朝日新聞のコラム記事です。
筆者の加藤真理さんはタカ長の母校、小学校の先生をされていた、、、
というのが今日の話題ではありません。筆者の父上に関する話題です。
筆者の父上、加藤武三は山の大先輩、広島の登山界の草分け的な存在で、少なくともタカ長の時代の登山者なら誰でもが知っている登山家です。タカ長にとっては雲の上の人でした。
青春のころ、加藤のガイドブックを読みながら、芸北山群と言われた山を歩いていました。今のようなガイドブックはもちろん、ネット情報などない時代では、この本は貴重な資料でした。
その中に1ページに貴重な写真があるので紹介します。
そのころの聖山です。ご覧のような草原状の山でした。この姿を知っている人は「古い登山者」です。今は木が茂って、展望など期待できない山になっています。
秋はススキが光る山で、その姿は今も脳裏に残っています。
広島の岳人のハイマート、広島県の最高峰恐羅漢山に登るためには、現在の安芸太田町戸河内でバスを下り、そこから標高1000メートルの内黒峠を越えて行くのが通常のルートでした。マイカー時代以前のことです。
タカ長が初めてこの峠を超えたのは12月末、スキーを担いでの恐羅漢行きでした。
その内黒峠には加藤武三の業績を伝える石碑が建てられています。その経緯も表示されています。
ネットから見つけた画像です。
加藤武三著「恐羅漢と周辺の山々」に載せられて写真で、「内黒峠路より見る恐羅漢・牛小屋高原」と紹介されているそうです。昭和30年代初めに撮影されたようです。
タカ長はこの本を持っていないので、この画像の存在は知りませんでした。
タカ長がこの峠を越え始めたころの撮影ですが、このアングルから見た牛小屋高原の記憶はありません。昔のことなので忘れてしまったのでしょうが、もう一つの理由はこの風景を度々見ていないからだと思います。
最初の時こそ昼間に越えましたが、多くの場合内黒峠は夜越えていました。
土曜日の夕刻、ふもとの戸河内に降りたち、それからの峠越えですから、当然のことですが夜道を歩くことになるのです。
暑い夏など、時間的な余裕があってもわざわざ夜道を歩いていました。
夜の内黒峠を越えて、古屋敷の明かりを見た時の、ほっとした気持ちは今も忘れられません。
今は車で越えることが出来る内黒峠ですが、当時は徒歩の道、難所と言って良かったのかも分かりません。
峠の上には避難小屋もありました。三八(さんぱち)豪雪の時は、タカ長たちが逃げるように内黒峠を越えたあと、その近くで遭難事故が発生して3名の登山者が亡くなりました。その遭難碑は峠の近くに建てられています。
語り始めればキリがありませんが、ひとつのコラム記事から青春のころの山歩きを思い出したわけです
どれもこれも、広島から日帰りで登ることが出来なかった芸北山群の、マイカー時代以前の記憶です。
私たちがいま歩くのはあのスキー場の下、牛小屋高原か二軒小屋の駐車場をベースにしての山歩きです。
戸河内からのルートは徒歩はもちろんですが、車で越えることもなくなりました。
どれもこれも、古くなった想い出です。