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「招婿婚」「摂関政治」「院政」

2024年01月31日 | 歴史
🌸『源氏物語」の時代は恋愛至上主義(4)

『要旨』
 ☆平安時代の婚姻スタイル「招婿婚」 
 *男性が女性のもとに通う婚姻スタイル
 *契りを交わす段階で、初めて相手の顔を確認する
 *一度関係を持っても婚姻関係にはならず、その後もお付き合いが続く
 *女性が「この人は特別に良い」と思うと、女性側の両親が登場する
 *招婿婚とは、基本的には女性やその両親がリードして成立する
 ☆家族形態として招婿婚は定着せず、平安時代を過ぎると、
 *現代の私たちが知るような、男系で代々の家が続いていった
 ☆招婿婚の時代に行われた摂関政治
 *天皇の母方の祖父が権力を握る形態でした
 ☆家族形態が直系家族へと変化し、婚姻制度が嫁取婚へと変化し
 *母方の存在感が弱まるうちに、 摂関政治も力を失っていった
 ☆藤原道長といえば、摂関政治の最盛期を築いた人物
 *息子頼通の晩年に台頭するのが、天皇の父や祖父が権力を握る「院政」
 ☆藤原氏は、摂関政治という脆弱な権力体制を使い続けてきた理由
 *藤原氏の人々には「家」という感覚が希薄であった
 *「家」への希薄な想いが、藤原氏の緊張感を奪い院政を台頭させた









「招婿婚」「摂関政治」「院政」
(『英雄たちの選択』『ザ・プロファイラー』ネットより画像引用)

平安時代の婚姻スタイル「招婿婚(しょうせいこん)」
 ☆恋愛が重視された平安時代の婚姻制度
 *持統天皇の時代以降、日本の天皇家をはじめとする家族形態
 *「単婚小家族」形態から「直系家族」家族形態へと移行した
 ☆過渡期に登場した婚姻形態、平安時代の「招婿婚」
 *招婿婚は、男性が女性のもとに通う婚姻スタイル
 ☆平安時代の結婚の成り立ち
 *「この家には素敵な女性がいるらしい」との噂を聞きつけた男性
 *その女性に歌を贈り、女性の心を動かせば、女性は男性に返歌を贈る
 *男女の間で和歌のやり取りが数回行われた後、男性が求愛する
 *女性から「うちに遊びにいらつしゃい」という誘いがあれば 
 *男性が女性の家に忍んでいき、関係を持つ
 ☆契りを交わす段階で、初めて相手の顔を確認する
 *一度関係を持っても婚姻関係にはならず、その後もお付き合いが続く
 *女性が「この人は特別に良い」と思うと、女性側の両親が登場する
 *「露顕(ところあらわ)し」という儀式を経て、
 *両親が「この男は良い男だな」と考えれば、婚姻は成立する
 ☆子どもができたら、女性の両親の家で育てるのが一般的
 *その子が成長すると、母方の家の財産を相続することができた
 ☆招婿婚とは、基本的には女性やその両親がリードして成立する
 *女性の家で子どもが育つ、女系の血筋で家がつながることを意味している
 ☆仮に女性の血筋で家がつながっていたのであれば
 *当時の家系図も女性の系図で残されてもおかしくない
 *天皇家はもちろん、藤原氏や大伴氏も、男性の系図しかない
 *家自体は女性の間でつながっていくのに、家系図は男性でつながる
 *これは、非常にいびつで、不完全な状態です
 ☆家族形態として招婿婚は定着せず、平安時代を過ぎると、
 *現代の私たちが知るような、男系で代々の家が続いていった
 ☆大きな歴史の過渡期に生まれた″バグ″であった招婿婚
 *日本の歴史から姿を消した

摂関政治から院政へ、その裏にあった婚姻制度の変化
 ☆招婿婚の時代に行われた摂関政治
 *天皇の母方の祖父が権力を握る形態でした
 ☆家族形態が直系家族へと変化し、婚姻制度が嫁取婚へと変化し
 *母方の存在感が弱まるうちに、 摂関政治も力を失っていった
 ☆天皇の母方の祖父が権力を握る摂関政治から
 *天皇の父方の祖父や父などの尊属が権力を持つ院政へと移り変わった
 ☆政治形態が変わった大きな理由
 *摂関政治の不安定さにあったのでは
 *摂関政治は娘が生まれ、その娘が天皇の子どもを身ごもり完成するも
 *非常に偶然性に左右されやすい脆弱な政治形態
 ☆藤原氏は平安時代の後期になると急速に力を失っていく
 *その原因は「次期天皇が生まれなかったから」だ
 ☆藤原道長といえば、摂関政治の最盛期を築いた人物
 *「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
 *栄華は、宇治の平等院鳳凰堂を建てた道長の息子・頼通の時代まで 
 *頼通の晩年に台頭するのが、天皇の父や祖父が権力を握る「院政」
 ☆院政が始まるきっかけは、皇族の両親を持つ後三条天皇の存在です
 *後三条天皇は、藤原氏を母現を持たない天皇として即位した
 *皇族の血の強い天皇が即位すれば、当然藤原氏の権力は弱体化する
 ☆藤原氏は後三条天皇の即位を阻止できなかった理由
 *藤原氏の血を引く天皇家の男児が生まれなかったから
 *摂関政治が偶然性に頼り過ぎていて、脆弱な政治構造だった

藤原氏の緊張感を奪った「家」に対する希薄な想い
 ☆藤原氏は、摂関政治という脆弱な権力体制を使い続けてきた理由
 *藤原氏の人々には「家」という感覚が希薄であった
 *鎌倉時代以降の武士の時代では「家」をつなぐことが重要視された
 *平安時代の貴族にとっては、「家をつなぐ」という感覚が薄かった
 *だからこそ、この不安定な政治システムを保持していた
 ☆道長も、娘に天皇の子どもを産ませようと尽力しましたが
 *「自分の権力のため」で、「藤原氏の権力のため」ではない
 *藤原氏の考え方、鎌倉時代以降の武士たちとはかけ離れた
 ☆両者の違いの根底にあるのも、婚姻形態の違い
 *平安時代の招婿婚は、いかに子どもが生まれようとも
 *その子は妻の実家にいるので毎日会わない
 *「自分の子」という感覚は、後世よりも希薄だった
 ☆藤原道長にしても、頼通も家のほかにも違う女性とも関係があり
 *その間に頼宗という息子が生まれている
 ☆各家の当主には、「自分が偉くなりたい」気持ちばかりが先立ち
 *「子孫のために何かを頑張ろう」との気持ちはあまりなかった
 *「家」への希薄な想いが、藤原氏の緊張感を奪い院政を台頭させた
                       (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
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⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『愛憎の日本史』

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