先月の徐行標識に続いて、才八橋周辺、楢山地区東の橋や川以外の話題。才八橋のすぐ南側、道路がかなり狭くカーブが多い一帯から2題。
以前、少し珍しい郵便ポストの記事の中で、秋田市内では10本あるかどうかの「郵便差出箱11号」を取り上げた。投函口が1つで、箱が大きい(脚が短い)現行型。
その1つが、この狭い道の狭い建物際に横向きで設置されていた。
(再掲)民地のすき間に絶妙に収まっている
昔はお店だったお宅だろうか。横向きなのは、デッドスペースを生じさせず、かつ側面の回収扉を開閉できるためだと考えられるが、ポスト背面の隣の塀との位置関係などが絶妙。
そのポスト、2019年9月のGoogleストリートビューで存在を確認できるが、今はなくなっていた!(家はあるかどうかは確認しなかった)
そこから南へ100メートルほどの道路向かい側。かつて走っていた小型バスが曲がっていた丁字路(実は十字路?)辺りに、
新しいポストが!
いちばん小さい「郵便差出箱14号」。
秋田市内の他の11号も交換が進んでおり、投函される郵便物が減ってしまった現状では、妥当なサイズだろう。ここでは、それに加えて、以前設置していた家の都合もあって、新たにこちらが場所を提供することになったようだ。「ポストマップ」サイトには2020年4月に登録。
向かって左に、ポストが設置された敷地のブロック塀、右には隣の家の板塀があり、2つの塀に挟まれてぴたっと収まっている。14号は扉が前面にあるので、この設置ができる。
脚が埋めこまれた土台は新しいが、道路より1段高い。それなのにポストの脚は短縮されず通常のようなので、投函口が標準よりは高くなっているはず。
この状況を見れば、設置場所を提供したお宅のブロック塀の右端を、ポストの幅分だけ撤去したと思うでしょう。
Googleストリートビューを見ると、
2015年8月
そうではなく、以前から同じ幅だけすき間があった! 勝手口みたいなのだろうか。
なお、さかのぼった限り、塀は変わっていないが、この土地には2012年10月には民家が建っていて、2015年8月までに家がなくなって、今のお庭に変わっていた。
以前のポストも絶妙な置き方だったけど、新しいほうもなかなか。
郵便局の人が、たまたまこのすき間を発見して「こここそポストを設置する場所だ!」となったのか、それとも前のポストの家の人などに「どこかにポストを設置できる場所はないでしょうか?」と当たって紹介されたのか。どちらにしても、(側面扉でない)小さなポストを設置するためにあったような、運命的なすき間だ。
もう1つは、その丁字路。
背後が才八橋。駅から来たバスは、ここを左折していた
上写真右のカーブミラーに注目。
緑色赤枠の矢形の看板がくくりつけられている
文字はほぼ消えているが、「秋田中央」とか見覚えのある車輪の社章…
そう。路線バスが走っていた当時、運行中に道を間違えないように案内する看板だ。
秋田では、市営バス時代から、本数が少なかったり、道がこみ入った箇所に、このような看板が見られた。
中央交通移管後に、中央交通仕様のものに交換されたようだが、同様の泉山王環状線では違う形状のものが設置されていた。
(再掲)泉山王環状線にあった矢印
緑の看板を見ると、「秋田中央交通」のほかにも、文字の痕跡がある。
縦書きで、手書きっぽい角ゴシック体で「中央交←秋田←手形山←大学病」と読める。
裏側は、
やはり文字が薄れ、下に痕跡があり、表面とは逆向き。「中央交」は見当たらず、最初が「秋田駅(駅の字も確認できる)」、最後が「大学病」。
板を固定する針金がサビて、カーブミラーの支柱にサビを移してしまっている
元は別の表示板だったことになり、下が途切れているから、もともとはもっと縦に長い板だったのを、転用時に切断している。
元の板が手形山経由大学病院線の経路を、裏表で往復で示しているらしいが、どの場面で使われていたが、想像できない。
「中央交(通)」があるから、市営バス時代ではなさそうだが、単に「中央交通」とは? 昔なら、長崎屋バスターミナルの場所を指していた可能性があるが、移管後は「大川反車庫」が一般的だろう。
手形山団地線は、移管前は市営バスの独壇場で、中央交通は入らなかったエリアのはずだし…【下の追記に正解が】
時代はともかく、設置場所も思いつかない。
裏表で往復だから、弘南バスのように車体側面などに掛ける「サボ(サイドボード)」のようにも見えるが、秋田で使われたことはあっただろうか。
謎の板。
【13日追記】コメントをいただき解決。「手形山」は「手形山崎」ではないかとのこと。それならば、以前から中央交通が運行している、三吉神社入口経由(かつては谷内佐渡も通っていた、今の赤沼線、太平線など)の経路と一致する。また、1980年より前の車両では、側面は幕でなくサボを使っていた(設置枠があった。後に方向幕を追加設置)とのこと。
「手形山」を「手形山団地」と決めつけてしまったことで、辻褄が合わなくなっていたのだった!
