母や祖母から聞いた。
「昔、川崎で海苔が採れた」と。
公害の街カワサキに生まれ、
体の弱かった私を慮って、
市内南部の、まさに臨海地区から
北部の多摩丘陵エリアに転居。
つまり川崎区藤崎から
多摩区(現在は麻生区)王禅寺へ。
そんな私は、こどもながら
にわかには「川崎の海苔」を
イメージできなかったけれど、
大森の海苔を知る年頃になれば、
かつては美しかった東京湾を
思い描くことができ、
近くの大森で可能なら川崎だって
養殖はできるじゃん、と考えた。
多摩川と鶴見川の河口に挟まれた
「大師の海」と呼ばれた遠浅は
豊富な魚介類に恵まれた漁場だった。
海苔業は農閑期の副業として
明治の初期に始まり、
昭和10年頃に最盛期を迎える。
やがて重工業化に舵を切ったことで
埋立地の増加、水質の悪化など
川崎の漁業全般が衰退していく。
昭和47年、もう私はすっかり柿生の子、
前年には弟も生まれた西暦なら1972年、
漁業権は放棄された。
偶然たが、現川崎市長の生まれた年。
そして当時の市長が、伊藤三郎。
1971年、革新自治の風にも乗り初当選。
25年の多選だった前任を破った。
……のだが、その本人も5期の長期政権を
1989年、任期途中の病気辞任まで続ける。
と、ここでやっとこ前回のblog
『川崎の宇宙』に繋がるわけだが
あのまま革新市政が続いていれば、
ブルーインパルスが川崎100年に
飛ぶことはなかっただろう。
良い悪いではなく、客観的に。
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