🌸源頼朝が政子を大切にした理由(3)
『要旨』
☆毛利季光、妻の実家に義理立てし戦いに敗れ亡くなった
*妻を介した家と家が結びつく力は強い時代(妻の権力強い)
☆武士が戦に出たら、命をかけ、相手を殺すまで戦う
*武士の命奪っても、関連する女性・子どもに手を出さなかった時代
☆頼朝の娘を嘆き悲しませた木曽義高(子ども)の殺害
(木曽義高)
「毛利季光」「宝治合戦」「三浦家」「木曽義高」
(ネットより画像引用)
⛳毛利季光、妻の実家に義理立てし亡くなった
☆当時の女性の存在感の高さを表す出来事
☆当時の女性の存在感の高さを表す出来事
☆毛利季光
*神奈川県にある毛利台に所領を持っていた人物
*彼は鎌倉幕府を支えた大江広元(文官)の息子
*彼は武芸に励んで、立派な武士になり結婚した
*関東の御家人で有名な家である三浦氏から妻を娶る
*父大江広元は幕府で文官としてはナンバーワンの地位
*有力武士の三浦氏とは家の格も釣り合いは取れている
☆季光の義理の実家である三浦家
*有力武士の三浦氏とは家の格も釣り合いは取れている
☆季光の義理の実家である三浦家
*北条と戦う「宝治合戦」をする状態になった
☆季光も「北条が勝つな」と先を読み、北条に味方しようと馬を走らせた
*道中、彼は妻の実家を助けないのは道理が通らないと考え
*季光は、途中で道を変え、三浦の陣営に味方することを決めた
☆北条に楯突いた三浦は負け減びる
*季光も、敗者側の有力な武士として自害を迫られた
☆北条に楯突いた三浦は負け減びる
*季光も、敗者側の有力な武士として自害を迫られた
*毛利の家は相模国の本領を失う
☆一族の中には広島県・新潟県の領地へと向かう人もいた
☆一族の中には広島県・新潟県の領地へと向かう人もいた
*広島に行った毛利家の中から生まれたのが
*戦国武将として名を馳せる毛利元就という人物
⛳妻を介した家と家が結びつく力は強い
☆家同士の結びつきと同様、妻が持つ力が非常に強かった
*季光は三浦に味方をしなければならなかった程、妻の権力が強かった
*季光は自分の予測のもとに北条家に味方していたはず
☆武家社会で妻の地位が重視され
*存在をないがしろにすることは不名誉な事であった
⛳女性は合戦の埒外に位置する
☆武士が戦に出たら、命をかけ、相手を殺すまで戦う
⛳女性は合戦の埒外に位置する
☆武士が戦に出たら、命をかけ、相手を殺すまで戦う
*武士の命奪っても、武士に関連する女性・子どもに手を出さなかった
☆北条家のトップだった北条高時以下、880余名
☆北条家のトップだった北条高時以下、880余名
*鎌倉の東勝寺跡で揃って腹を切るという事件があった
*このときも、女性や子どもの命は助けるという原則は生きている
☆鎌倉時代位まで、女性たちは命を助けられた
*戦国時代には、女性であっても命を絶たれることが増えていく
☆例外もある
*大坂夏の陣で豊臣家が減びたとき
*豊臣秀頼に嫁いでいた千姫は殺害されることもなく
:*江戸幕府に帰ってきています
⛳頼朝の娘を嘆き悲しませた木曽義高(子ども)の殺害
☆子どもも命だけは助けられることが多かった
*男の子は殺されてしまうこともあったが
*若いときは生き延びられ、元服していれば殺される
☆木曽義仲が源頼朝と対立したとき、義仲は争いを回避するため
*若いときは生き延びられ、元服していれば殺される
☆木曽義仲が源頼朝と対立したとき、義仲は争いを回避するため
*自分の子どもである義高を頼朝の元へ人質として送った
*頼朝の長女の大姫という少女と婚約させた
☆木曽義仲と源頼朝の対立関係がより明確になると
☆木曽義仲と源頼朝の対立関係がより明確になると
*頼朝の命令で、兵を動かした弟・義経に木曽義仲が討たれた
☆武士のルールからすれば、父が敵として討たれてしまった以上
☆武士のルールからすれば、父が敵として討たれてしまった以上
*頼朝は「義高も殺す」という、非情な決断を下し殺す
☆大姫は自分の将来の夫が殺されないように、色々と手を打ったが
*義高が、殺されてしまったことに、大きなショックを受ける
(敬称略)
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⛳出典、『愛憎の日本史』
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