つまり、昔の中央交通で、車体側面の表示板として使っていた板が、数十年ストックされて転用されたことになる。(以上追記)
路線は2018年9月で廃止され、撤去を忘れられ、2年経っても放置。立つ鳥跡を濁さず、撤退する路線跡を濁さずではないでしょうか。
以前、少し珍しい郵便ポストの記事の中で、秋田市内では10本あるかどうかの「郵便差出箱11号」を取り上げた。投函口が1つで、箱が大きい(脚が短い)現行型。
その1つが、この狭い道の狭い建物際に横向きで設置されていた。
(再掲)民地のすき間に絶妙に収まっている
昔はお店だったお宅だろうか。横向きなのは、デッドスペースを生じさせず、かつ側面の回収扉を開閉できるためだと考えられるが、ポスト背面の隣の塀との位置関係などが絶妙。
そのポスト、2019年9月のGoogleストリートビューで存在を確認できるが、今はなくなっていた!(家はあるかどうかは確認しなかった)
そこから南へ100メートルほどの道路向かい側。かつて走っていた小型バスが曲がっていた丁字路(実は十字路?)辺りに、
新しいポストが!
いちばん小さい「郵便差出箱14号」。
秋田市内の他の11号も交換が進んでおり、投函される郵便物が減ってしまった現状では、妥当なサイズだろう。ここでは、それに加えて、以前設置していた家の都合もあって、新たにこちらが場所を提供することになったようだ。「ポストマップ」サイトには2020年4月に登録。
向かって左に、ポストが設置された敷地のブロック塀、右には隣の家の板塀があり、2つの塀に挟まれてぴたっと収まっている。14号は扉が前面にあるので、この設置ができる。
脚が埋めこまれた土台は新しいが、道路より1段高い。それなのにポストの脚は短縮されず通常のようなので、投函口が標準よりは高くなっているはず。
この状況を見れば、設置場所を提供したお宅のブロック塀の右端を、ポストの幅分だけ撤去したと思うでしょう。
Googleストリートビューを見ると、
2015年8月
そうではなく、以前から同じ幅だけすき間があった! 勝手口みたいなのだろうか。
なお、さかのぼった限り、塀は変わっていないが、この土地には2012年10月には民家が建っていて、2015年8月までに家がなくなって、今のお庭に変わっていた。
以前のポストも絶妙な置き方だったけど、新しいほうもなかなか。
郵便局の人が、たまたまこのすき間を発見して「こここそポストを設置する場所だ!」となったのか、それとも前のポストの家の人などに「どこかにポストを設置できる場所はないでしょうか?」と当たって紹介されたのか。どちらにしても、(側面扉でない)小さなポストを設置するためにあったような、運命的なすき間だ。
もう1つは、その丁字路。
背後が才八橋。駅から来たバスは、ここを左折していた
上写真右のカーブミラーに注目。
緑色赤枠の矢形の看板がくくりつけられている
文字はほぼ消えているが、「秋田中央」とか見覚えのある車輪の社章…
そう。路線バスが走っていた当時、運行中に道を間違えないように案内する看板だ。
秋田では、市営バス時代から、本数が少なかったり、道がこみ入った箇所に、このような看板が見られた。
中央交通移管後に、中央交通仕様のものに交換されたようだが、同様の泉山王環状線では違う形状のものが設置されていた。
(再掲)泉山王環状線にあった矢印
緑の看板を見ると、「秋田中央交通」のほかにも、文字の痕跡がある。
縦書きで、手書きっぽい角ゴシック体で「中央交←秋田←手形山←大学病」と読める。
裏側は、
やはり文字が薄れ、下に痕跡があり、表面とは逆向き。「中央交」は見当たらず、最初が「秋田駅(駅の字も確認できる)」、最後が「大学病」。
板を固定する針金がサビて、カーブミラーの支柱にサビを移してしまっている
元は別の表示板だったことになり、下が途切れているから、もともとはもっと縦に長い板だったのを、転用時に切断している。
元の板が
「中央交(通)」があるから、市営バス時代ではなさそうだが、単に「中央交通」とは? 昔なら、長崎屋バスターミナルの場所を指していた可能性があるが、移管後は「大川反車庫」が一般的だろう。
手形山団地線は、移管前は市営バスの独壇場で、中央交通は入らなかったエリアのはずだし…【下の追記に正解が】
時代はともかく、設置場所も思いつかない。
裏表で往復だから、弘南バスのように車体側面などに掛ける「サボ(サイドボード)」のようにも見えるが、秋田で使われたことはあっただろうか。
【13日追記】コメントをいただき解決。「手形山」は「手形山崎」ではないかとのこと。それならば、以前から中央交通が運行している、三吉神社入口経由(かつては谷内佐渡も通っていた、今の赤沼線、太平線など)の経路と一致する。また、1980年より前の車両では、側面は幕でなくサボを使っていた(設置枠があった。後に方向幕を追加設置)とのこと。
「手形山」を「手形山団地」と決めつけてしまったことで、辻褄が合わなくなっていたのだった!
