在来作物のドキュメンタリー?うーん、大切な問題だってことはわかるよ、でもね、2時間??持つのかなぁ???って正直思ってマイカルのシートに身を沈めた。初めの話題は、在来キュウリ。授業の中で小学生に栽培指導、うーん、よくあるパターンだよな、置農紅大豆本舗だって小松小でやってるし。この調子だと飽きるかも、ってちょっと心配だった。時々挿入される音楽?音?にもどきっとして違和感あった。
でも、次の焼畑栽培の様子を見て、そんな不安はぶっ飛んだ。知識としてはあったけど、茅場のような所に火を入れて作るんだろうって思っていた。なんと杉林を伐採してだものね。杉を切り出して、倒木を片づけて、ツタの根なんかを掘り起こして、十分に火が回るように朽ち葉や枝、灌木なんかを丁寧に積み重ねて、火入れの後も、裸足で歩けるくらいにするんだって話し、これは凄い!どんだけ手かけてんだ!しかも、その種はたった一人のお婆ちゃんが庭先の一坪ほどの家庭菜園で作りついていたっていうんだから。種を保ってきたお婆ちゃんの言葉がまた良い。「あるもの、なくすわけいかんでしょ」
ただちゃ豆、甚五エ門里芋、山形赤根ホウレンソウ、金谷ゴボウ、雪菜、次々に紹介される在来作物、名前はまあ、ほぼ知っている。学校で食農科学ってもん教えてる身だから。でも、それを作っている人たちの思いを聞くのは新鮮だった。作りやすいわけでもなく、市場での扱いもなくなり、周りはどんどん栽培を止めていく、そんな中で、一人その種を守り続けてきた人たちの思い、それが「あるもの、なくすわけいかんでしょ」っていうことなんだな。長く作りつがれてきたものには価値がある、との信念。次の世代に渡さねばならないという使命感。種を守ることを生き甲斐だとまで言い切る老人たちの訥々とした語り口は、易々と過去を振り捨てて顧みない今の風潮を深く鋭く突いていた。
この映画の主役はもちろんこの愛すべき在来作物たちとその栽培者たちなのだが、この野菜たちに日の目を当ててくれた山大の江頭先生とアル・ケッチャーノ奥田シェフの存在は大きい。そう、よみがえりのレシピを準備したお二人だ。学問的興味をはるかに超えて在来作物に惚れぬきひたむきに産地への日参を重ねる江頭教授。個性的な野菜たちの持ち味を斬新を超えて驚きのレシピに蘇らせた奥田シェフ。木訥な在来作物が2人の手で発掘され新しい味覚として立ち現れる。その調理方法のユニークさ、自由さ、どこまでも素材に寄り添おうとするシェフの姿勢。うわぁぁぁっ!喰いてぇぇぇぇ!って生唾のみ込みながら、感動していた。
お二人の力で、今ここによみがえりのレシピが整えられ、この映画スタッフのお陰で、素晴らしいメッセージとして発信された。でも、映画のコメントにも出た通り、今も山形から、日本から次々に在来作物が消えていっている。その流れは変わっていない。ここに登場した在来作物たちは幸せものたちだ。奥田シェフとの出会いがあった。だが、アル・ケッチャーノでの消費量で救いきれるわけはない。もっともっとその土地の食に密着した形でその素材が取り込まれなくてはならない。かつて、その地に欠かせぬ漬け物であったり料理であったりしたように。地域の食文化として再度その地位を確保出来たとき、初めて在来作物たちはよみがえりのレシピを手にするってことだ。
地域地域に細々と伝えられる在来作物、真のよみがえりを準備するのは、その地にあってアイディアをひねり出し、工夫を重ね、努力を積んでいく食のコーディネーターたち、つまり、料理人や食品開発担当者などになるに違いない。で、僕も紅大豆に関わる人間として、その末の末の末の末席にあるってことだ。頑張んなくちゃ!ってやる気をこの映画からもらった人、少なくないと思うな。
でも、次の焼畑栽培の様子を見て、そんな不安はぶっ飛んだ。知識としてはあったけど、茅場のような所に火を入れて作るんだろうって思っていた。なんと杉林を伐採してだものね。杉を切り出して、倒木を片づけて、ツタの根なんかを掘り起こして、十分に火が回るように朽ち葉や枝、灌木なんかを丁寧に積み重ねて、火入れの後も、裸足で歩けるくらいにするんだって話し、これは凄い!どんだけ手かけてんだ!しかも、その種はたった一人のお婆ちゃんが庭先の一坪ほどの家庭菜園で作りついていたっていうんだから。種を保ってきたお婆ちゃんの言葉がまた良い。「あるもの、なくすわけいかんでしょ」
ただちゃ豆、甚五エ門里芋、山形赤根ホウレンソウ、金谷ゴボウ、雪菜、次々に紹介される在来作物、名前はまあ、ほぼ知っている。学校で食農科学ってもん教えてる身だから。でも、それを作っている人たちの思いを聞くのは新鮮だった。作りやすいわけでもなく、市場での扱いもなくなり、周りはどんどん栽培を止めていく、そんな中で、一人その種を守り続けてきた人たちの思い、それが「あるもの、なくすわけいかんでしょ」っていうことなんだな。長く作りつがれてきたものには価値がある、との信念。次の世代に渡さねばならないという使命感。種を守ることを生き甲斐だとまで言い切る老人たちの訥々とした語り口は、易々と過去を振り捨てて顧みない今の風潮を深く鋭く突いていた。
この映画の主役はもちろんこの愛すべき在来作物たちとその栽培者たちなのだが、この野菜たちに日の目を当ててくれた山大の江頭先生とアル・ケッチャーノ奥田シェフの存在は大きい。そう、よみがえりのレシピを準備したお二人だ。学問的興味をはるかに超えて在来作物に惚れぬきひたむきに産地への日参を重ねる江頭教授。個性的な野菜たちの持ち味を斬新を超えて驚きのレシピに蘇らせた奥田シェフ。木訥な在来作物が2人の手で発掘され新しい味覚として立ち現れる。その調理方法のユニークさ、自由さ、どこまでも素材に寄り添おうとするシェフの姿勢。うわぁぁぁっ!喰いてぇぇぇぇ!って生唾のみ込みながら、感動していた。
お二人の力で、今ここによみがえりのレシピが整えられ、この映画スタッフのお陰で、素晴らしいメッセージとして発信された。でも、映画のコメントにも出た通り、今も山形から、日本から次々に在来作物が消えていっている。その流れは変わっていない。ここに登場した在来作物たちは幸せものたちだ。奥田シェフとの出会いがあった。だが、アル・ケッチャーノでの消費量で救いきれるわけはない。もっともっとその土地の食に密着した形でその素材が取り込まれなくてはならない。かつて、その地に欠かせぬ漬け物であったり料理であったりしたように。地域の食文化として再度その地位を確保出来たとき、初めて在来作物たちはよみがえりのレシピを手にするってことだ。
地域地域に細々と伝えられる在来作物、真のよみがえりを準備するのは、その地にあってアイディアをひねり出し、工夫を重ね、努力を積んでいく食のコーディネーターたち、つまり、料理人や食品開発担当者などになるに違いない。で、僕も紅大豆に関わる人間として、その末の末の末の末席にあるってことだ。頑張んなくちゃ!ってやる気をこの映画からもらった人、少なくないと思うな。