🌸後醍醐天皇と児島高徳「呉越同舟」
⛳教育でも「三つ子の魂百まで」
☆後醍醐天皇は、戦前では神でした
☆天皇の建武政権を破滅させた足利尊氏は日本史上第一の大悪党
☆戦前「足利尊氏は再評価に値する」書いた商工大臣、大臣を辞任した
☆戦後、皇国史観が退場し足利尊氏が再評価されても
*後醍醐天皇は基本的に「改革を志した英傑」のままである
☆3年持たなかった建武政権は、本来「ダメな」政権と評価されるはずなのに
☆唯物史観を信奉する先生たちの間でも「英傑」の評価は続いている
☆「三つ子の魂百まで」が心の奥底に残り続けるからと思う
☆後醍醐天皇の政治評価はさておいて
*後醍醐天皇は、信念の人、果敢に行動する人であった
☆備前国児島郡に児島高徳という武士がいた
*彼は後醍醐天皇に心を寄せ、隠岐島への道中で天皇を助けようといた
*警護が厳しくうまくいかないので
☆天皇の宿所に潜人し「天莫空勾践 時非無范蠡」木に記載した
(天勾践を空しゅうすること莫れ時ときに范蠡無なきにしも非あらず)
*天は越王・勾践にしたように、決して帝をお見捨てにはなりません
*范蠡の如き忠臣が現れ、帝をお助けする事でしょう
☆戦前この詩句が用いられていた小学校に筆者の母在籍していた
*筆者の母親、昭和6年の生まれ
*40歳のとき、正確に唄って聞かせてくれた「三つ子の魂百まで」だ
⛳「呉」に従うふりで国力を蓄える「越」
☆蘇州を都とする呉という国(王様、闔閭)
*当時の超大国・楚を圧倒を強国にのし上げた
*楚と争う呉の背後から、新興の越が攻撃をかける
*闔閭は、このとき受けた傷がもとで亡くなる
*闔閭の子の夫差は復讐を誓い越を減亡寸前まで追い詰める
*越の子の勾践が謝罪してきたため、夫差は彼の命を助けた
☆勾践は屈辱に耐え、呉に従うふりをして国力を蓄えていた
*夫差はそれに気付かず中国北部へ進出
*夫差が足元への注意を怠るうちに
*越は呉に攻勢をかけ、首都を陥落させた
☆呉は越のために減びた
*勾践は1度は夫差の奴隷に身を落とされますが、呉を減ぼす
☆先の児島高徳の語句は、それを表現したもの
*呉と越の激しい戦いは有名な故事「呉越同舟」を生み出す
☆「臥薪嘗胆」
*越に復確言を誓った当時の夫差薪の上で寝る痛みで
*父を討たれた屈辱を思い出した
*1度は夫差に敗北した勾践は、富国強兵に励む一方
*苦い胆を嘗め、屈辱を忘れないようにした
*二つが合わさって、臥薪嘗胴という言葉ができている
(敬称略)
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⛳出典、『THEMIS9月号』
後醍醐天皇と児島高徳「呉越同舟」(ネットより画像引用)
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