つまり、昔の中央交通で、車体側面の表示板として使っていた板が、数十年ストックされて転用されたことになる。(以上追記)
路線は2018年9月で廃止され、撤去を忘れられ、2年経っても放置。立つ鳥跡を濁さず、撤退する路線跡を濁さずではないでしょうか。
大住や茨島や泉で見ました。
謎の板、これ方向幕臭い感じがしますが、いかがか。
さて、和田図書館で「橋物語」を発見しました。
たびたび上がる旭川の不気味な魚礁の話も書いてましたが、興味深いのは前に軽く書いた3丁目橋の欠陥の話。
ひみつ基地とかぶる部分がありましたが、なかなか面白いです。
1990年前後の秋田、歩きたいです。
裏表で往復なことからすれば、車体掲出用の幕というかサボの可能性が高いです。でも、内容や移管したことを考えると、時期的に一致しない気がするのです。
三丁目橋は特徴的でした。20年ほど前架替えの五丁目橋は、記憶にありません。通町橋は記憶にあるものの、インパクトでは三丁目橋にはかなわない。
弘前市立中央公民館というところでは、ツイッターで昔の弘前の街並みの写真を紹介してくれていて、知っている街の知らない時代を知ることができて、感心しています。秋田市でも、オフラインでもいいからそういうことができるといいのですが…
今の巻き取り式になる前の時代、終点について
1枚1枚変えていたとしたら(推測です)
今回の管理人さんの書込みで謎の板が気になり、当時保存していたページを見てみたところ、1970年代前半頃までに導入された中央交通の車両には、弘南バスのようなサボ入れが後部ドア付近にあったようです。
中央交通は、市営と違い側面方向幕は後付けで設置されていた記憶がありますので、それ以前の車両で用いられていたものを捨てずに社内で保管していたのではないでしょうか。
管理人さんが、中央交←秋田←手形山←大学病 と書かれていた内容ですが、私の昔の記憶と合わせてみると、こんな感じで書かれていたのではないかな?と思っています。
中央交通前←秋田駅前←手形山崎←大学病院(前)
・中央交通も大学病院には昔から乗り入れしていましたが、管理人さんも仰っているとおり、手形山経由が含まれたのは市営移管後からであり、昔は県道経由のルートしかありませんでした。
ですので「手形山」の後ろに続く文字は、主要な経由地の「崎」ではなかったのかなぁ、と思われます。
なお、中央交通が秋田駅前ターミナルで1バースしか利用できなかった頃は、「大学病院には近くて早い中央交通をご利用ください」のような看板を立てていた記憶があります。
(手形山経由の市営よりも早く着くことをPRしたかったのではないかと)
・中央交通の秋田営業所が大川反に引っ越す前の全面方向幕は「中央交通前」となっていました。
(前述ホームページの過去画像でも確認しました)
・中央交通は方向幕時代は一貫して「秋田駅前」という表記でしたので、サボも「秋田駅前」ではなかったのかな、と思います。
憶測ではありますが、楽しみながら推察させていただきました。
サボ受けがあったのは、1980年式の丸いモノコック車両までだったようです。
その後、市営でも大量導入された日野レインボー(1つ目)が中央交通にも納入された頃から、側面方向幕付きとなったようです。
側面の表示板としては、時系列・ルートの点から辻褄が合わないと思い込んでいました。
神田線沿線住民さんからのご指摘で、すべて解決しました。側面の行き先表示板で間違いないです。
>神田線沿線住民さん
「手形山崎」で一気に解決、腑に落ちました。
「手形山」か「手形山団地」だと決めつけて、だから市営バスだと決めつけて、だったら「中央交通」があるのはおかしいと思っていました。
手形山崎なら、中央交通の路線用として成立します。使わなくなって数十年保管していた板を、切断して転用してしまったことになりますね。
側面幕でも、市営バスのほうが先進的で、導入が早かったのでしょう。(弘南バスなど、減りつつも今も現役ですが。)
中央交通の側面幕は、市営より小型で、(移管開始前は)多くが経由地なしの行き先だけだったと記憶します。でも、レインボーの一部で、市営と同サイズの経由地あり・大型幕だった車もあったようで、写真を見たことがあります。
昔の中央交通のことは、ほとんど興味も記憶もなかったので、たいへん役立つ情報をいただきました。ありがとうございました。