🌸江戸時代のキリシタン1(苦闘と闇の中での光)
☆家康死去直前江戸幕府はキリスト教禁止令を出し禁止令を徹底させる
*秀吉の「伴天連追放令」の踏襲
*布教の禁止から信仰そのものの禁止へと踏み込んだ
☆背景には、金地院崇伝などの学僧や外交顧問の脅威の吹込みがあった
*外交顧問(リーフデ号で漂着した英国人ウィリアム・アダムス(三浦按針)等)
☆江戸初期の朱印船貿易の時代に、約7万人ともいわれる日本人
*アジアに展開する「日本の大航海時代」があった
*交易は続けたいが、カトリックの宣教師の浸透力と
*背後の南蛮の脅威は払拭したいという葛藤の中で
*徳川政権の政策は揺れ動いていた
☆「鎖国」を決定づけ、徹底したキリシタン弾圧へと踏み込む転機
*天草・島原の乱で幕府の恐怖心は尋常ならざるものとなった
*島原の乱におけるオランダの活躍が幕府の猜疑心に火を点けた
*オランダ商館が動かしうる新型大砲の威力に脅成を感じた幕府
*ポルトガル人追放後の長崎出島に平戸の商館を移転することを命じ
*以後二〇〇年間以上もの間、オランダは出島に活動を封じ込めた
⛳神父たちの過酷な運命(壮絶な棄教と殉教)
☆幕府は、宣教師や日本人キリシタン約150人をマカオやマニラに追故した
☆キリシタン大名高山右近やその一族もマニラに追放した
*加賀前田家に仕えていたキリシタン武士等が津軽に流刑となる
☆三代家光の時代に入って幕府の弾圧は一段と激化
*江戸での潜伏活動のアンジェリス神父や原主水などを公開火炙りとした
☆峻厳な処刑に震撼した諸大名もキリシタン抹殺への意思を固め
*仙台の伊達、米沢の上杉も弾圧へと動いた
☆島原の乱で殺分された約3万人以外に
*江戸時代を通じて処刑されたキリシタンは約6000人と推計される
*斬首、火炙り、吊しで殉教していった
☆宗教に対し八百万の神を奉ずる日本人は「寛容」だという議論があるが
*「お上(権力)」の権威付けと「民衆」の無知が一体となって
*異端者の排除に向かうと、異様な集団的狂気が爆発する傾向がある
☆教義には融通無碍な日本人
*時代の空気には付和雷同するという意味で日本も恐ろしい国である
⛳支配体制の確立の道具としての禁制
☆幕府はキリスト教禁制を巧みに支配体制の確立に利用した
*「宗門改め」を制度化し、庶民一人一人を寺請・檀家制度に組み入れて
*寺院を中心に地域の支配機構を形成し
*徳川幕府という政治権力体制を構築した
*江戸期が長期安定を維持しえた要因の一つがここにある
☆禁制下を生き延びたキリシタンを「隠れキリシタン」と表現する
*仏教・神道、民間信仰と融合して、まったく異なる民俗宗教となった
*独自の力強い民族宗教に進化するプロセスも生まれなかった
*「カクレキリシタン」として埋没するしかなかった
☆日本のキリスト教徒が人口の1%に満たない113万人の理由
*欧米の教会(総本山)に依存する教義と活動の枠組から変容しきれないこと
*関係しているのではないだろうか
*世界のいかなる国・地域でも
*伝来と普及、浸透の過程で、独自の変容と発展を見せる
⛳日本における壮絶なキリスト教弾圧の歴史
☆17世紀、イエズス会をはじめカトリックに衝撃を与えた事件
☆フェレイラ神父の棄教で「転び」、神父は背教者となった
*その後、日本人と結婚して沢野忠庵と名乗り
*30人扶持の長崎奉行所御用人(「キリシタン目明し」)となって
*キリシタンの取締りに協力、残虐な弾圧の手先に転身した
*彼の背教は、カトリック教会全体にとり、不名誉な苦痛であった
☆若い修道士らは競って日本派遣を志願した
*マストリリ、ルビノ他三神父は日本に港入したものの捕縛された
*拷問のあげく斬首という残酷な仕打ちを受け、全員殉教者となった
☆筑前に上陸した四神父は、フェレイラ等によつて江戸に護送された
*宗門改役の尋問と誘惑で全員が転び
*小日向の屋敷に収容され、日本人妻を要つて余生を送った
*キャラ神父は日本名岡本三右衛門、遠藤周作の『沈黙』の主人公のモデルとなった
*踏み絵を「踏むがいい」というキリストの悲しげな囁き
*「愛のための棄教」は、あまりに重い一撃であった
(敬称略)
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⛳出典、『人間と宗教』
江戸時代のキリシタン1(背教)
(ネットより画像引用)