今日も予報どおり雨です。昨日より雨脚が強く若干ですが風もあります。
そのような天気の中、相棒と町を歩きました。その行き先のひとつが「臨時首都記念館」です。
ここを訪れる日本人はチョッとした韓国通???
正直言って今回プサンに来るまで、タカ長が日常的に生活するモーテルから歩いてゆける距離にそのようなものがあることを知りませんでした。今回初めてネット情報で知り訪ねたわけです。
臨時首都とは朝鮮戦争当時プサンに首都機能が移されていたことを意味し、その当時の建物が記念館として一般に公開されているのです。
1950年におきた朝鮮戦争では開戦後わずか3日目に首都ソウルが陥落しました。そのため1950年8月18日にこの建物に首都機能が移されたわけです。この建物は1926年8月10日に就航した木造2階建ての建物です。1926年から1949年まで慶南道知事官舎として使用されていました。
その建物を臨時首都として使用したと言うわけです。
知事官舎として建てられたので一般の家よりは大きなものですが、しかし、一国の首都としてはいかにも手狭で当時の切迫した状況が見えるように感じました。
タカ長も子ども心に覚えているのですが、朝鮮戦争では最初北が優勢であっと言う間にプサンの近くまで攻め込まれました。ナクトンガンが最後の防衛線になったようです。
その後アメリカ軍のインチョン上陸作戦が成功して形勢は逆転、南はソウルを奪還しますが、こんどは中国が参戦して激しい線とが繰り広げられました。そのため首都は再びプサンに移されたわけです。
その間の3年、1000日間ここに臨時首都が置かれたわけです。
その概略は記憶にありましたが、そのことはタカ長にとっては歴史的事実として記憶しているだけでした。この記念館を見学して強く感じたのは、そのような南北の攻防の影に多くの韓国の人たちの地のにじむような苦労があったということです。
考えてみれば極々当たり前のことですが、朝鮮戦争を単なる歴史的事実としてしかとらえていなかったことを恥じる思いがしました。朝鮮戦争時代韓国庶民は食うや食わずのギリギリの生活を続けていたわけです。いつの時代のどの戦争でも一番苦労するのは一般の国民なのです。
そのことを強く感じた見学でした。
書斎。戦争当時の李承晩大統領は執務の続く中この部屋で休息を取り、食事をするなど多くの時間を過ごしたといわれます。
大統領の蝋人形が精巧でハッとするようでした。
李承晩大統領夫妻の寝室。螺鈿タンスや箱など寝室を装飾するための生活家具が置かれていました。
応接室。朝鮮戦争当時、実質的に大韓民国政治の最終決定と対外的な外交業務が行われた部屋。
これはトイレ。表向きの業務の場だけでなくトイレや風呂、食事をする部屋や台所なども公開されていました。いろいろな記念館がありますがトイレまで公開しているところがほかにあるのかどうか、タカ長には分かりませんが、このような公開で生活の香りも感じることが出来ました。
初めて訪れた小さな記念館ですが、今回のプサン滞在のいい思い出になりました。
プサンにこられる機会があれば、チャガルチや国際市場だけでなくこのような場所も見学されるようお勧めします。
そのような天気の中、相棒と町を歩きました。その行き先のひとつが「臨時首都記念館」です。
ここを訪れる日本人はチョッとした韓国通???
正直言って今回プサンに来るまで、タカ長が日常的に生活するモーテルから歩いてゆける距離にそのようなものがあることを知りませんでした。今回初めてネット情報で知り訪ねたわけです。
臨時首都とは朝鮮戦争当時プサンに首都機能が移されていたことを意味し、その当時の建物が記念館として一般に公開されているのです。
1950年におきた朝鮮戦争では開戦後わずか3日目に首都ソウルが陥落しました。そのため1950年8月18日にこの建物に首都機能が移されたわけです。この建物は1926年8月10日に就航した木造2階建ての建物です。1926年から1949年まで慶南道知事官舎として使用されていました。
その建物を臨時首都として使用したと言うわけです。
知事官舎として建てられたので一般の家よりは大きなものですが、しかし、一国の首都としてはいかにも手狭で当時の切迫した状況が見えるように感じました。
タカ長も子ども心に覚えているのですが、朝鮮戦争では最初北が優勢であっと言う間にプサンの近くまで攻め込まれました。ナクトンガンが最後の防衛線になったようです。
その後アメリカ軍のインチョン上陸作戦が成功して形勢は逆転、南はソウルを奪還しますが、こんどは中国が参戦して激しい線とが繰り広げられました。そのため首都は再びプサンに移されたわけです。
その間の3年、1000日間ここに臨時首都が置かれたわけです。
その概略は記憶にありましたが、そのことはタカ長にとっては歴史的事実として記憶しているだけでした。この記念館を見学して強く感じたのは、そのような南北の攻防の影に多くの韓国の人たちの地のにじむような苦労があったということです。
考えてみれば極々当たり前のことですが、朝鮮戦争を単なる歴史的事実としてしかとらえていなかったことを恥じる思いがしました。朝鮮戦争時代韓国庶民は食うや食わずのギリギリの生活を続けていたわけです。いつの時代のどの戦争でも一番苦労するのは一般の国民なのです。
そのことを強く感じた見学でした。
書斎。戦争当時の李承晩大統領は執務の続く中この部屋で休息を取り、食事をするなど多くの時間を過ごしたといわれます。
大統領の蝋人形が精巧でハッとするようでした。
李承晩大統領夫妻の寝室。螺鈿タンスや箱など寝室を装飾するための生活家具が置かれていました。
応接室。朝鮮戦争当時、実質的に大韓民国政治の最終決定と対外的な外交業務が行われた部屋。
これはトイレ。表向きの業務の場だけでなくトイレや風呂、食事をする部屋や台所なども公開されていました。いろいろな記念館がありますがトイレまで公開しているところがほかにあるのかどうか、タカ長には分かりませんが、このような公開で生活の香りも感じることが出来ました。
初めて訪れた小さな記念館ですが、今回のプサン滞在のいい思い出になりました。
プサンにこられる機会があれば、チャガルチや国際市場だけでなくこのような場所も見学されるようお勧めします。