、自分のなまりや方言をコンプレックスに感じることが多いもの。そして秋田県人は「いいふりこき(見栄っ張り)」で方言を隠したつもりで、うっかり使ってしまうこともある。
だけど、このおふたかたの話しぶりには、それらが感じられない。堂々となまっている。見習うべきかもしれない。
石川氏の大学教員時代の専門分野は、公式プロフィールでも「千葉大学園芸学部」までであまりはっきり示されないことが多かった。魁の評伝などにある通り「農業経済学」が専門。
千葉大の園芸学部は、他大学の農学部と同義。
農学系と言えば、生物や化学的分野が連想されるが、それ以外にも幅広い。土木や機械の農業工学、そして農業経済学というのもある。農学系唯一の社会科学系(文系なんだろうけど、入試は理系科目だったりする大学も)。
2000年頃の弘前大学農学生命科学部では、農業経済学分野に5名の教官が配置されていた。農政、経営、流通、協同組合、農村社会学などを研究していた。概論的な授業を受けたことがあるが、個性的で話が上手な先生が多く、おもしろかった。そのおひとりが「ペルーのフジモリ大統領(当時)も農業経済学者(今調べたら、農業工学の数学が専門のような情報も)。農業経済を学んで政治家になる人も多い」と話していた。石川氏もそのひとりであり、フジモリ氏とほぼ同年代、市長・大統領就任期間もだいたい重なる。
石川氏のさらに細かい専攻が、農業経済の中のどの分野だったのかは分からないが、どんな講義だっただろう。
ところで、その頃の弘前大学の教育学部(学校教育 発達心理学分野)には、石川教授という教官がいらして、共通教育(旧・一般教養)の授業を受けたことがあった。
その石川先生は、なんと石川錬治郎氏の親戚らしい。
といっても、確証は1つもない。
石川教授は、なまってはいなかったと思うし、お顔が似ているわけではなさそうだったし、秋田出身だとか話した記憶もない。
ただ、情報源は学生間の噂話レベルではなく(弘前で秋田市長が誰かなどどうでもいい話)、信頼の置ける人から直接伺った話(「親戚らしい」の形だけど)だから、僕は信じている。
石川教授は、1998年度(1999年3月)で停年退官(定年退職)。錬治郎氏より6歳ほど年上。
「学園だより 第123号」に退職に当たっての文章を寄せている。それから分かったのは、1959年に仙台から弘前へ来て、以後40年間在職したことくらい。
さらにもう少し関連。
1999年4月、弘前大学教育学部に新しい教官(当時の職名・助教授)が着任した。発達心理学ではなく、教育心理学という分野所属のようだったが、石川教授の後任なのだと思う。
その助教授の前任校は、秋田公立美術工芸短期大学。
石川市長の親戚の後任者が、石川市長が開学させた大学から赴任したとは、なかなか奇遇ではないだろうか。